2016年1月7日木曜日
坪内稔典「東風吹いて日本は戦争放棄国」(『ヤツとオレ』)・・・
句集名『ヤツとオレ』(株・KADOKAWA)は、以下の句に因んでいる。俳句日記とでもいおうか、日付と詞書が付されている。
夏めいて蛸めいてヤツそしてオレ
5月7日。「けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠に
そこに(◎◎◎)生きてゐた」(萩原朔太郎「死なない蛸」)
坪内稔典も古稀を超え71歳という。愚生が立命館大学夜間部に入学して、百万遍寮に入寮、昼間に行われている立命俳句会に入ったときには、坪内稔典は別の俳句会を組織していた。かつ出町寮の寮長をされていたと思う。当時の立命館大学の学生寮は、舎監がいたものの入寮した学生自身の手ですべてが運営されていた、いわば自治寮だった。70年安保闘争直前の寮はデモへの最大動員が可能な場だった(その後、機動隊の導入など、強制執行によって寮も多くは廃寮された)。
あれから、ほぼ半世紀が経ってしまったのだ。そして、坪内稔典は「日時計」を創刊し、その後「現代俳句」(南方社)を発行するなど、俳句総合誌を向うに回して、自分たちのメデアを創り、自分たちの場を自らで創って、自分たちのめざす俳句を追求し、既成の俳句・俳壇に対抗し続けてきた(そのことの志は、内容はさまざまあってもいまだに貫かれていると思う)。
それでも、愚生は坪内稔典第12句集『ヤツとオレ』を読み終えたときのさびしさは一入だった。この半世紀坪内稔典の後ろ姿を見続けてきたと、いや、とにかく、どうであろうと、坪内稔典の行く末は見届けたいと思っているのである(かつて愚生は、22~3歳頃、俳句は読んでも、意識的に俳句を書かなかった時期が3年間くらいある。そうしていた頃、坪内稔典は創刊される「現代俳句」に愚生の俳句作品を書くように依頼した。それをきっかけに愚生は句作を再開したのだった)。
自分でもよく分からないが、それが愚生の坪内稔典への恩義だと思っている節があるのだ。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。
老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗 稔典
木の芽和え百年前の今夕も
尼さんが五人いっぽんずつバナナ
日本に憲法九条葦芽ぐむ
東風吹いて日本は戦争放棄国
人が蛸蛸が人食い蛸踊り
5月14日。もう無茶苦茶!ほとんどお手上げです。
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