森山光章『自我得佛來(じがとくぶつらい)ー〔無〕に抗する3』(不虚舎)、その「後記」に、
表題は、『妙法蓮華経・如來壽量品』から取った。〔書物〕は、わたしの〔墓〕である。
〔佛は根源の法を提示する〕が、〔衆生〕を救わない(・・・・)。わたし達は、〔本佛〕である。〔自(みずか)らを自(みずか)らの手で、救わなければならない〕。〔暁は近い〕。わたしは、〔終わり〕の闇(・)から〔終わり〕へ、出撃しつづける(・・・・・・・)。
とある。森山光章三冊目のアフォリズム集である。森山光章は、第一句集『眼球呪詛吊り變容』(弘栄堂書店・1991年刊)で、その特異とも言える完成された文体をもって、登場してきた。その栞の結び近くに、林桂は「森山氏が屹立した作品世界に副脈として隠し持つ時代と個人の幻想の悲しさと可笑しさを愛するのは僕だけではあるまい」と記している。森山光章は、これまで、句集、歌集、詩集、評論集など20冊以上の著作を世に問うてきている。また、実兄は小説家・帚木蓬生である。ともあれ、本集中の数ある箴言からいくつか、主に俳句に関するものをあげておこう。
『眼球呪詛吊り變容』(帯は紛失)↑
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「仁平勝」氏は、わたしの〔俳句〕作品を評して、「遊び」と言われたことがある。わたしの〔俳句〕作品は、〔死亡遊戯〕である。そこでは、ポスト・モダ二ミズム的「遊び」は、踏み躙られている(・・・・・・・)。〔俳句〕とは、〔終わり〕の闇(・)の〔血祭り〕である。〔終わり〕が、叫喚する(・・・・)。
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「たましひの生(あ)れては蒼穹(みそら)しづくせり」「飢ゑふかくつひにひとりは点りたり」「振りの鉈より揚羽翔ちにけり」「手毬唄柩のなかは雪明り」「枯萱を分けて父なる人も夜叉」ー一九八八年十一月刊行の「氷翼」の〔俳句〕である。「横山康夫」の実質的な(・・・・)第一句集である。〔コスモス領〕と〔非在領土〕の二領土(・・)から顕現する(・・・・)作品群である。(中略)「横山」氏の作品には、〔面妖さ〕のなかに〔優しさ〕が同在している(・・・・・・)。
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「五・七・五」定型という「イデオロギー」を〔血祭る〕ことが、〔俳句〕である。〔政治〕を踏み躙る(・・・・)ことが、〔俳(あら)ず〕である。
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伝統俳句は、〔俳句〕ではない。イデオロギーとニヒリズムの〔構造〕のなかに内閉されている(・・・・・・・)。高浜虚子の言う如く、〔文学〕ではないのであろう。「高等遊民」の〔遊び〕なのだ。
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〔俳句〕は絶えざる(・・・・)〔変革〕の運動(・・)である。「松尾芭蕉」を観よ(・・)!「伝統俳句」は、〔俳句〕ではない。錯誤してはならない(・・・・・・・・・)。
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〔俳句〕は、〔終わりへの改変〕の生命力(フォーシス)を有する。
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〔この道を果(はて)なく行かむ秋の空〕―。
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〔椎の実の踏みしだかれし山の道〕―。
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この〔民衆〕の〔地獄より地獄〕を生きる(・・・)〔存在態様〕に、〔責任〕を取ろうとする者はいない。〔神仏〕も、すでに敗北している(・・・・・・・・・)。〔終わり〕だけが、ある。
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〔神の死とともに、人間は死んだ〕。それを、〔終わり〕と呼ぶ。
森山光章(もりやま・みつあき) 1952年、福岡県生まれ。
撮影・鈴木純一「昏昏と高きに登る裾さばき」↑
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