「藍生」5月号(藍生俳句会)の特集は、「『金子兜太 俳句を生きた表現者』井口時男著(藤原書店)を読む」である。まず、「金子兜太ー俳句を生きた表現者」で、井口時男に対する筑紫磐井のインタビュー記事がある。その他の論考は、筑紫磐井「『第一芸術』を目ざした兜太ー就職論文として」、坂本宮尾「井口時男が読む金子兜太」、橋本榮治「平和主義者・兜太/井口時男著『金子兜太』に寄せて」、横澤放川「井口時男『金子兜太 俳句を生きた表現者』に寄せて」/イロニー一考」。転載記事として、藤原作弥「『経済学』『組合活動』『俳諧』ー日銀を去る金子兜太氏に聞く」、高山れおな「パイプのけむりⅢ~画期的金子兜太論の出現~」、『金子兜太』書評に、持田叙子評「今週の本棚。/豪快な前衛とユーモアに惚れる」、中島岳志「今週のイチ推し/祝祭的笑い生まれる」があった。一結社誌で、その同人でもない著書をかくまで大きく特集し、しかも、豪華メンバーによる結社誌は珍しい。
愚生にとっては、「豈」同人でもある井口時男・筑紫磐井・高山れおなが顔を揃えただけでも嬉しい。もちろん、筑紫磐井のインタビュー、論考、さらには高山れおなの井口時男著『兜太』評のいずれも出色で、ここで多くを紹介できないのが残念だが、これは、本誌に、直接あたっていただきたいと思う。もちろん、どのような評よりも、これも直接『兜太ー俳句を生きた表現者』(藤原書店)を手にとっていただくのがベストであり、読後には、それが、これまで、著わされてきた兜太論の水準を超えていることが分かってもらえると思う。それらのことを、ひっくるめて、高山れおなは、本論の結びに次のように記している。
(前略)私は俳句史的遠近法が失われたかのような現在に戸惑いを感じ、過去半世紀来の俳句の歴史化の必要を痛感しているが、本書は一作家論であることをはるかに超えて一種、羅針盤的な意義を有するものではないかとの予感を持った。俳論者としては十年来(二十年来?三十年来?)の収穫ならん。読むべし。
ともあれ、本書中より、アトランダムになるが、兜太の句と井口時男の句を挙げておこう。
湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
人体冷えて東北白い花盛り
無心の旅あかつき岬をマッチで燃し
おおかみに蛍が一つ付いていた
夏の山国母いてわれを与太という
津波あと老女生きてあり死なぬ
骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
霧の村石を投(ほう)らば父母散らん
二月二十一日朝、金子兜太氏逝去の報
兜太あらず春寒を啼く大鴉 時男
失せ物はライターだけかビルの月
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