高岡修第6句集『水の蝶』(ジャプラン)は、新年早々の上梓ながら(届いたのが新年、奥付は昨年12月20日)、はや本年の収穫筆頭句集に上げてみたい誘惑にかられる。装丁も著者自装。
「あとがき」に言う。
もちろん、日本の果てに住む私に3.11の経験はない。どれもが報道で知ったものであり、それらによって醸成された心象風景である。
しかし、その現実が差し示しているものは、それが私の現在の詩的想像力の全てだということにほかならない。それを限界だとするむきもあるだろうが、今後の私の句作は、これらの作品の発表を超えてしかなされないであろうことも事実である。
アドルノのあまりに有名になってしまった「アウシュビィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」の言説にどこかで通じているようなものいいである。文化こそ、効率こそが野蛮・・・
ともあれ、愚生らはいつもその野蛮を意識することなしに、歩を進めることが不可能なのだ、ということなのかも知れない。
文学臭というなら、かく文学臭のする句集も現在は珍しくなってしまった感がする。それだけに貴重な一本なのである。
感銘句をいくつか挙げたい。
あおあおと銀河にもある津波痕 修
肉のかげ恋うかに揺れる蛇の衣
犬と来て虚無に噛みつく秋の影
滅びゆく銀河にも垂れ烏瓜
鶴発てば地もひろげゆく影の羽
直瀑よ この垂直の昏倒よ
踏切りを渡れるは地震/春の死者
その樹液熱きか内部被曝の木
鳥雲を出て鳥にある死のほてり
水底の神輿をかつぐ死者の声
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