2017年12月15日金曜日

三輪初子「山茶花のつぎ咲く花を待たず散る」(『あさがや千夜一夜』より)・・



 三輪初子エッセイ集『あさがや千夜一夜』(朔出版)、帯の背に「映画と俳句と人生と」と惹句されている。石寒太が言うには「誰がいつどこから読んでもいい。心の動いたところからパラパラ読まれたらそれでいい」ともあったので、愚生はまず「八人目の侍」を読んだ。それは、三輪初子が生涯のベルトワンを書いて下さいと言われ、日本映画では、黒澤明監督作品『七人の侍』(1954年)であるという話だ。そのシーンを語る、

 夜盗の人質にされた村の子どもを救うため、勘兵衛が髷(まげ)を剃り落とし偽の坊主になるくだりは歴史的に伝わる物語を、若侍が腕試しのため稲葉義男扮する侍にきりつけるのは塚原卜伝の実話より、宮口清二の剣の達人に挑む剣術は柳生十兵衛の新陰流から引用された、とのことである。

 の部分に愚生は思わず反応したのだ。じつは愚生も三度くらいは『七人の侍」をこのシーンのために観ている。しかし、物語に感動してではない。しかも「真剣ならばオレの勝ちだ!」というセリフを巡ってだった。
 愚生は新陰流兵法転会(まろばしかい)に20歳代後半から30歳代半ばまで所属していた。その仲間たちとそのシーンを語り合うために是非見ておかなければならなかったからだ。たぶん、新陰流兵法(ひょうほう)の映画の指導は柳生宗家がしたのではないかと思う(手許に資料がないので不確かだが)。
 そのシーンの形は新陰流を習うときの最初の勢法(かた)で、参学円之太刀(さんがくえんのたち)の五本のうちの最初、一刀両断の形だった。打太刀(うちたち)に対面して、使太刀(したち)側(愚生)が無形の位(くらい)から、右足を開き、太刀を車(しゃ)に構え(剣を斜めに横に下げ持つ)、使太刀(いわゆる敵方)の正面からの打ちに対して、刀を体に沿って上げてゆき雷刀(らいとう・いわゆる大上段)にし、使太刀から切り付けてくる太刀筋に、遅れて打ち出し、打ち下ろされて来る刃に乗り勝つというものだった。この雷刀から相手に遅れ気味に真っ直ぐに打ち下ろす太刀は、剣の勝ち筋として必ず勝てるという、いわゆる秘伝とされた太刀筋で、小説などによって有名になっている、柳生の兜割りであろう。愚生らは転打ち(まろばしうち)と言っていた(上位の位に行くときに一度だけ先生から教わり、それぞれ、下段、中断、上段、無刀の位だったような・・・)。
 もちろん、剣にも時代による形の変遷がある。甲冑をつけての打ち合いの場合は腰が低く、現代剣道のように腰の位置は高くない。
 話を元にもどそう。本書は阿佐ヶ谷にあった元ボクサーであった夫と一緒にやっていた今は無きレストラン「チャンピオン」に集まってきた人たちとの出合いのエピソードである。その店で句会も行われていたのだ(残念ながら愚生は行ったことがない)。レストランだから、当然食べ物の話題も沢山出てくる。なかに「ポテにん」という人気メニューがある。どうやらそれは一口大に切ったジャガイモとにんにくの素揚げにしたもので、「夏バテ予防に最適」なのだそうである。俳句では、富沢赤黄男の妹・宇都宮粽88歳の折りに会ったとき、『天の狼』を見せられた時のことなど・・・。
 ところで、愚生の実母の結婚前の姓は三輪である。従って、今は昔のことになるが、最初にお目にかかっった時に愚生には珍しく、その名・三輪初子を一度で覚えたのだった。
 ともあれ、エッセイにちりばめられた句をいくつか、以下に挙げておこう。

  花盛り女あるじは耳遠き       初子
  招かれて月の都に御座(おは)す母
  雪降る夜ひと呼ぶこゑのやはらかし
  絵の中の少女は老いず小鳥くる
  夏料理ひときは皿の白きかな
  熱帯夜枕のやうなオムライス
  テンカウント響くあかつき迎へ梅雨
  火を愛し水を愛して葱洗ふ 

三輪初子(みわ・はつこ)1941年、北海道帯広市生まれ。


                                            小平霊園・冨澤赤黄男の墓↑


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