2014年9月17日水曜日
川口真理「我が顔にさくらのいろのうつらざる」(『双眸』)・・・
川口真理句集『双眸』(青磁社)。久しぶりに装幀のいい句集に出会った。派手ではないが、静謐な趣を讃えたシンプルさがある。前小口の紺の鮮やかさも美しい。瀟洒である。ともあれ、装幀もまた書物の内容を規定するものであって、その意味では、すで川口真理という人の句の姿までが見えるようだ。
淡々と来たる足音寒夕焼 真理
序は、大牧広、跋は中嶋鬼谷。いずれも川口真理のリリシズムに期待を寄せている。
愚生などが、これ以上述べることは愚の骨頂だから留めるが、唯一の気がかり(不満)は次の句などにある。「淋しからず終戦の日の蝶の香は」の「終戦」が「敗戦」であったならば、愚生は文句なく、この句を推したかも知れない。「終戦」と「敗戦」、たった一語にしかすぎないが、この語の認識の径庭は意外と大きい。しかし、このことは愚生の単なる愚かなイデオロギーに過ぎないのかも知れない。たぶん「終戦の日」が季語として選ばれているからそう思うのだろう。「終戦の日」がかの「敗戦の日」でないとしたら、世界のあらゆる戦火の終わりを意味しているのであれば、それは「終戦」と「蝶」の音韻の調べを導くには相応しいとも思えるからだ。
とはいえ、愚生好みの句は多くある。以下にいくつかを挙げて恵送のお礼にかえたい。その前に、「階段の上の真昼や冬の海」の句には、攝津幸彦の「階段を濡らして昼が来てゐたり」や田中裕明「空へゆく階段のなし稲の花」をどうしても思い起こしてしまい、天上の二人への挨拶のようにも思えるのだった。ある年の暮、愚生には急逝とも思えた田中裕明の訃に接したとき、先に攝津幸彦を失い、今、田中裕明を失った、と愚生は、真実そう思ったのである。
サーカスの天幕たたみ春の雪
足のせてつめたき石や麦の秋
鳥たちのあまたの背中春の雪
泣くひとのうしろにひらくしやぼん玉
停電の風あかるかり秋すだれ
悼田中裕明先生
逝く年の空に解く紐ありにけり
家中の椅子みなちがふ竹の秋
我が顔にさくらのいろのうつらざり
かまきりのふりむく柱ありにけり
しぐるるや身の芯にある鳥の性
田中裕明うつすら映し浮寝鳥
ヒルガオ↑
終戦よりも敗戦・・・世代の違いかもしれない。
返信削除世代の違い・・・そうかも知れません。あるいは、思想的な背景が浮き出てくるのかも知れません。それが、句の読みにも影響してくるようです。いずれにしても、コメント有難う。深謝!
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