2015年11月12日木曜日
安井浩司「蓮折れば夕がらすのみ微笑して」(「詩あきんど」第20号評より)・・・
興味ある記事を目にしたので紹介する。
「HAIKAI其角研究『詩あきんど』第20号」(オフィスふとまにあ・編集発行 二上貴夫)の巻末【受贈書より】の、安井浩司『宇宙開』の紹介記事に(編集部とあるが二上貴夫であろう)、句集より70句が選句掲載されているが、それよりも、愚生が興味を持ったのは、以下の引用文の終わりに、引用された句が90余句にも及んでいることだ。それには、以下のように書かれている。
ところで、わたくし共「詩あきんど」は非懐紙連句の実作に志しているのだが、「連句」の「第三」と似通う文体を安井氏が実作されているのに驚いた。「第三」の文体とは、連歌の式目に五七五の下五を「て」「に」「にて」「らん」「もなし」の五つで止めよとあるもので、俳句の文体に採り入れたものとしては、
白桃を夢見てをりぬ病み呆けて 真鍋呉夫
寒茜われもけものの影曳きて 『定本雪女』より
竜骨となりし破船に月冴えて
等があったが、この様に多用した句集は珍しい。と言って連句の「第三」や「平句」の模倣ではなく、「発句」の必要条件である「切レ」についての、即ち「切=開」といった「手爾波留め」の実験と思われ、参考に次に書き出してみた。
蓮折れば夕がらすのみ微笑して
天地玄黄筆に濁酒をふくませて
春のやみ御伽這子(ぼこ)らが跋扈して
真日めざす後ろ開きの服を被て
と続き、90余句の引用となるのである。そして、また先の70句の選出には以下のように評してもいる。
選をして永田耕衣の言う、通俗的なるものを以って自己の通俗性を克服せよという「通俗性の荘厳」を思い出した。『宇宙開』の文体を想像世界と現実世界の組み合わせと取る批評もあろうが、そうではなく現実世界の通俗的なるものこそ超通俗性の宇宙的なる荘厳を得る道だと解したい。
見逃せない卓見だと思った次第・・・。
「詩あきんど」は愚生も拝読。
返信削除〈「手爾波留め」の実験〉というよりは、
以前、大井さんに編纂頂いた拙著『可能性としての連句』でのべたように、
「連句への潜在的意欲」をやはり感じました。
とまれ連句的文体に俳人はもっと敏感であるべきで、
その意味では貴ブログの提言も又「詩あきんど」同様貴重かと拝察した次第です。
(ぜんかいはPCの不具合でうまくコメントできず失礼しました。)
いろいろ、貴重なご意見有難うございます。
削除取り上げていただき、またコメントありがとうございます。
返信削除「詩あきんど」は、橋閒石が非懐紙に込めた憶いと意志を継ぎ、歌仙の形式ではなく可能性を開くべく「非懐紙連句」を実践する会です。従い式目に縛られることなく、且つ母胎としての歌仙(芭蕉)の持つポエジイあるいはイロニイとしての古層を尊重し、現代の文芸として再生できるかに挑戦しています。その過程で安井浩司氏の俳句の〈一面〉を見出し、「第三」の句作方法としての活用を志しています。(編集委員の一人)