2015年4月27日月曜日
俳人「九条の会」新緑の集い・・・
挨拶する大牧広氏↑
昨日、4月26日(日)は、北区王子の北とぴあで、「俳人『九条の会』新緑の集い」が行われた。俳人「九条の会」はもとはといえば2004年に、大江健三郎や鶴見俊輔らが呼びかけて創られた「九条の会」に呼応して、2005年3月3日に金子兜太・石寒太・大牧広・夏石番矢・復本一郎・諸角せつ子など15人の俳人たちの呼びかけで結成された会である。
この日は、「『思想の自由』と『表現の自由』の今」と題して、弁護士の澤藤統一郎と俳句関係では愚生が「高屋窓秋について」と題して講演をした。
弁護士・澤藤統一郎は靖国訴訟、日の丸・君が代訴訟を手掛け、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を安倍内閣誕生の時から、毎日書かれている。昨日ですでに766回を超えた。DHCから賠償請求訴訟を起されている被告であるという。
「新緑の集い」の開会は、田中陽、閉会の挨拶は大牧広だった。参加者約120名。
愚生の高屋窓秋については、新興俳句の金字塔のような「頭の中で白い夏野となつてゐる」「ちるさくら海あをければ海へちる」「山鳩よみればまはりに雪がふる」という、窓秋22~23歳の作品のみが人口に膾炙し、甘美な抒情の俳人であったという伝説のみが独り歩きしているようだが、書下ろし40句の第二句集『河』(昭和12年)に抱え込まれた社会に対する批評的なまなざしこそが、高屋窓秋最晩年句集『花の悲歌』までを貫いているものだという趣旨のお話しをした。
また、新興俳句運動の切り開いた詩法の柱は①題詠と②連作であり、窓秋はその方法を最後まで手ばなさずに貫いているということ。
『河』(昭和12年)は窓秋27歳。『花の悲歌』は83歳の時の刊行である。
以下に『河』と『花の悲歌』から句をいくつか挙げておこう。
河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ 窓秋
日むなしくながれ流れて河死ねり
母も死に子も死に河がながれてゐた
嬰児抱き母の苦しさをさしあげる
痩せて飢ゑて嬰児が胸の母
おのれなき屍曳きゆき渇く夜か
花を縫ひ柩はとほく遠くゆく
「回想」と題された4句のうちの一句「花を縫ひ」(昭和12年)に窓秋は、「9年の後、満洲の野にわが子を葬ったとき、このような光景であった。『河』はまるで葬送曲のようであった」(百句自註)と述べている。長女・鞠子のことである。
核といふ一語に尽きて日が没す 『花の悲歌』
兵一個骨一個又肉一片
核の冬天知る地知る海ぞ知る
死の灰に人は馴染めり天がふる
砲弾に罪なき十万億土かな
花の悲歌つひに国歌を奏でをり
永遠と宇宙を信じ冬銀河
雪月花美神の罪は深かりき
そして、高屋窓秋がいつも最後に話すことは平和と核のことであった。
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