2020年2月11日火曜日

眞鍋呉夫「箒目を踏みはずしたる冬の蜂」(『眞鍋先生 詩人の生涯』より)・・



 近藤洋太著『眞鍋先生 詩人の生涯』(書肆子午線)、版元は先の『眞鍋呉夫全句集』を刊行したところと同じだ。序章「輝く芒」に、

 真鍋先生が亡くなって八年が経った。私は四十三年にわたって先生の聲咳に接してこられたことを生涯の僥倖だと思っている。

 と記されている。従って、本著には眞鍋呉夫とは誰かが、じつに丁寧に書き込まれている。愚生は、眞鍋呉夫の晩年の20年近くは、誰かれの縁で、ときたまお会いすることがあったので、頷かされることが多い。本著では第11章「眞鍋家の食卓」、第12章「不戦だから不敗」は、ことに親近感をおぼえた。さらに終章「終焉記」には愚生には、見えていなかった感銘があった。愚生が浅沼璞に連れられて、関口芭蕉庵で初めて眞鍋呉夫に会い、沼津・大中寺でも、著者自身が挨拶されていたとあるから、遠くからだったにせよ著者の尊顔を拝したことがあったはずがだが、覚えていない(もっとも、人の名前と顔を覚えるのが苦手な愚生には当然のことかも知れない)。




 話は飛ぶが、著者には『辻井喬と堤清二』(思潮社)の著作もあり、眞鍋呉夫と辻井喬に戦後すぐに日本共産党に入党していることについての記述もあるが、これらについても、愚生は良く知らなかった。愚生が辻井喬に会ったのは、加藤郁乎賞の授賞会のとき、その他は、書肆山田の鈴木一民、大泉史世が世話をしていた、何かの講演会、そして、次は「俳句界」の仕事で、直接、セゾン文化財団の事務所に伺ったときだったが、いずれも物腰の柔らかい誠実さが湛えられていたように思う。 
 話を元にもどすが、本書『眞鍋先生』は、眞鍋呉夫の生涯を語った書でありつつ、同時に近藤洋太の、生涯(まだ途中だが)と思想があまねく語られている。第4章「青年俳人眞鍋呉夫」になかに、

 (前略)、眞鍋呉夫の俳句は、新興俳句時代を経、さらに長い沈黙の時間を経て古格を踏まえた、自在で奥行きのある表現を獲得したのだと思う。
 もうひとつ、新興俳句時代を経て、後年、かれは結社を批判し、「師系」を否定した。ことに杉田久女を破門した高浜虚子を嫌悪した。私はこのことを何度も聞いた。終生、眞鍋呉夫は無結社だったが、そのことについては後の章で触れる。

 あるいは、また、第三章「戦時下と『こをろ』の周囲」には、

(前略)「こをろ」結成に先立って、矢山哲治が書いた創刊主旨の「発願」について、そこに暗さではなく、「光り」をいい、「文化は反動の好餌として奪はれる」ことに対し、「文化を親衛」するといい、そして遠く「N・R・F」を目していたことに痛ましさを感じると書いた。
 同じように、この眞鍋呉夫の発言にも痛ましさを感じる。彼より七歳年少で、戦後学生運動に関わった辻井喬は、どこかで思想とは、マルクス主義が引き起こす問題をさしたといっている。対米戦争に向かうあの時期、マルクス主義は敗北し、それを代替するリベラリズムさえも消えかかっていた。眞鍋呉夫たちの年代は、あらかじめ「思想」を奪われた年代なのだ。集団として「こをろ」を見た場合、目的が見いだせなかったからこそ、それぞれ自由にものが書け、したがって掲載禁止、発売禁止の処分を受けた。(中略)

 『戦争はすぐそこまでやって来ていたのだ」。確かに世代的にいえば、眞鍋呉夫は大正9年に生まれ、三橋敏雄もそうだ。また、金子兜太や飯田龍太、髙柳重信などもその前後の生れで、愚生も近藤洋太にとっても、ちょうど父にあたる世代の人たちである。そして、眞鍋呉夫についていう。

  これに反して俳諧が頂いているもの、というよりその原郷は、芭蕉が示唆している意味での「造化」である。だから、原理的に権力と争うようなことはありえず、またいかなる権力とに対しても、媚びず、同ぜず、へつらわない。つまり、非戦でも反戦でもなく、不戦だから、不敗なのである。

 眞鍋はこの文章を「憲法九条には、そういう不戦の心が宿っている、と、考えている」と結んでいる。この文章は、彼が後世の人びとに向けたメッセージだと思っている。私はそのメッセージをしっかりと受け止めたいと考えている。 

 (前略)眞鍋呉夫は、芭蕉がいう「生涯に十句」を遺すことを実践しようとした。晩年、彼は業俳でも遊俳でもなく、自らを「狂俳」と称した。

とも記されている。ともあれ、本書中にある眞鍋呉夫の句をいくつか挙げておこう。

      喊声を口一杯に黒い洪水        (初出・昭和13年6月「芝火」より)
   地底よりむくむくと湧き誌にゆけり
   兵稚し故郷(くに)の時計の音を聴きたり
   銃創を青しと思ふ仮死より醒め
   脳芯に真紅の蝶を飛ばし死す
   夜干して男を刺しにゆく女
   さびしさの果無山(はてなしやま)に花咲いて
   戀の汗つめたくなりし御身(おんみ)拭ふ
   花冷えのちがふ乳房に逢ひにゆく
   春あかつき醒めても動悸おさまらず
   戸口から戸口へ續く枯野かな
   姿見に入つてゆきし螢かな


近藤洋太(こんどう・ようた) 1949年、福岡県久留米市生まれ。



         撮影・鈴木純一「北へ北へ行くほど春と聞く」↑

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