2018年10月25日木曜日
三森鉄治「またの世も師を追ふ秋の螢かな」(『山稜』)・・・
三森鉄治句集『山稜』(ふらんす堂)は、遺句集として編まれた第6句集『山稜』と、これまでの句集を季語別に分けたものを合わせた全句集である。季語別には、無季もかなりあったはずと思い、案の定というべきか、最後の分類に無季とあって、10句が収録されていた。もっとも彼が師と仰いだ飯田龍太の句集にも雑の部としてかなりの数があったのを記憶している。というのも、愚生が最初に目にした彼の句集は『幻象論』であり、発行元の冬青社は宮入聖がやっていた個人出版社である。その宮入聖にも『飯田蛇笏』の著書があるように、三森鉄治とは息が合っていたにちがいない。ただ、宮入聖は杳として行方不明となり、三森鉄治は、見事な有季定型派の俳人として変貌を遂げたのであった。
愚生が、後にも先にも、三森鉄治に会ったのは五年ほど前のことになろうか、二度しかないと思う。想像したよりはるかに快活な万年青年という印象だった。今、年譜を見ると、教職を辞した前後だったのかも知れない。だから、とりわけ、彼の訃に接したときは、まさか、そんなことがと思ったのだった。
この『山稜』には、珍しく(あくまで愚生の印象にしか過ぎないが)、次のような彼自身を詠んだような作品もあった。
木の葉髪必死の治療迫るなり 鉄治
副作用なきも神慮か花八つ手
跋の赤星美佐「兄のこと」に、
教師の仕事を辞めてから、兄が自宅で父の介護をしてくれました。介護はとても大変だと嘆いていましたが、「親孝行ができてよかった」とうれしそうでした。兄は、父に自叙伝を書くように勧め、兄が編集をし、自叙伝を完成させました。その自叙伝が「山梨県自分史大賞・優秀賞」を受賞したことでも親孝行ができてよかったと言っていました。(中略)・・兄の優しい心は、父に伝わったと思います。そんな父も兄の死の五ヶ月後、追いかけるように天国にいってしまいました。
としたためられていた。「あとがきに代えて」は、本句集を編集した舘野豊。その冒頭には、パソコンに「新句集草稿」のデータを残していた電子データを、遺族の意向のもとに整理したことが記されている。ともあれ、遺句集『山稜』からいくつかの句を以下に挙げておきたい。
嶺あればこその闇なり梅匂ふ
藤匂ふ風甲子雄忌の夜空より
天辺の柿残せしか遺りしか
ひとひらのあと花びらのとめどなき
山国の冷えを力に茎の石
くろがねの風鈴に秋迫るなり
覚め際の夢に師のこゑ鳥引けり
天の川死後もこの世の夢あらむ
日の沈むまで日の色に寒牡丹
秋澄みて甲斐は蛇笏と龍太の地
冬銀河いのち支へるものに死も
三森鉄治(みつもり・てつじ) 1959年3月4日~2015年10月2日。享年56。
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