2017年9月10日日曜日
鈴木光影「投下せしミサイルいくつ夏の雲」(「コールサック」91号より)・・
「コールサック」91号(コールサック社)の「俳句時評」に、鈴木光影「俳句の無形文化遺産登録と松山宣言」と題した記事が掲載されている。少し引用すると、
(前略)松山宣言上の言葉を引用すれば、「たった十七音で独立した詩」「自然からたまわるもの」「民衆性」である。この三本立てにしている点からも遺産登録は「松山宣言」を踏襲していることがわかる。(中略)
ところが、4の定型・季語の話題になって両者の方向性にズレが見えてくる。松山宣言においては五七五定型・季語の重要性や日本語の固有性を確認しつつ、俳句を世界化する場合は「季語というルールを強制することは無理」があり、「定型・季語についてはそれぞれの言語にふさわしい手法をとることが適当である」としている。また俳句を「象徴」詩ととらえ、「その民族特有の象徴的な意味合いを有するキーワード」を国や民族や言語それぞれの「言葉の内なる秩序」として発見し、「その言語特有の定型詩や独自の切れ字等の技法が新たに生まれる可能性」を指摘している。これは先に引用した「俳句は日本語に限る」という伝統派の立場からは異議がありそうである。遺産登録では外国語俳句の展開範囲を積極的に広げようとするこのような俳句観は見られない。
とあり、また、
最終章の7では、転じて4を踏まえつつ、遺産登録とは異質で革新的な「宣言」を行っている。「我々はここで、日本語による俳句性の本質とされてきた定型と季語について、世界的な文脈の中ではそれぞれの言語においてその本質を把握すべき問題と考え、俳句的な精神を有する世界のあらゆる詩型を〈俳句〉として新たに迎え入れたい」。
といい、こうした国際俳句から受ける影響、恩恵についての可能性については遺産登録に見られない、という。そして鈴木光影は、
それぞれの国や風土や文化で、それぞれの俳句が生まれうることが、特殊な無形文化遺産としての俳句のあり方ではないだろうか。根源的な俳句性を日本語と共有しつつ、言語表現や題材は個別にかけ離れてゆくことが、将来にに向けて俳句が目指すべき国際化の形ではないだろうか。
と結論づけている。
ともあれ、「コールサック」誌には詩や短歌五行歌、小説やエッセイ、物語、評論など実に多くのものが掲載されているが、ここでは俳人の掲載各人の一句を以下に挙げるにとどめたい。
潮騒の香が干鱈より立つる朝 末松 努
三色菫(さんしき)といへ純白の種(しゅ)も中に 原詩夏至
賢治の灯寅(ひそら)の妙(たい)にぞつつまれり 石村石芯
原爆忌眼(まなこ)見ひらく深海魚 鈴木光影
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