2019年8月15日木曜日
髙橋修宏「虹立つや万巻の偽書積み上げて」(「575」3号)・・
髙橋修宏個人誌「575」3号と4号(草子舎)は、奥付の日が違うものの同時刊行である。4号は「鈴木六林男生誕百年」記念と銘打って、一冊まるごと髙橋修宏著「六林男をめぐる十二の章」である。「2016年、『山河』誌上で三回連載」に加えて、「断続的に『連衆』誌上などで発表したものに手を入れ、新たに書き下ろした何篇かを加え」(編集後記)たという。髙橋修宏が六林男の弟子だったことと合わせて、その文中に、いくつもの六林男の肉声が繰り込まれている。それらを綯い交にしながら六林男の俳句を論じて出色である。「編集後記」には、金子兜太との会話が記録されている。
(前略)兜太氏がわたしに向かって、「君、六林男の〈暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり〉という俳句があるだろ。俺は、あの句に刺激を受けて〈暗闇の下山くちびるをぶ厚くし〉を作ったんだよ」。(中略)
ただ兜太氏の率直さに驚くと共に、六林男先生への友情と競争心を垣間見ることができた一時であった。
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今日から見れば、同じ「暗闇」という言葉を含んだ二つの俳句には、その後の六林男と兜太を隔てる明らかな相異を見てとることができよう。
六林男の一句では、その「眼玉」とは何ものであるのか、誰が「泳ぐ」のか明かされぬまま、作品は鮮烈に断たれている。一方、兜太の一句では、その晩年まで彼が語りつづける肉体感覚というものが、その根底に「ぶ厚く」捉えられているはずである。
「暗闇」をめぐる二つの俳句の隔たりと、その間にひろがるものこそ、戦後俳句と呼ばれる荒涼とした領土のひとつであったと、いま差し当たり考えてみることができるかもしれない。
わたしたちは、その荒々しい豊饒な領土を、どのように見ればよいのか。語りつづけることができるのか。あるいは、すでに失いつつあるのだろうか。
と、記されている。もどって、3号には、髙橋修宏「反復される〈傷〉、さえもー増田まさみ論」をはじめ、読み応えのある作品、論考などが掲載されているが、ここでは、作品のみ一人一句を以下に挙げておこう。
横列は恐ろしき列麦の秋 柿本多映
仆しては斃れる戯びさくら蝦 増田まさみ
罌粟の中協会いくつ燃え落ちる 松下カロ
尚衆生下親(した)しき河童空也南無 救仁郷由美子
蜥蜴出で前途耿々たる余白 打田峨者ん
天河ふと書(ふみ)の余白を砂ながれ 九堂夜想
呪文みな口移しなる桃の花 髙橋修宏
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