2019年1月10日木曜日

秦夕美「舌先に冬の乗りくる夕べかな」(「GA」82号)・・



 「GA」82号(編集発行人・秦夕美)、前号81号を発行した折に、「号数が年齢を超えましたね」と言われたという。その「あとがき」に、

  ながーいこと「詩の国」に棲み続けていると俗世の風に疲れる。生きるため、最低限の世俗つきあいは仕方ないにしても、一人で読んだり書いたりしているのが楽しい。それに孫。子供の頃はよく「ボクがしてやろか?」と何事にも手を出したがり、後始末が大変だった。それから「オレに出来ることなーい?」と言い、今は「オレにして欲しいことは?」に変わった。ボクからオレになったのは中学生の頃。(中略)以来、息子は電話で自分のことをオレと言わずリョウイチと名のる。言葉にも微妙に所有権があるのかも知れない。家のロッキングチェアーは孫専用だったのに、ときおり息子が坐っている。「坐ってみたかったんじゃない?」と孫。どちらも一人っ子。その時々でシーソーのように上下関係が変わっている。

 とある。「あとがき」以外に、当然のように秦夕美の世界がひろがる。俳句、短歌、エッセイ、さらに連載中の蕪村句鑑賞の「蕪村へ」もいずれ一本になるだろう。秦夕美の手は、現実を放り上げて、その虚空に、言葉のあわいに、いかようにも言葉を紡ぎ、描きだせる術を身につけているようにさえ思える。ともあれ、以下に句と歌をいくつか挙げておこう(「」は作品の題である)。

  幸福な王子のルビーしぐれけり     「宝石(いし)の話
  面妖な二十日月なり奉げ銃       「応へなき
  写真(うつしゑ)に色なき風のあまたゝび 「〃  」
  手足ふと道をそれけり望の汐       「〃  」
  去年今年こたびは雨の真珠湾       「 〃 」
  メメントーモリ雪像すこしはにかみて   「〃  」
  もう生きてゐなくていいが頃合の分からぬままに刻む大根 「別の世の」
  しろがねの光さしくるまひるまをわが臨終の時とさだめむ 「〃   」


★閑話休題・・座談会「前衛俳句を語る」(「俳句界」1月号)・・・


 秦夕美つながりで挙げると「俳句界」1月号の鼎談「前衛俳句を語る」。秦夕美・福本弘明・藤原龍一郎である。そして、特集「『ホトトギス』は永遠に不滅です」という、いささか皮肉を込めたような惹句の巻頭言は筑紫磐井。その結びに、

  (前略)「反伝統」が存在するためには「伝統」がはっきりと存在しなければならない。伝統は反伝統の永遠の敵である。しかし伝統なくして反伝統は存在し得ない。従って、「ホトトギス」(汀子氏のいう伝統俳句)は永遠に不滅でなければならないのである。

 と述べられている。論理的整合性からいえばそうであるが、現実的実態がともなわなければその魂を生み続けることは困難である。それでも、俳句というヤツは希望の病に犯されざるをえない。筑紫磐井はその無限運動の現実的な結末について、

 「反伝統」にあっては、中村草田男も金子兜太も永遠の価値であってはならない、乗り越えられるべき存在なのである。

と至極真っ当である。


           撮影・葛城綾呂 ↑

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