2015年4月21日火曜日
高屋窓秋「花の悲歌つひに国歌を奏でをり」・・・
あと数日・・4月26日(日)午後1時半~「俳人『九条の会』、王子の「北とぴあ」・15階ペガサスホールで、愚生は「高屋窓秋について」と題して講演することになっている。どうにでも話せるように、あいまいな題をお願いしておいたが、あいまいな故に、いまだに何を話してよいのやら迷っている。
「俳人・九条の会」だから、愚生より先に講演される方は、弁護士・澤藤統一郎という方で、たぶん現今の情勢について具体的に話されるだろう。その題は「『思想の自由』と『表現の自由』との今ー権力と社会的圧力に抗してー」である。きっと有意義な話に違いない。
問題は愚生の軟弱な講演?だろう。高屋窓秋は「僕の言葉は、視覚への定着から、つねに離れようとする。できれば、それに徹したい、とさえ思っている。絵画など到底及ぼさないように」(百句自註)というその透視のシンプルさを貫いた人だ。また、「言葉が言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、そうした形式主義的な僕の世界、つまり、技術者として生長して来た僕は、それだけにその活躍を今後にこそ期待されなければならない・・・」と昭和十年「馬酔木」5月号に「訣れの言葉」を記して「馬酔木」を去り、俳句まで止めてしまう。しかし,俳句を辞める宣言するとほぼ同時に句集『白い夏野』(龍星閣)を出版し、その2年後には、沈黙を破って、書下ろし40句の句集『河』(昭和12年・龍星閣)を上梓し、結婚して遠く満洲に去っている。昭和13年、窓秋28歳のときである。
河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ 窓秋(昭和12年)
嬰児抱き母の苦しさをさしあげる
そして、『河』は俳壇では、じつに評判の悪い句集となった。この「河」の一連の作品をみて、石橋辰之助は「こんなことを書くと捕まるぞといった」(百句自註)という。
直後、満州に渡った窓秋に、憲兵が来て「京大俳句」との関係を訊ねた。
長い休止を、間歇泉のように作品生み出してきたミスター新興俳句こと、高屋窓秋は最後まで新興俳句の精神の人であったし、彼の話の終りは、いつも、平和と核のことだったことだけはたしかである。愚生の弘栄堂書店における最後の句集の仕事は三橋敏雄の口添えもあって実現した高屋窓秋最後の句集『花の悲歌』だった。挿画は糸大八。思い出深い一冊となった。
『花の悲歌』(弘栄堂書店)↑
死の灰に人は馴染めり天がふる 『花の悲歌』(1993年)
死の灰の天がひろがり天がふる
核の冬天知る地知る海ぞ知る
血に染みし遺品の白旗なりしかな
永遠と宇宙を信じ冬銀河
雪月花美神の罪は深かりき
白く又黒きひかりの冬の旅
わたくしも爽秋のこの句集を時々読み直します。いいですね。現象を離れながら、また現象へ帰るような循環する思いがあります。
返信削除永遠と宇宙を信じ冬銀河
雪月花美神に罪は深かりき
白く又黒きひかりの冬の旅
やはり、ストレートに言わない方が沈み込んだ強さがありますけど。「死の灰」もこういう句になると、啓示性がましてきます。講演頑張って。
コメント、有難うございます。同じ題で、次回は6月27日(土)に現代俳句講座で話をすることになっています。なかに両方を聞きにくる?方がいたしたらも申し訳ないので、少し、内容を変えなけれればいけませんね・・・。
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