2019年2月23日土曜日

丸山巧「慟哭は澹(しずか)にみちて冬銀河」(「鬣」第70号より)・・



「鬣」第70号(鬣の会)は、第17回鬣TATEGAMI俳句賞発表もさることながら、特集が佐藤清美句集『宙の音』評・池田澄子他、中里夏彦句集『無帽の帰還』評・高山れおな他、上田玄句集『暗夜口碑』評・酒巻英一郎他と、それぞれ読みどころ満載の号である。
 本号には、「追悼 大本義幸」と題した丸山巧作8句と林桂「追悼・大本義幸ー『君たちの書くものが現代俳句だ』」も掲載されているので、ここでは、それを紹介したい。丸山巧は他のシリーズ「愛蔵五句」のコーナーも「悼 大本義幸」として大本義幸の5句、彼がともに歩んだ「北の句会」の大本義幸出句(年月日を付した)を挙げている。「北の句会報」を編集・発行していた彼だからこその記録である。
 また、林桂は、大本義幸について、

 俳句の戦後第一世代と呼ぶべき作家がいる。坪内稔典、澤好摩、摂津幸彦、大井恒行、そして大本義幸もその一人だ。物心の中に戦争の記憶があった、それ以前の世代は、高柳重信や金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房などの影響下にその活動を支える同行世代の役割が回ってきたが、坪内らは、彼らの仕事を見ながら、基本的には切れていて、自分たちの仕事を始めた。これらの人々は昭和四十年代には、同人誌活動を中心に頭角を現してきていた。それらの活動を纏める重要な役回りをする必要欠くべからざる人物がいる。それが大本義幸だ。「日時計」「黄金海岸」「現代俳句」「豈」と、大本は参画している。同世代の交流の場を作るのにも貢献している。しかし、その気質は、役者として表舞台に立つよりは、演出やプロヂュースする方が合っていたもかもしれない。きっとその最たるものが、摂津幸彦だったのだろう。

 と記し、また、

(前略)大本の言葉には不思議な明るい重量感がある。これは真似して出来るものではないだろう。彼の、俳句と言葉に対する、少年のような信頼から生まれるものではなかったか。ある意味では、この世代の最も大切な作家だったのではないだろうか。

 と喝破している。

 丸山巧「愛蔵五句」 悼 大本義幸

   河とその名きれいに曲がる朝の邦    大本義幸
                  〔平成20年『硝子器に春の影みち』〕
   薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ 〔平成17年10月北の句会〕
   空箱(からばこ)のひとつに風花 鬼は外  〔平成18年2月 〃  〕
   くれるなら木沓がほしい水平線       〔平成18年6月 〃  〕
   耳深く白い帆は来る鯨を連れて       〔平成24年11月 〃 〕
 
◆第17回 鬣TATEGAMI賞は、以下に授賞決定!
    福田甲子雄全句集刊行委員会(代表・瀧澤和治)
                  『福田甲子雄全句集』(ふらんす堂)
    四ツ谷龍氏  『田中裕明の思い出』(ふらんす堂)

              
       
        「俳句四季」3月号・「俳壇観測」194↑


★閑話休題・・筑紫磐井「俳壇観測」連載194ー同世代はなくなるものー七十代がしたこと、果たせなかったことー(「俳句四季」3月号)・・・


 では、大本つながりで、●大本義幸(「豈」創刊同人)の以下のところを紹介したい。

 大本義幸といっても現在では余り知る人は多くない。しかし、大本氏なかりせば、攝津幸彦や坪内稔典などの登場はずいぶん変わったものになっていたかもしれない。その意味では現代俳句の恩人である。堀本吟は「一九七〇年代ニューウェイブを作った一人」だという。(中略)
 しかし平成一五年以後はほとんど全身に癌を転移させ、手術や放射線治療、化学治療を受けていた。咽頭も切除され、声の出ない俳人としてそれでも句会に出席していた。壮絶な後半生であった。句集は『非』『硝子器に春の影みち』と少ないが、「おおもっちゃんの骨は俺が拾う」と言っていた攝津幸彦が夭折して後は、作品はもっぱら「豈」に発表していた。「豈」に行く末を看取るつもりであったかも知れない。それでも生き抜く意志があったことは最近の句からも分かる。

  われも死ぬいまではないが花みづき  大本義幸



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