2018年3月5日月曜日

外山一機「食はれ/そこねて/うつむきゐたる/稲の花」(「鬣」第66号)・・・



 「鬣 TATEGAMI」第66号(鬣の会)は、第16回鬣賞発表で、百瀬石涛子『俘虜語り』(花神社』と清水伶『星狩』(本阿弥書店)に与えられている。メインの特集は「俳句史以降の俳句の可能性」と題して、林桂の「提言ー俳句表現史以降の可能性を探る」を基調提起として、外山一機、佐藤文香、関悦史、堀下翔、松本てふこ、高橋修宏、九里順子、堀込学、後藤綾子、深代響、水野真由美の各氏が、「鬣」前号65号の外山一機「川名大を忘れる、ためのガイダンス」をめぐっての論考を寄せている。この外山一機の論考は第37回現代俳句評論賞佳作となったもので「現代俳句」平成29年12月号にも掲載されていた論考である。なかでは、関悦史「器用仕事で(プリコラージュ)で遊べばできる衰亡史」が図式的に簡略された説得力があったが、堀込学「同時代の所在」の以下のあたりには、愚生のような年寄りにもよく理解できるものだった。

  林桂が提言で触れているように川名の「引退宣言」は反語的で後続の志に向けられたポジティブなものであって、外山の受容するようなメランコリックでネガティブなものではない。むしろ外山が自らの論で引き受け得た結論こそがゼロ年代世代の忌避と脆弱性を露呈しているように思われるのである。外山の評言は常に反語的でありながらどこまでも曖昧である。修辞を尽くして俳壇的な挨拶批評を行っても未来はない。

また、

 たとえば「書くべきテーマを喪失した後で、それでも俳句を書くことを選んだのがいまの僕らであるかもしれない」というが、「それでも」という逆説にかかわる倫理が自明のものとは思われない。そのあいまいな倫理を受け入れている「僕たち」を僕は疑う。その評論だけで川名大を忘れられるとは外山自身だって考えていないだろう。それが「ガイダンス」ならば本編も読みたい。話はそれからだ。

という堀下翔の締めの言い分はじつにまっとうであると思えた。
ともあれ、本号の俳句作品を冒頭の部分からだけだが、以下に挙げておきたい。

   水鏡ときどき空を壊しけり            西平信義
 
   撃チテシ止マム
   父ヲ

   父ハ                      上田 玄    

   ジャガイモを雑に切り死と隣り          永井一時
   ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ・オキナワ・秋津島 萩澤克子 

(因みに、タイトルにした外山一機の句の漢字の部分にはすべてルビが付されている)



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