2015年12月20日日曜日
金子兜太「朝蟬よ若者逝きて何の国ぞ」(「WEP俳句通信」89号)・・・
兜太ばかりがなぜもてる!というわけでもないが、今年の話題は「安倍政治を許さない!」をはじめ、インタビュー記事など、さまざまに目にしているのだが、俳句総合誌が、金子兜太に関する、これといった特集を組んでいないのは、およそ批評的態度の喪失したものと思われても仕方のないところだったろう。
そうした中で「WEP俳句通信」89号は特集「金子兜太という表現者」を組んでいて、いわゆる重鎮から中堅、若手俳人の執筆陣を含めてずいぶんと読み応えのある企画となっている。
特集の巻頭には、当然といえば当然なのだが「金子兜太最近作20句・旧作50句」も挙げられ、簡明な句業を知ることもできる。
金子兜太側近として安西篤は「金子兜太の歩みを辿る」と題して丁寧である。他には、池田澄子、今井聖、岸本尚毅、田中亜美、筑紫磐井、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名が、いずれも怪物・金子兜太に渾身を賭しての批評を試みて、気持ちがいい。いわば、金子兜太の俳句の現在的な位置を知るにはいい特集である。中でも20ページを費やした筑紫磐井「新しい詩学のはじまり(一)-兜太造型論の未来」は圧巻である。それは「創る自分」という兜太のかつてのキーファクターを再評価して浮びあがらせていることと「注9」にさらりと流し込んでいる以下の視点に凝縮されていよう。
【注9】 この俳句史の図式については堀切実氏の『現代俳句に生きる芭蕉』(二七年十月ペリカン社)が言及している。堀切論文は元々芭蕉の近・現代俳句への影響を論じたもので、兜太論の中では伝統と反伝統、子規の位置づけを論じている。ここで子規は反伝統だと言う私に、子規は季題と伝統を守って芭蕉につながる伝統派であると反論する。私は、兜太の〈創る自分〉の原点だという意味で子規を反伝統としただけである。ただ、実践的意味で、二一世紀の新しい俳句は芭蕉から生まれるのは難しく、子規~兜太の系譜からこそ生まれるだろうと予測する。
そういえば、かつて愚生が金子兜太と話した折りに、戦後もっとも影響を受けたのはサルトルの実存主義だな・・と言っていたのを思い出す。その時、確かにそうかも知れないと思った。愚生らは壮大なゼロと言われた70年安保闘争に向かっていたが、その時代にもまだまだ実存主義は流行していた。
兜太の最近作からもいくつかあげておこう。
青春の十五年戦争の狐火 兜太
わが海市古き佳き友のちらほら
白曼珠沙華白猫も居るぞ
緑渓に己が愚とあり死なぬ
朝蟬よ若者逝きて何の国ぞ
暑し鴉よ被曝フクシマの山野
*番外編・・・因みに「豈」同人・北川美美の連載・三橋敏雄論「『真神』考ー昭和・戦争・鉄からのはじまり」は2回目、期待大。
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