2019年4月22日月曜日
髙橋みずほ「ひとつ卵てのひらにうけて子の光かな」(『髙橋みずほ歌集』)・・
現代短歌文庫143『髙橋みずほ歌集』(砂子屋書房)、本集の作品には、髙橋みずほ第二歌集『フルへッヘンド』(各章題は象形文字にて、略)全編を収め、自選歌集の『凸』『しろうるり』『春の輪』『坂となる道』『ゆめの種』そして、愚生のパソコンスキルでは出て来ない文字の『?』の各集の抄出からなる。加えて彼女自身の歌論・エッセイ、そして、解説には、針生一郎「髙橋みずほとの出会いメモ」、東郷雄二「髙橋みずほと縦の時間」、古橋信孝「原初的な認識ー歌集『凸』評」、荻原裕幸「ずれながら音をー歌集『坂となる道』評」が収載されている。
『フルへッヘンド』の著者「あとがき」の中ほどに、
はじめて外国の言葉を訳すという手さぐりの仕事に、本来の、言葉と向き合う姿勢、言葉と真向かう苦しさの原点をみるような気がする。言葉への緊迫感の薄い時代にこそ、みずからの言葉とは何かと深く問う強さが必要なのかもしれない。顔の真中でひそかに成長し続ける鼻に重ねて、みずからの方向を見据えつつ、一搔きひとかき言の葉を堆み上げてゆく仕事をしてゆきたいと思う。
と、志を述べている。その歌の特質について東郷雄二は、
(前略)
樹にあたる風を散らす葉の揺れを集めて幹の伸びてゆく先 (中略)
髙橋の短歌が時間認識に重点を置いていることを明らかにする手掛かりがふたつある。ひとつは動詞の多さと、起動相の述語の多さである。たとえば上に挙げた二首目「樹にあたる」を見ると、「あたる」「散らす」「集める」「伸びてゆく」と一首のなかに四つも動詞がある。一般に作歌心得として一首に動詞はせいぜい三つまでと言われており、その心得に照らせば動詞過剰の歌である。動詞は「出来事」を表し、出来事は時間の中で生起する。だから動詞は歌の中に時間の流れを作り出す。髙橋が動詞を多用する理由はここにある。また起動相(inchoative)とは、「~しはじめる」という動作・状態の開始を表すアスペクト表現をいう。
と、指摘している。あるいは、また、荻原裕幸は、
紫陽花の花粒はじける六月に父の日ありてほのか雨
私の短歌感覚は、この結句の字足らずに軽く躓く。書くことが溢れて、一首の姿を整え切れずに破調になる、というのならば理解しやすいのだが、、この字足らずは、少し補って「ほのかに雨は」などとすれば、容易に回避することが可能だ。それをあえて破調にしている節があるので軽く躓くのだ。この私のように、躓く読者が存在することは、たぶん作者にもわかっているのではないかと思う。むしろ作者は、読者にそこで軽く躓いて欲しいのではなかろうか。(中略)
読者が躓くことによって、調子のいいことばの流れが、実は何を奪っているのかを示そうとしているようだ。理知的でかつ感覚的な、ある種の実験なのかも知れない。最後に、この作者の正調の秀歌も一首あげておく。
ずれながら音を放ちてゆくように絵筆のあとにのこる彩り
と、髙橋みずほ短歌の特徴を言い当てている。ともあれ、愚生の恣意的にだが、いくつかの歌を以下に挙げておきたい。
さらさらと流れてゆく日々に追いつけぬ雨のひびきは みずほ
どの町に降る雨音も繰り返すくりかえしてはわからなくなり
人ひとり段ボール箱に守られて高架線下に眠り続ける
今日という日の終わるも長針の重なりずれて始まりという
天井へ向かうタクトにすべられて指揮者の上で音止まる
電線につかまる鳥の足二本離すときをつかめず揺れて
風が来て髪の誘いに絡まって抜け出られぬままの影法師
川幅の太さのままに海となる北上川の長き圧力
みどり葉のかじりとった青空に飛んでいったのだろうか虫は
しんととろりと面のそこから白い秋はしんととろりと
きれば切るほどねばりがでてくるとテレビのなかで刃物がうごく
にんげんににんげんの影ひきてゆきたるいつまでもにんげん
髙橋みずほ(たかはし・みずほ) 1957年、仙台生まれ。
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