掲出の鳥居真里子「
うぐひすの空の真中の坐忘かな」の句は鈴木節子「門燈集珠玉抄」に挙げられている句である。この句、愚生は勝手に、先日亡くなられた和田悟朗への追悼句として読んだ。
それは、和田悟朗第8句集『坐忘』(花神社)があり、かつその句集の題ともなった句「
冬山の姿定まり坐忘かな」を踏まえ、挨拶をしていると思ったからだ。思えば、鳥居真里子の所属する「船団」においても、和田悟朗は、宇多喜代子とともに健筆をふるわれていた。
ついでと言えば失礼なのかも知れないが、「坐忘」と言う言葉は、和田悟朗は当初、自身の造語である積もりだったがと言葉を挟んだのちに、句集「あとがき」において、広辞苑に「正坐して心をしずめ、自分を取り巻くものを忘れること」とあると言い、荘子の内編第六「大宗師篇」にも「顔回曰わく、枝体を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同(どう)ず、此れを坐忘と謂うと」。続けて「ああ、ぼくは聡明を黜け知を去ったのではなく、ただ無知であったに過ぎなかったことが判った」と述べているのだ。
とはいえ、早いもので「門」は鈴木鷹夫を喪って、今年3回忌を迎えた。「門」を継承した主宰・鈴木節子は「脚註シリーズ・鈴木鷹夫集」(俳人協会)を前書「鷹夫脚註句集出版」として、以下のように詠んでいる。
しやぼん玉死後もその名の生きてます 節子
「門」のご恵送、深謝!
シャガ↑
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