2015年4月28日火曜日
「角川書店」の消滅(「大波小波」)・・・
去る4月24日の東京新聞「大波小波」が、「『角川書店』の消滅」として、2013年グループ9社を合併し「KADOKAWA」が発足、本年4月1日に、その社内カンパニー制を廃止して「角川書店」「富士見書房」などのブランド名は残るものの組織名からは消滅した,と(BUNGAKU)氏は書いている。そして最後に「それゆえ今回の『消滅』は自社が仕掛けた市場に自身が呑み込まれてしまったように見える。これも運命と新たなコンテンツ産業を仕掛けるのか、はたまた市場の藻屑と消え果てるのか」と続けている。
軌を一にするように、「俳句」5月号は鈴木忍編集長の交代(退社?)の編集後記があった。角川「俳句」の初の女性編集長だった彼女の華麗なる転身はあるのか、是非期待したいとところだが如何に?。
ともあれ、愚生らの時代は角川といえば、角川源義のことを思い出さずにはいられない。
そしてまた、高柳重信と源義との、いまからおもえばある種の信頼関係があったと確かに思えるのでもある。
かつて、重信の口から「源義は頑固なんだよ」と、ふと漏らした声を聴いたようにも思う。
その高柳重信は「俳壇時評ー角川源義の死」(「俳句研究」昭和51年2月・追悼文は三谷昭と加倉井秋を)で、以下のように偲んでいる。
もっとも、源義と僕とは、一般に俳壇で考えられているほど、絶えず対立して仲が悪かったというわけではない。 (中略) だから、源義が「河」を創刊して間もなく、同志と信頼していた数名に一種の反乱を起こされたときなど、それまで甘い言葉しか掛けてくれなかった人たちすべてに対して疑心暗鬼となり、その唯一の例外の僕だけが正確な情報を伝える可能性のある人物と考えられ、その相談相手に選ばれたことがあった。そういうときの源義を、つくづく孤独な人だと、僕は思った。
僕は源義に対して、それこそさまざまな批判を口にしてきたが、その俳句については、ついに一度も触れたことはなかった。おそらく、源義は、そのことが気がかりであったにちがいない。
そこで、新しい句集が出るたびに、かならず僕の家に持参して、直に僕の口から批評の言葉が出るのを期待する風情であった。しかし、僕の態度は最後まで変わらなかった。
いま、ここで僕が特に言っておきたいと思うのは、俳句形式に対して、みずから一つの経綸を抱き、その実現に本気で邁進しようとするとする俳人が皆無に等しいとき、それと類を異にした唯一の例外が、この源義であったということである。源義はその経綸に殉じたのであった。そして、何かが終ったのである。
源義が没したのは1975(昭和50)年、享年58.すでに没後40年である。「俳句文学館」創設によって、いま多くの俳句関係者はその恩恵を受けている。その後、高柳重信の没したのは83(昭和58)年、享年60だった。重信もまた頑固だった。そしてまた、何かが終っていたのだ。
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