2018年10月22日月曜日
坪内稔典「習さんは三軒隣り水温む」(『朝ごはんと俳句365日』)・・
船団の会編『朝ごはんと俳句365日』(人文書院)、春夏秋冬の章に、1年365日の日々に、船団の会会員の句とエッセイが収録されている、どこのページからでも気ままに読むことのできる愉しみな一冊。ただ、現代仮名使い、口語調を標榜しているにしては春夏秋冬の区分が春は2月、3月、4月とむしろ旧暦にそった区分になっている。ただいま現在の実感を大切にするなら、これは現実の気象に忠実な3・4・5月が春季に相応しいと思える。「過激かつ新しく!」という船団調にしては少し温いといえるかも知れない。
愚生はといえば、坪内稔典といえば「日時計」→「現代俳句」→「船団」と、つねに時代にコミットする俳句のシーンを創りだしてきた「過渡の詩」の延長線上にあると捉えている。愚生が二十歳を少し出た頃、「日時計」が澤好摩を中心とする「天敵」と攝津幸彦・大本義幸・坪内稔典をようする「黄金海岸」にわかれ、さらに「未定」から「豈」の誕生にいたるほぼ同時期に、坪内稔典は「現代俳句」(ぬ書房・南方社)を創刊し、「現代俳句シンポジウム」を企画しながら、いわば同時代を生きてきたので、いつもその動向には注目してきた。それは、彼が、当時の総合誌「俳句」「俳句研究」が文字通り「ぼくら」を黙殺するなら、自分たち自身の力で、自分たちの場を創って、仲間の句を褒め合おう、と檄を飛ばしていたからである。それが「現代俳句」という場であった。こうした共同戦線のような陣形は「船団」創刊時にもあった。だから愚生や、攝津幸彦、仁平勝、堀本吟、藤川游子など多くの仲間は、句を出さないまでも「船団」応援部隊として創刊会員になっていた。
以来「船団」は、伝統俳句でも前衛俳句でもなく、いわば第三の俳句の道を歩いてきて、今や「船団調」と言われるまでに新しい俳句の形?を広めてきたと言える。そして、「ぼくら」の多くが古希を過ぎて、いよいよその命運を思うようになってきているのだ。その意味でいえば、このところの「船団の会」の著作物の多さと展開ぶりをみると、なんだか「船団俳句」の店仕舞い前の総決算という感じがしないでもない。繚乱の淋しさか・・。「船団」にくらべてその規模は小さいが、愚生の居る「豈」も例外ではない。いつの頃からか、いつもラストを考えている。ほぼ同時代を過ごしてきた「未定」も終刊した。もっとも「豈」は攝津幸彦の時代には(その後の一時期も)、各号数の次の表記に「OR LAST」の文字が入っていたが・・。
そして、かつての「現代俳句」は、少し大げさに言えば、金子兜太などの戦後俳句を克服する命題を負っていたようにすら思う。何しろ、当時の愚生は、作句を日々辞めようと考えていた時期に、中谷寛章や坪内稔典が指弾した金子兜太らの戦後俳句批判を読んで、俳句もまだ捨てたものではない、などと生意気にも思い、その希望をそれ以後の俳句の創造に託したのだった。
ともあれ、本書の中から、幾つかの句のみを以下に挙げておきたい。
春来る物種みんな食べちゃうぞ 陽山陽子(2月4日 立春)
梅の花ねじまき式の暮らしかな 津波古江津(2月18日 頭髪の日)
わたくしの風の一瞬犬ふぐり 鳥居真里子(2月24日 不器男忌)
春昼の横文字で書くラブレター 武馬久仁裕(3月29日 八百屋お七の日)
春泥や蕪村文集めくりみる 森 弘則(4月15日 ヘリコプターの日)
蟻の道行く先々で迷うもの 内野聖子(5月25日 東京湯島天神祭)
みちのくや青田千枚千の風 折原あきの(6月17日 おまわりさんの日)
台風の眼玉つついて愛してる 坪内稔典(8月28日 バイオリンの日)
姉さんはあかり鈴虫蔵あたり 長沼佐智(9月8日 国際識字デー)
秋茄子紺色残し胃の腑かな ねじめ正一(9月17日 牧水忌)
大漁旗町旗に校旗運動会 ふけとしこ(10月9日 体育の日)
霜月の日だまり好きでこの犬は 三宅やよい(11月1日 十三夜)
怖くて食べたことない海鼠いま旬の 池田澄子(11月27日 出雲大社神迎祭)
金魚たちは沈んだままで忘年会 小倉喜郎(12月21日 東寺終い弘法)
まだうつらうつら松のうち 久留島元(1月5日 小寒)
ウエアーのいろいろスキー客若し 小西昭夫(1月12日 スキー記念日)
あっころぶシャンシャンころぶ春隣 中原幸子(1月31日 生命保険の日)
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