「未来図」3月号の特集は未来図32周年記念大会。記念吟行や写真がふんだんにあって記念号らしく明るい。通常号の連載ものに、「豈」同人でもある飯田冬眞「現代俳句逍遥」、そして角谷昌子「時代を担った俳人たち㉗ー平成に逝った星々」の興味ある記事がある。その角谷昌子の星々の一つの古沢太穂論が、今号の連載三度目でひとくぎり、次号からはまた別の星を訪ねるのだろう。古沢太穂というと、いわゆる社会性の濃いリアリズムの作品、闘争の過程で多くの佳句、秀句を残した俳人として記憶されているが、角谷昌子の論はそれらに加えてロシア文学による影響を読み解いてみせる。
折しも、古沢太穂生誕100年を記念した大冊の『古沢太穂全集』(新俳句人連盟)と一昨年、戦後70年を期すように『古沢太穂全集補遺ー戦後俳句の社会史』(新俳句人連盟刊)も刊行され、古沢太穂の全貌を知るには格好のテキストが揃ったところだった。その成果を糧に、角谷昌子は以下のように述べている。
五木寛之はドストエフスキーとゴーリキイを対比させ、前者は「ゆるす」人であり、後者は「責める」人だと言う。(中略)それこそがロシア文学が日本人を惹きつける秘密だとも述べる。
そうすると太穂は、「ゆるし」と「責め」の人であり、「恐ろしさ」と「優しさ」という両極が備わっていた俳人だと思えてくる。
そして角谷昌子が挙げた句の中から以下にいくつかを挙げておこう。
かかる八月熱いもの食べ空を鞭 『火雲』
蜂飼のアカシアいま花日本海 『撒かるる鷗』
怒濤まで四五枚の田が冬の旅 〃
霜の土昭和無辜(むこ)の死詰めて逝く 『うしろ手』
ところで、愚生は一度だけ古沢太穂に会ったことがある。それは「俳句空間」8号(1989年)で「さらば昭和俳句」の特集を組んだとき、谷山花猿に「古沢太穂に聞くープロレタリア俳句」についてのインタビュアーをお願いした時だ。確か「道標」の事務所で愚生が立ち合い、その後、近くの呑み屋に一緒に連れて行ってもらったのだ(諸角せつ子も一緒だったように思う)。谷山花猿は現代俳句協会の事務所にもよく顔を出されていて、愚生もよくお会いし、多賀芳子宅での句会でも一緒になったことがある。その谷山花猿が体調を突如崩したと聞いてから幾年もたつ、以来消息不明のままだ。
ワスレナグサ↑
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