2017年3月28日火曜日
大本義幸「声なし味覚なし匂いなしこの軀」(「俳句新空間」NO.7)・・・
「『俳句新空間』第7号ーBLOG俳句新空間媒体誌ー」(発行人・筑紫磐井、北川美美)は今号より、発売元・邑書林で全国の書店から(地方・小出版流通センター扱い)注文、入手可能になった。
今号の特集は「二十一世紀俳句」、「豈」が事実上の年刊模様になっている関係もあって、「俳句新空間」を季刊にし、作品発表の場をもう少し欲している「豈」の同人諸兄に場を広げてもらい、「豈」誌との連動企画のような柔軟な体裁になっている。もっともメインは作品「俳句帖」である。
本特集「二十一世紀俳句」がなったのは、安井浩司の「叢林の中でー二十一世紀俳句に寄せて」の寄稿を契機として、それを巡って、筑紫磐井・酒巻英一郎・愚生で鼎談をすることになり、加えて若い柳本々々の犀利な評論を掲載する運びに至ったことによる。
「叢林の中で」の最後部分で、安井浩司の檄がとんでいる。
つい口を滑らしたくなるのだが、”芭蕉以前の俳句”として、俳壇の規範以前の原点、いわゆる己が詩としての一個の俳句作品を書き続ける外は無いのである。(中略)
されば諸兄よ、征くも帰るもきみ一人である。。師も同志も何処にも居ないのである。そこに在るのは、一本の乞食杖だけだが、それを頼りにいわゆる”二十一世紀”の宇宙に旅立って欲しいのだ。
この安井浩司論稿に、柳本々々は「叢林の根っこー安井浩司の原稿『叢林の中で』からー」で以下のように結んでいる。
師匠がいないということは、縦の時間軸が崩れ、階層が無くなり、時間が無化され、絶対的審級としての季語さえも問い直されるということだ。それが、「一人」ということだ。
歳時記は要らない目も手も無しで書け 御中虫
以下に、「豈」次号から同人として参加される一人一句と,前号評を執筆された、もてきまりの句を「新春帖」から挙げておきたい。渕上信子は短句にして有季定型。
流星を見たか見ないかのるかそるか 加藤知子
首か椿か持てない方を置いて行く 佐藤りえ
花筏全員溺れけり 渕上信子
豪遊のヴィルスに仕へ咳地獄 もてきまり
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