高浜虚子著・松田ひろむ編『定本 虚子全句』(第三書館)、謹呈紙に、
本著は、高浜虚子没後五十年後の二〇〇九年に編集に着手、足掛け九年を経てようやくまとめることができました。
とあって、別刷に「全句五十音別索引」が作られているという。冒頭の解題によると、虚子の10句集以外にも句を収録し、結果的に2万2000句を超えたとある(ちなみに毎日新聞社刊『定本高濱虚子全集』は7700句の収載)。本書の収載句にはすべて番号が付されている。1番は明治24年、虚子18歳のときの句、
群雀鳴子にとまる朝ぼらけ 1
であり、最後は、
髪置きや絹糸巻きに巻き育ち 22189
であるが、それには、以下の前書が付いている。
「ホトトギス」昭和二十年十一月号(十一月二十五日)巻子初節句の句を望まれて。」、『句日記』「十一月十五日。菖蒲園長子巻子三歳祝賀。」(ひろむ註=「ホトトギス」の前書は日付が合わないので誤り『句日記』が正しい。)
本著は、『補遺』以外の虚子の句は年代順で通し番号も付して記録されている。最後の『句日記』の句は、
句佛十七回忌
獨り句の推敲をして遅き日を 21307
である。本書の虚子全句収録も、じつに、松田ひろむの労作であるが、巻末の解説は、虚子評伝であるとともに、松田ひろむの虚子観、またそれを通した俳句観があますところなく披歴されている。肯うにしても、あるいは肯わないにしても、丁寧に事実を辿ることによって得られたものである。ブログタイトルにした松田ひろむの句は、「帚木に影といふものありにけり」虚子(1930年)の句のパロディ―であるが、この虚子の帚木の句は自選句集『五百句』にも、『定本高濱虚子全集』(毎日新聞社)にも収録されていないものである。解説中に、
かつて私は僭越ながら、
ほんとうは帚木に影なかりしに 松田ひろむ
と呼応した。虚子は影によって帚木を認識した。私は帚木に影はないと思ったのだ。
としるしている。帚木(ははきぎ)は、信濃国園原伏屋にある木。伝説の木で、古今和歌集の坂上是則の歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな」で広く知られ、帚木の名を伝える檜の木は現存して、幹のみだが残っているという。他の解説部分も引用したいが、切りがないので、以下の一節のみをあげておこう(ネット上での虚子関係の論にも仔細に言及している)。
遠山に日の当たりたる枯野かな (一九〇〇年)
この遠山の句は、写生の代表的な句とされているが、この時代の虚子に写生句はなく、この句も題詠である。しかも「静寂枯淡の心境を叙した。」と虚子は述べている。そのとき虚子二十六歳だった。
中嶋鬼谷はこの句は「蕪村の『山は暮れて野はたそがれの芒かな』があって出来た句だろう。虚子の頭の中には蕪村のイメージがあって、そこから発想したのだと思います」(「俳句界」二〇〇九年二月号)といっている。いずれにせよ、この句は写生ではなかった。
初学、10代の終りに、愚生が、一冊の句集を読んだ最初は、文庫の高浜虚子句集だった(入門書は中村草田男の角川文庫『俳句入門』)。覚えていることは、なんと退屈な句群だと思ったことだ。無理もないだろう。17,8歳のガキには・・・。それに、かの1960年代末の騒然とした世相の中では、虚子の句のなんと平穏に思え、かつ、当時の我々には想像もできない悠長な世界に思えたのだから・・。たぶん虚子の評価も最低だった頃のことである。ちなみに今年は虚子没後60年である。
★閑話休題・・松田ひろむ「獏枕高虚子なれど素のままに」(「鷗座」1月号)・・
「鷗座」一月号(鷗座俳句会)の松田ひろむ「名句入門 番外編・其角と芭蕉ー忠臣蔵と史実」のなかで、清水哲男が「増殖する歳時記」に書いた、其角「うぐひす此芥子酢はなみだかな」の句についての指摘がなされている。赤穂藩士・大高源五(俳号・子葉)と其角についてのことだ。
清水哲男は大高源五と「其角と親しかった」「其角とウマが合ったのも、わかる気がする。」と書いているが、ウマが合うも合わないも、其角と大高源五は面識がなかった。清水哲男でさえも「忠臣蔵」伝説に引きずられている。
という。なかなかに面白い。ともあれ、同誌1月号は、2018年度鷗座賞・新風賞の発表である。受賞者の一人一句を以下に挙げておこう。
日の本の始めは流民冬山河 新岡さすけ
兜太句碑多き秩父や穴惑ひ 髙橋透水
若者よ「惜しめよ命」法師蟬 松本 修
戦中の火薬庫残り夏薊 行成佳代子
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