2018年6月8日金曜日
天皇「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」(「象徴のうた」)・・
東京新聞・火曜日夕刊に、永田和宏が「象徴のうたー平成という時代」を連載している。先日、6月5日(火)で21回を閲した。グログタイトルにした歌は平成9(1997)年の作である。本記事の冒頭は以下のように書きだされている。
太平洋戦争末期には民間人にも多くの犠牲者がでたが、なかでも最も痛ましい事件として記憶されなければならないのが、学童疎開船「対馬丸」の遭難事件である。
昭和十九年(一九四四)年八月、対馬丸は沖縄県内の国民学校児童らを乗せて長崎に向かう途中、米潜水艦の魚雷を受けて沈没。学童約七百八十人を含む千五百人近くが死亡した。
そして、
平成九(九七)年十二月十二日、実に五十二年ぶりに鹿児島県トカラ列島悪石(あくせき)島近海で、ついにその沈没船が確認されたのである。遺族らは直ちに引き揚げを求めたが、沈んでいるのが海底八百七十メートルと深海であり、引き揚げは困難として断念された。
天皇皇后両陛下はお二人とも疎開の経験もあり、かつ犠牲になった児童らとほぼ同じ年齢であることから、皇太子時代から、対馬丸については大きな関心を寄せてこられた。対馬丸の撃沈された日には、毎年二人で黙禱(もくとう)をされてきたという。
また、
天皇陛下は後年平成二十六(二〇一四)年六月、対馬丸沈没七十周年に当たり、那覇市を訪れ、慰霊碑「小桜の塔」に供花するとともに、対馬丸記念館を訪れ、遺族や生存者との懇談の機会を持たれた。
さらに、
両陛下が記念館を訪問された平成二十六年は、(中略)「特定秘密保護法」が成立し、さらに「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定される直前だった。集団的自衛権の論議では他国の船で避難する国民を助けるためという例が繰り返し挙げられたが、最も必要なときにそれがなされなかったのが対馬丸事件でもあった。
両陛下の思いが奈辺にあったかは知る由もないが、私は個人的には、このタイミングで対馬丸に対する関心を国民に示された意味は大きかっただろうと考えている。
と述べ、結んでいる。これまでの連載の中では皇后の歌も掲載されている。例えば、
ハンセン病施設(多磨全生園)を慰問したときの、
めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香(か)花の香 平成3年、皇后
永田和宏の文には、皇太子時代の昭和43(68)年に鹿児島県奄美和光園をはじめとして、平成26年、東北新生園(宮城県)を訪問するまでじつに46年間慰問の旅をされたとある。ともあれ、連載中に掲載された幾首かを挙げておきたい。
壊れたる建物の散る島の浜物焼く煙立ちて悲しき 平成5年、天皇
激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ 平成5年
なゐをのがれ戸外に過す人々に雨ふるさまを見るは悲しき 平成7年、
葉かげなる天蚕(てんさん)はふかくねむりゐて櫟(くぬぎ)のこずゑ風渡りゆく
平成4年、皇后
日本列島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田(みた)にいでます 平成8年
撮影・葛城綾呂 フジ↑
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