2015年2月17日火曜日
「不思議な共感」の「みことかな」三橋敏雄・・・12
「みことかな」と題して三橋敏雄は、「俳句評論」200号・終刊号(昭和58年12月)に「追悼・高柳重信」を書いた。その中に三橋敏雄が初めて「高柳重信を東京代々木上原の俳句評論社に訪ねたのは、昭和四十年一月二十日であった」と明確に記している。この日、三橋敏雄は高柳宅から数分しか離れていない場所に引っ越してきて、一段落して銭湯に行き、帰り道に予告なく、突然、高柳を訪ねたのであった。
代々木上原の不動産屋の最初の斡旋は高柳宅の一軒おいて奥隣りだったらしいが、さすがにあまりに近すぎるので、数分ほど離れたところに引っ越したのだ。
これには、少し訳があって、いつだったか、夫人の三橋孝子(三鬼晩年の弟子の一人)から直接伺ったことがある。
「孟母三遷の喩えがあるでしょ・・・。トシオちゃんのためにはジュウシンさんの傍がいい。私が勝手に引っ越しを決めたのよ」。
当然ながら敏雄は「高柳訪問をごく自然なかたちで実現させようという、年来の私の思いに、いささか慌しく一致するものであった」と記し、高柳はその訪問について、
彼と僕とは、歩いて数分の距離といい、ともに歎き、ともに苦笑するための、いわば、もっとも手頃な相手であった。(中略)
彼と僕とは、遠くで呼び応える不思議な共感を、共に心の内側に抱いてきたのであった。だから、彼と僕とが話していると、外見の甚だしい相違にもかかわらず、性格や性質の端々にまで、類似が類似を呼びあい、しかも、その類似は、とめどなく伝染してゆくのであった。
それら「不思議な共感」の一例として、昭和46年の名古屋における第14回俳句評論全国大会のあと飛騨高山に俳句評論同人一行と遊んだとき、「すでに高柳の近所から八王子の家にもどっていたが」、時折作品を見せ合っていた。そのなかに飛騨の近作を交換した途端、二人には終章を「みことかな」とする句がいくつかあったのである。それを三橋敏雄は「私は彼と共に、かの飛騨の地より全く同じ言葉を拾ってきた一致をよろこんで、いさぎよく下りることとした。拙句はのちに『風干しの肝吊る秋の峠かな』ほかに改めて生かした。/高柳の死は、たとえば右のような同経験的な『不思議な共感』を私から奪った。この上は、永遠に彼の近所に引っ越さなければなるまい、とも思う」と述べた。その三橋敏雄が高柳重信の近所に永遠に引っ越したのは2001(平成13)年12月1日のことだった。
そして、三橋敏雄の「風干し」の句は、のちに句集『鷓鴣』に収められ、三橋敏雄から高柳重信にゆずられた「みことかな」の句群は、
飛騨(ひだ)の
美(うま)し朝霧(あさぎり)
朴葉焦(ほほばこ)がしの
みことかな 高柳重信
飛騨(ひだ)の
山門(やまと)の考(かんが)へ杉(すぎ)の
みことかな
飛騨(ひだ)の
闇速(やみはや)の泣(な)き水車(すゐしや)
依(よ)り姫(ひめ)の
みことかな
など飛騨「みことかな」連作の十句となって、のちに『山海集』の冒頭を飾ることになった。
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