2014年7月22日火曜日
『漱石東京百句』記念 第5回船団フォーラム・・・
先週、7月19日(土)に、日本出版クラブ会館で行われた、百句シリーズ『漱石東京百句』(坪内稔典・三宅やよい編、創風社刊)のフォーラムに出かけた。講演は「漱石の感受性」と題して中島国彦。パネルディスカッションは司会に坪内稔典、パネラーに田中亜美、八木忠栄、三宅やよい。
当日は雨模様ながら、神楽坂界隈は祭りの人出でにぎわっていた。
地下鉄神楽坂駅を降りて、赤城神社にでもお参りしてからと思ったが、浴衣姿の若い女性たちが参道にあふれるほど並んでいたので、お参りはあきらめ遠くから拝んだのみ。
通りに戻って出版クラブ会館に向おうとしたところでねじめ正一氏に久しぶりで会った。
氏は、愚生が勤めていた吉祥寺駅ビルロンロン(現在はアトレ)の本屋の並びのねじめ民芸店におられた。お互いがまだ20歳代のころだ。
愚生が詩歌の担当で、彼の詩集が入ると棚にならべていた(ねじめさんはよく見にきておられた)。
そうこうするうちに、少し言葉をかわすようになり(お互い恥ずかしかったのだ)、愚生の『本屋戦国記』(北宋社)の出版記念会を四谷弘済会館でやったときに、ねじめ氏は詩の朗読、福島泰樹氏が短歌絶叫をやっていただいた。
当時の愚生は、まだ俳人を公に名乗っていなかったので、書店労働組合の闘争史だった『本屋戦国記』に花を添えていただいたのはいまだに光栄の思っている。
思えば、この出版記念会の発起人の一人が埴谷雄高氏で、すでに眼を少し悪くされていた埴氏は夜の外出はひかえられていた。その埴谷氏は自分の本が出ると(自身の本は売れないとおもってらしたので)、その都度、書店店頭に並べる30冊くらいにサインをしていただいていたのだ(もちろん『死霊』はもう売れていた時代だった)。
発起人になっていただくときも「ぼくの名がでると迷惑がかかるんじゃないか・・それでもよければ」とおっしゃって引き受けてくださった。
その氏のエピソードを一つ。
あるとき春闘の最中で赤い腕章を腕につけたまま、埴谷氏とお茶を飲んでいたら、氏が「それはなんですか」と尋ねられ、「春闘」です、と答えたら、「春闘ってなんですか?」と言われた、戦前からの闘士で政治論集まで出されているイメージがあったので、そのときは驚いた。
氏は風呂が好きで、近くの井の頭公園をよく散歩していた。
従って愚生は、氏とは難しい話をした記憶がない。
その記念会には300人ほどの参加があったが、中には京都から埴谷さんに会いに来た(愚生にではなく)という人もいた。俳人はほんとんどいなかったが、それでも攝津幸彦さんなど数人に案内状を差し上げて出席していただいた。
話を元にもどすと、船団フォーラムの会場に少し早めに着いてしまったねじめ氏と愚生は、これまた病癒えてすっかり元気になった坪内氏と三人で歓談。思えば20代後半で坪内氏の「現代俳句」(ぬ書房のち南方社刊)創刊に作品30句を依頼されて、愚生は、およそ三年間の休筆から、俳句復帰を果たしたのだった。
ところで、フォーラム参加者は漱石に因む一句を投句することができて、懇親会で披露ということだったが、愚生は用事ができて失礼したので、詳細は不明である。愚生の投じた句は以下・・。
それからは屏風に聞ける水の音 恒行
*閑話休題・・・
今日は帝劇、明日は三越ではないが、都内にでたついでに今日は帝国劇場そばの出光美術館「鉄斎」を観た。富岡鉄斎、歳をとって晩年の墨のみで描いた絵の奔放自在が特にいい。それも80歳代。
ついでに、山種美術館「クールな男とおしゃれな女ー絵の中のよそおい」、三菱一号館美術館「冷たい炎の画家ーヴァロットン展」も・・
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