2014年10月1日水曜日
鴇田智哉「あかるみに鳥の貌ある咳のあと」・・・
鴇田智也『凧と円柱』(ふらんす堂)。
「この句集はいわば、心の編年体による」(あとがき)とは、難しい物言いだ。
心に歴史のような確とした編年があるとも思えないが、鴇田智哉ふうな言いぶりと思えば、それはそれでそうした風貌を感じさせる好ましさがあろう。
咳の句を挙げよう。
あかるみに鳥の貌ある咳のあと 智哉
咳をするたびに金具のひかる家
木の皮が貼りつき咳をしなくなる
鳥と貌なら「水鳥をみる飲食(おんじき)のあとの貌」皆川盤水、「百舌鳥に顏切られて今日が始まるか」西東三鬼などを思い起こしてみてもよいが、いずれも自らの貌のことである。さすれば、「あかるみに鳥の貌」としたのが新味であろうか。しかし、そんな理屈はじつはどうでもいいことなのだ、と思わせる句集でもある。そしてまた、難しい物言いだ、と冒頭に記したようにじつにわかりにくさの伴う句群でもある。
このことは、愚生の感受の衰えにひたすら起因していることだろうから、作者は気にすることはない。
少し気にかかったのは歴史的仮名遣いよりも現代仮名遣いに変記したとすれば、句の姿はもう一段生き生きした姿を現したかも知れない(大きなお世話といわれそうだが・・・)と勝手に思う。
ともあれ、いくつか、愚生の心にとまった好みの句を挙げておきたい。
さざめきのさなかに針をしまふ春
つはぶきは夜に考へられている
塊として菜の花にうづくまる
ウミネコはガードレールを見たとのみ
円柱の蟬のきこえる側にゐる
そうそう、「あかるみに鳥の貌」の「あかるみ」は「空風のあかるみに木のまぎれたる」の「あかるみ」だとすれば、よくわかる気がする。
*閑話休題・・・(今年の田中裕明賞はこれでキマリかな???、果たして行方は・・いかに)
エンゼルトランペット↑
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