「カバトまんだら通信」第43号(カバトまんだら企画)、今号の内容は、もちろん、すべて木割大雄の執筆によるが、「ー兜子への旅ー〈沖縄〉を考える」、「俳人としての眉村卓さん」、「雑唱」44句。もともと、この通信は隅から隅まで兜子がらみなのであるが、その中の「第三イメージ論」についての言及がある。
(前略)俳句の文体論は万人に通じるように説明することは出来ないーーといった意味のことを、晩年の兜子は私にポツリと語ったことがある。
人には、第三イメージで書いた代表的な一句は、
機関車の底まで月明 馬盥 兜子
と語った記憶があるが、この一句も、分かったようで分からない。(中略)
それよりも私には、兜子のスタート時代の一句。兜子の自選にも、その後に和田悟朗が選んだ三百句にも入っていない句。句集『蛇』の中の初期の頃、多分、昭和二十二年頃の句。
痩せてしまえば鏡がうごく冬の壁 兜子
この一句に、第三イメージの影を感じる。
兜子本人もうまく説明できないもどかしさが、その始まりが、霧の発生のように立ちのぼってくるような気がする。
この一句は、自画像でもなければ写生でもない。
けれど兜子俳句の原点がここにあるような気がしてならない。
また、平成4年から令和2年2月まで、37回の沖縄を訪問したという木割大雄が、『沖縄歳時記』の玉城一香に触れて記したのち、次のように述べている。
沖縄の本土復帰が、昭和四十七年五月十五日。その年の八月に赤尾兜子は、作家・陳舜臣夫妻と沖縄を訪ねていたのだ。兜子と陳舜臣は、戦中に大阪外語大学での同窓で、生涯の友として交流していた仲だ。(中略)
陳舜臣夫妻と沖縄を旅して
佛桑花赫し描(か)く紅型(びんがた)の紅よりも 兜子
(中略)
錆タイヤ群蘇鉄の朱き實を藏(しま)う
四重八年前の沖縄だ。
昨秋に焼け落ちた首里城がまだ出来る前の沖縄。守礼の門が(仮)だという、そういう頃の沖縄。
「円」で買ふ子の夏帽の$表示 一香
本土復帰したとき、喜びと哀しみを覚えながら玉城一香が書き残した沖縄。
そんな事を何も知らなった私だけが、いま、生きている。残された作品の前で。
後の世のことは知らざり露を踏む 兜子
軍国少年だった兜子、十九歳のときの一句。
句集『稚年記』に残されている。
もう一つは、「渦」同人であり、その兄弟子でもあった眉村卓への追悼文(2019年12月28日、神戸新聞より転載)。
渡り鳥空の一点よりはじまる 眉村 卓 (中略)
俳句は私詩だと思う。けれどそれゆえに純粋な文芸であると言える。
亡妻佇(た)つ桜もつとも濃きところ
悦子夫人亡きあとの句。この句が胸を打つのは、私詩が純化されて作品として一人立ちしたからだろう。
加速する時間の雫(しずく)鬱王忌 卓
鬱王忌とは3月17日。敬愛する赤尾兜子が神戸市東灘区の自宅近くの踏切でその生命を絶った日のことで、これも眉村さんの私詩であろう。(中略)
句集あとがきで、
「私自身、常にSF感覚でいるわけではない。その非SF的感覚のときに俳句ができるのだ」
と眉村さんはいう。(中略)
眉村さんは書く人だった。書きつづける人だった。小説も俳句も書くことは、何者であるか、と問いつづけることだった。その同行者である悦子夫人を亡くされたあとも、それは変わらなかった。
吟木犀(ぎんもくせい)の空に昭和のあるごとし 卓
眉村卓遺作『その果ては知らず』(講談社・1500円)の新刊案内には、「父・眉村卓が他界して一年になります。亡くなる三日前に結び終えた小説を、この度、ほぼ本人が望んでいた通りのかたちで刊行していただくことができました。ー村上知子」とあった。ともあれ、以下に木割大雄の「雑唱」からいくつか紹介して挙げておこう。
書くことの無きまま閉じぬ初日記 大雄
八十の息吐き出せば桃の花
草や木のひとつひとつの芽よ死ぬな
父死後のわが晩年に蝶生まる
八十八夜辞書を枕に怠けたり
吾に吾添い寝をしたる昼寝かな
渓谷はまことひの字やみどり濃し
無花果や明日はこの手を汚すだろう
撮影・鈴木純一「一枝得て空いぶかしむ寒鴉」↑
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