2019年2月28日木曜日
遠山陽子「象などを見るうかうかと春を病み」(「弦」41号)・・
「弦」41号(弦楽社)、表2に、「高橋龍さんを悼む」(遠山陽子)とある。「あとがき」には、「私事ながら、昨年末に急に体調を崩し、心臓の手術を受けた」とあった。そして、
暮れから正月にかけて入院生活からようやく生還して編集を再開、戴いていた原稿を整理しているとき、驚いたことに、旧臘、原稿を送って下さっていた高橋龍さんの訃報を聞くことになったのである。今回の龍さんの文章は、いつもの研究的なものではなく、ご自分の産まれ故郷流山について、幼少時の追憶を交えつつ歳時記風に書かれたもので、誰が読んでも自分の故郷を思い起こすような懐かしさに充ちた文章である。龍さんもこのようなものを書く心境になられたのかと思っていた矢先の訃報であった。
とあるように、高橋龍の幼少時の自伝としても読める。愚生には初耳のことばかりであった。まさに高橋龍の絶筆であろう。題は「追想十二ヶ月」。一月から十二月までを追想の歳時に合わせて書いている。例えば「四月/米屋」では、
昭和十一年九月に父が急死したので生活に困ったわが家では、わたしと妹を伯父(父の兄)に預け、母は東京で自活することになった。伯父は米屋で堅実な人だった。(中略)伯父は長男が独立して青果商になるらしいので、わたしを米屋の跡継ぎにするつもりになったのか、朝炊く米を毎日変えて、今日は農林一号、次の日は日稲銀坊主とその味のちがいをわたしに覚えさせた。(しかし昭和十五年に米は配給制となって米屋は消滅してしまた)
また、「八月/出征兵士」では、
八月に入ると支那の戦火は拡大し、流山の町からも続々と兵士が招集された。わたしの家は駅に近かったので毎日見送りに行った。布製の日の丸の小旗が無いので、半紙に丼の蓋で赤インクの日の丸を画き半紙の片側に糊をつけ篠竹の枝に貼り付けたが、糊が乾かないうちに打ち振るのですぐ切れてしまう。午前中は旗を作り午後は見送りというのが毎日であった。
さらに、「九月/父の死」では、
母が不在であったのか、父はわたしを連れて「運座」へ行った。運座とは旧派の句会のことである。元々流山の旧派の宗匠は祖父の芳之助(蔦丸、不及斎を継いで五世風馬)であったが、昭和六年に死亡。その後を平井靖修という高島流易断の占師が継いでいた。場所は電気屋(東京電燈の集金人)の奥座敷で、中へ入ると部屋を四角に取囲んだ人たちが話もせず黙って何か考え事をしているようで異様に思えた。
とその様子が書かれている。戦前の史実としても、このように語られるとまだ遠い昔のこととは思えない。「十月/蝗捕り」では、
三年生(昭和十三年)十月の日曜日の朝。田圃で蝗を捕り先生(和田芳美)の下宿へ持って行く。先生は蝗を茹でて乾し自転車で千住の佃煮問屋へ売りに行き、代金に自分の小遣いを足した十円を国防献金として陸軍省に送金し、献納機の資金にした。年末に、陸軍省から感謝状が送られてきた。陸軍大臣板垣征四郎(陸軍中将)と書かれていた。和田先生はゲンコツ先生といわれていたが、鉄拳制裁とかパワハラではなく、コツンである。
これらを読むと、改めて髙橋龍はなかなかの文章家である(かつて、高柳重信編集時代の旧「俳句研究」の匿名コラムでは、他の人の文体を模して書いたことも一度や二度ではない、と聞いている)。ほかに福田若之「わたる孔雀ー三橋敏雄の句作と想像」は新鮮な三橋敏雄句論、そして鴇田智哉「遠山陽子『平成三十年』雑感ーすくと立つ」には、
遠山陽子さんの句に私は、硬質なイメージをもっている。いや、頑固に固いというわけではない。なんというか、ウエットでない、でも即物すぎもしない。(中略)静かな気高さの雰囲気がある。いい意味で、土着的でない、農村的でない、ということかもしれない。
と、まなざしが優しい。ともあれ、以下に、遠山陽子「平成三十年」の句から、いくつかを挙げておこう。
原子力空母(ロナルドレーガン)しづかな灰色(グレー)年移る 陽子
初日さす核のボタンは机上にあり
カズオ・イシグロ真冬のスーパームーンかな
平服でお越しください春の黄泉
踏みすべる小石も夏のはじめかな
かたつむりつるつるつらつらつばきの木
かもめくる敏雄は雅号もたざりき
おほをんなかく老い紅葉かつ散れり
娘婿幸一さん
かくも逝き急ぎし君よ玉緒(みせばや)よ
黄海も黄河の果ても雁の空
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