「信濃俳句通信」5月号(信濃俳句通信社)、巻頭の扉、佐藤文子「きらり・この一句」に、恥ずかしながら、愚生の句と、エッセイが目に飛び込んで来た。思わず御礼の葉書をしたためようと思ったが、このブログに、自己宣伝を兼ねてアップすることにした。以下、全文を引用する。
かきあげる怒髪も木々もかの昭和 大井恒行
昭和も平成も去り、新しい時代がやって来た。やって来たところで何も変わりは映えはしない。心の中も変わるわけではない。考えてみるとあの昭和はすごかった。多くの人たちは政治を、世の中を変えようとした。激しい怒りのために髪の毛も逆立った。
『大井恒行句集』(一九九九年、十二月ふらんす堂)より所収。大井さんを紹介して下さったのは穴井太。現代俳句協会総会の懇親会の後の二次会だったと思う。昭和最後の年だった。先日、久しぶりに、やはり現俳総会の後、出会った。昭和二十三年生まれの大井さんは少しも年を取っていなかった。
いえいえ、白髪になり髭も白く、当時とは比べるべくもなく老いていたと思う。佐藤文子は、愚生からすれば姉貴格であるが、若さと、タフさでいうと、はるかに華やかでもあり、少しも年を取っていないのはむしろ佐藤文子のほうだ(青年部時代には、ずいぶんお世話になった)。
「信濃俳句通信」で、愚生が必ず読むのが、一に佐藤文子の連載「草の罠ー穴井太伝説㊽」である。㊽とあるから、48回、もうすぐ5年になろうとしている。そうすると、穴井太の風貌を想い出すのだ。そして、二に、石森史郎「武蔵野寓だより」、170回の長期連載である。滋味がある。今回は「タンポポ・ダンディライオンへの郷愁」の題がついている。前者の「草の罠」には、次のようにあった。
(前略)穴井太が晩年もっとも親しくしていたのは、村上護だった。ひょっこり九州の戸畑の駅に降り立つ村上護は、一杯やりませんかと穴井を訪ね、友好を重ねた。穴井は、村上護を私たちに紹介し、その関係で松本にも何かイベントがあると、よく顔をだしてくださった。
とある。そういえば、愚生もたしか「信濃俳句通信」何周年かの祝賀会での帰り、あずさ号で松本から東京まで同席し、車中の歓談をしたことがある(それが、彼との生前最後の歓談となってしまったが・・)。その村上護も逝かれた。
ともあれ、同誌同号より、以下に・・。
春雨の雫したたる忘れ傘 佐藤文子
ゴールではなく始まりや花吹雪 〃
瞑想のふりに酔ひたる朧の夜 中村和代
春の海くじらを探しに遠出する 平林木子
★閑話休題・・「多摩のあけぼの」No.130(東京多摩地区現代俳句協会)・・・
このようなことはめったにないことなので、恥をかえりみず、自己宣伝を重ねておく。「多摩のあけぼの」の「一句鑑賞129号から」に、川名つぎおが愚生の句を鑑賞してくれているのだ。以下に引用しておきたい。
幻術の寒月光は蛻(ぬけがら)に 大井恒行
中七までの景は月光か雪原か、雪上の月光かと目をくらます。それが世の中。あとは記憶へ歴史へと幻想や模擬化させる。韻文型式を生かした相対化であり、残った結五の蛻・ぬけがらのみが現認された現在にすぎない、とマニフェスト。
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