上野一子第一句集『ランゲージ・ダンス」(ふらんす堂)、丁寧な序の福本弘明「たのしみはダンスとともに」に、
一子さんの句集の序文に、俳句以外のことを書き連ねるにを彼女は歓迎しないだろう。なぜならば、この句集の作品群は、境涯や日々の出来事を詠んだものではなく、俳句としていかに面白く、自由に仕上げるかを、彼女なりに追求したものだからである。(中略)
この舞踏と一子さんの俳句には、共通点があると思われる。それは、無駄なものを省こうとする意志である。舞踏ならば、動き過ぎない。俳句ならば、喋り過ぎない。結果、どのように解釈されるかは受け取る側の感性に任される部分が多くなる。俳句は、述べる器ではなく、切り捨てる武器だとは、よく言われるけれども、一子さんは、それを徹底しようとしている。
と述べている。これに呼応するかのように、著者「あとがき」には、集名の由来とともに、
俳句は経験・体験と結び付けて自分の言葉で、どんなことを表現してもいいのではないかと考えている。十七音だけで表現する宇宙。そこでただ存在する言葉のすごさ。またそのこと自体を表現するというよりその言葉を使うことで体や心が嫌だとか楽しいとか何らかの反応の動きをする部分があると思う。そういう意味で私にとって俳句は踊りだと思っている。それで句集の題を「ランゲージ・ダンス(ことばの踊り)」とした。
とある。ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。
ハンガーに春をつるして病んでいる 一子
尻上がりして夕焼にぶらさがる
ご遺体といつか呼ばれるまた昼寝
老境と思うところに蛇の出て
酷暑かな口をひらけば生きられる
一本の虹できるまで踏むミシン
足先を人にそろえる敗戦日
断ち切ればほつれてしまう秋の風
身から出た糸もてあます秋の雲
待ち合わせ場所に来ている秋日和
鎌鼬開けない手紙の中にいる
★閑話休題・・福本弘明「秋うらら猫も杓子も猫かぶる」(「天籟通信」1月号より)・・
森さかえの連載エッセイ「ぬぐやまつわるー俳句のイロハ③『季語』」は、いつもながら、俳句という詩型の初心に大切なものは何かということを振り返らせてくれる(世の教科書、入門書の誤謬のようにではなく・・)。愚生は、これまで無意識に同誌を眺めていたのだけれど、投句欄「洋洋集」の選、選評も彼が行っていることにやっと気づいた。本誌本号は第42回「天籟通信俳句賞」の発表である。以下に一人一句を挙げる。
ゲートルの父は落葉のなかにいる 足立町子(天籟通信俳句賞)
へそ曲り曲りしきゅうりらりるれろ 井上まみ子(天籟通信新人賞)
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