2018年3月6日火曜日
池田澄子「風花やポケットの手を出すか否か」(「ふらんす堂通信」155号)・・・
「ふらんす堂通信」155号(ふらんす堂)には、「豈」同人関係の評文が多く掲載されている。まず、ブログタイトルにした池田澄子の句は競詠七句からのもの。
そして、目に付くのは、杉本徹の連載「十七時の光にふれて㊸」の筑紫磐井『季語は生きている』(実業公論社)への評「原点からみた俳句の可能性」である。以下に述べられている部分には、杉本徹の批評はじつに真っ当であると思う(とりあえず、俳人の愚生でも、そう言って嘆いたことがある、無季だからダメは何度言われたことか・・・)。
ただ、俳句の実作者ではなく、純粋に俳句を〈詩〉として読む、読みたい私のような立場からすると、「季語の斡旋の仕方が斬新だからこの句はよい」とか「無季だからダメ」とか、その種の評価軸には、時にはほとほと辟易することがるのも事実である。
と述べ、
読後の結論からいえば、これは真に画期的な、基本文献として今後必携となるであろう。きわめて重要な季題(季語)論である。-俳句に季題が要請された、その根本のところを、万葉・古今から現在まで視野に入れ、あくまでも事実関係と、研究者の実証と指摘を丹念に比較検討した上で価値判断を加え、しかもコンパクトにわかりやすく要点のみ通史的に概観するという、一種これは「離れわざ」の書物ではなかろうか。
というあたりには、杉本徹もまた「離れわざ」の慧眼の持ち主ではなかろうか、と思わせる。
他に「豈」同人の執筆した書評は、橋本直「〈俳句〉という切実な覚悟」(田島健一句集『ただならぬぽ』評)、藤原龍一郎「威風堂々の句業」(『鷹羽狩行俳句集成』評)、酒巻英一郎「多言語話者との対話」(『大関靖博著『ひるすぎのオマージュ』評)など、いずれも読ませる批評である。ここでは、酒巻英一郎の評を以下に挙げておこう。
「明治以降ヨーロッパ文化を(中略)丁寧に消化してさまざまな要素を綯い交ぜにして身近な俳句に昇華したはじめての俳人が安井浩司なのである」。
この底流に〈抒情性〉が流れているとはけだし著者の慧眼であろう。
かつて篠田一士が『邯鄲にて』から繰り出した新しい批評言語のように、本書は著者の広汎な知力と、三言語話者(トライリンガル)、いや多言語話者(マルチリンガル)としての言語操作にして初めて為せる、新しい安井俳句読者にとっての最良の賜物ともなろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿