2021年1月10日日曜日

中島進「国家なぞいらざるものを冬銀河」(『探求Ⅰ』)・・・



   中島進句集『探求Ⅰ』・評論集『考察Ⅰ』(文學の森)、句集と評論(エッセイ)が姉妹本のようにセットにされて送られてきた。『考察1』は、評論と言っても、その時々の著者の考えを披歴したもので、自句自解めいたものも多く収載されている。著者「あとがき」には、


 哲学研究のひとつとして「己の現象学という方法があります。この『考察Ⅰ』は、日本語を生れながらに身に付けた言語としている、ひとりの人間の「己の現象学」です。目的は、まず己自身を救うこと。次に、同じ時代状況で苦闘している方々を励ますことです。目的が、達成されることを願うばかりです。


 とあった。


 本書で、例えば、「13.『全共闘運動』とは、何だったのだろうか?」という項には、まず「私たちは時間を捉え直し、自分たちで時間を展開させることができる」(M.メルロ=ポンティ・『人間の科学と現象学』第1部第1章」を献辞し、その中の一節に、


 1960年代後半の全国の大学紛争は激しかった。全共闘運動と呼ばれた。私は中学生として、東京大学安田講堂攻防戦をテレビ中継で見た。(中略)

 私は20歳代の頃、卒業した鹿児島県立鶴丸高校同窓会名簿を調べた。1960年代後半に大学1・2年生だった方々が、当時30歳前後となった頃だった。1学年550名のうち、当時30歳前後の学年の死亡者が7名前後だった。異常に死亡者が多い2つの学年である。なぜか。真面目な19歳・20歳の青年たちが、「自己否定」という言葉を真正面から受け止め、結果として自ら命を断ったのである。全共闘当時の大学3・4年生・大学院生の死亡者は2名前後だった。

 一体誰が「自己否定」などと、言い始めたのだろうか。否定すべき「自己」とは何か。この『考察Ⅰ』を流れる重要なテーマの一つである。


 と記されていた。単純な疑問は、それらの死をすべて自死と断定している事であろう。前提を違えれば、理路整然と間違うだろう。愚生の、同窓生の知り合いの中には復数の病死があった。さらに、しばらくすれば、三島由紀夫の自死だってあった。愚生は、いわば団塊世代の真只中である。安田講堂の攻防戦も、中島進と同じく、京都は立命館大学の今は無き学生寮のテレビで見ていた。その時代を、良くも悪くも吸った者としては、少なくとも「自己否定」の論理は、自死を招く論理ではなかったと思う。むしろ、一木一草に宿る内なる天皇制、内なる権力志向に対峙する自己変革への契機を孕んでいたともいえる。また、当時の野坂昭如は「野垂れ死の思想」を表明していた。そしてまた、自己否定の論理を生きていたかに思えた高橋和巳の享年39は、結腸癌による死だった。ともあれ、以下に、句集『探求Ⅰ』より、愚生の好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。


  波打ちに転がりやまず黒海鼠      進

     母挽歌

  秋の夜の静けさ「あんたなん寝とる」

     野分(鹿児島)

  すめらぎと戦いし地の野分かな 

     時間

  大銀河人の化石の散りにけり

    がん

  再発と転移の氷柱刺さりけり

    ハングル

  梅雨入りや横田滋の会えぬまま(二〇二〇年六月五日)

  大地へと連ねこぼるる青時雨

  信号の赤の点滅夏の月

  寒雷やいらざることを削ぎ落とす


 中島進(なかしま・すすむ) 1954年福岡県生まれ。



         鈴木純一「実ったが悪いかビンボウカヅラだが」↑ 

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