2018年10月23日火曜日
竹岡一郎「善人が黙(もだ)えらぶ世の鵙日和」(『けものの苗』)・・
竹岡一郎第三句集『けものの苗』(ふらんす堂)、句集ごとに著者の思考の深まりをみせながら、それを盛られなければ溢れてしまう句の器が軋みをもたらしているような、いまどきの若い人には珍しい惨たる句群といえようか。著者の「あとがきに代えてー咒(じゅ)とは何か」には、
咒とは、思考の流線形だ。筐(はこ)の底を幾たび捲っても剥しても新たな底が開示されるように、ひそかに沈みゆく咒は、一身と見えても多身であり、光より速くあらゆ方向から、同時に中核へ達しようとする。理想の咒は、生死の螺旋をどこまでも遡り、僕の、無数の末期の吐息と無数の産声を超える。
なつかしいものは、いつだって惨たらしい。産土も人間も積み上った惨たらしさを抱えて、だからこそ、その惨たらしさを焼き尽くし、なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。
と記されている。白川静によれば、呪は咒であり、もとの字は祝(しゅう)である。「祝禱を収める器を列ねて祈るので、字はまた咒に作る」とある。また「呪は必ずしも呪詛のことのみではなく、禁忌全般のことにわたるもので、古くは祝(しゅう)の字を用いた」とある。
本集には、竹岡一郎の偏愛する言葉、世界が連作風につづられているのも多いが、次の句などには、いささかの著者の無念が籠っているように思えた。「あやとり」の句である。
あやとりの砦は父母を拒みけり 一郎
あやとりにかかる呪ひのなつかしき
悪女来てあやとりにつきあへといふ
あやとりに魂からみ動けまい
あやとりの紐切れるまで眠らない
因みに、装画・挿画・判子製作は竹岡瞳。ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておこう。
咒を誦(ず)せば磯巾着の締まり出す
むじな獲る名人にして不治の日々
夕虹も腕もねぢれるためにあつた
新大陸よりさばへばす雲ふたたび
一家戦没以来不死なる竈猫
枯山の銀の木霊に慚ぢにけり
喉に狐火つまらせ今日も人だ
海底の鉄屑十二月八日
僕の骨から要るだけの弾は萌ゆ
ミサイルの光と知らず草ひばり
狩り倦みて鬆(す)の入る心吹き曝し
起つ死者は瀧を天路と仰ぐだらう
人間の香が天に沁む敗戦日
竹岡一郎(たけおか・いちろう) 1963年生まれ。
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