2017年9月3日日曜日
銀畑二「遠花火八千七百六十時間の昔」(「夢座」176号)・・
「夢座」176号(発行人・渡邉樹音)の目玉の論考は齋藤愼爾「いま、俳壇は」(【時への眼差し】Ⅻ)であろう。青木健編『いま、兜太は』(岩波書店)と黒田杏子編著『存在者 金子兜太』(藤原書店)を肴にしながら武良竜彦と私(齋藤愼爾)の会話で話は進む。全体を引用できればよいのだが、それは無理な相談、恐縮だが、恣意的に部分的に抜粋する。「俳句」2016年月号の金子兜太、大峯あきら対談に触れた以下の部分、
武良 (前略)詠嘆や悼み、励ましを詠むことが、震災詠として大切だったのか。大多数の俳人が類型的表現に雪崩れ込んだ現象の、言語的危機の方が問題ではなかったか。短歌界はその言語的危機を問題視することを共有しましたが、二人の対談ではそのことへの言及は一か所もない。(中略)
「詠嘆」調の一句しか詠まなかった大峯氏を批判した金子氏が「それを悼んで作る、悲しんで作る、励まして作るということがあってもいいんじゃないですか」という震災詠観にも私は違和感を持つ。
また、
私(齋藤愼爾) 菱川善夫氏がかつて指摘したように、アニミズム志向は「思想的なよるべを失った現代の人間が、伝承された形や、もの言わぬ草木によせて、あらたな魂の浄化作用をはかっているていのものとしか思われない」というべきだろう。山河のすだまに身をすりよせて、それを美化しているにすぎない。風土の美化、伝統の美化、ヤマトの美化、一木一草に神(天皇)が宿るーああいつか来た道だ。
と果敢に述べている。また、江里昭彦「獏は夢を喰い、俳人は飯を喰う」(【昭彦の直球・曲球・危険球】㊼)では、句集評において、
(前略)それぞれ句風を事にしながらも、現実生活と俳句活動との安定した関係(つまり定職と定収入とで生計を支えつつ、余力を用いて俳句に取り組む、という関係)が透視できる。それが共通項んあおである。
概して生活に困窮しない人間は、俳句に過大な期待を抱かないものだ。文学としての高みをめざすとか、社会への影響力をもとうとか、反俗と耽美の別世界を構築しようとか、人間の真実を探求しようとか、そうした〈力み〉とは離れた地平で、安定的に俳句に向きあおうとする。
最後の一冊、関悦史『花咲く独身者たちの活造り』だけが異例であり、別格である。力みと過剰のまばゆい誇示が、ここにはある。
ともあれ、本誌に一人一句を以下に挙げる。
さざなみのもとに戻って夏の雲 佐藤榮市
あ、ありぃぇ?ヒヤリヒアリではない ホッ 城名景琳
雹落下冷果のように食べる子ら 金田 洌
蛇衣を脱いで来世を近づける 渡邉樹音
かき氷脳に言いたいことがある 江良純雄
宇井靖彦を悼む
その棘を誇れ君は薔薇の一輪 照井三余
藍浴衣下駄は助六神楽坂 太田 薫
トンネルを抜けてトンネル夏の山 鴨川らーら
空の海一万メートル揚雲雀 銀 畑二
撮影・葛城綾呂↑
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