大木雪香句集『光の靴』(俳句アトラス)、著者自装。序は渡辺誠一郎「光の彼方へー序にかえて」、 その中に、
(前略) ストローの吸ひ上げてゐる薄暑かな
水湧いてまだ水音のなかりけり
どこまでも空とは知らず燕の子
星同士くつつきさうな熱帯夜
雪香さんの言葉に対する感覚の良さは、俳句世界の透明感に見て取れる。さらに言葉の斡旋のうまさにも表れている。対象を見る目も直截だが、詠みたいことを掬い上げる軽やかさを持っている。ストローの句にあるように、視覚的な感覚の冴えがある。都市的な明るい色調も帯びている。二句目の水湧くなかに水音の生れ出る際を捉えようとする世界は、最も作者の得意とするところだ。それは何より風詠にゆとりがあるからだろう。(以下中略)
とある。また、著者「あとがき」には、
(前略)両親ともに亡くした私には、普通の人はあまり持たない思い出をたくさん持っている。父は小さな印刷製版の会社を興していたが、言葉の暴力の激しい人で、男尊女卑のかたまりの様な人だった。母はとても穏やかだったが、なんでも心にため込んでしまう人で、そのはけ口が毎日の飲酒だった。両親には、もっと”普通”でいて欲しかったという思いもあるが、このような両親だったことが今の私の礎を作り上げたのだから、感謝も大きい。(中略)
俳句はたった十七音の言葉だが、写真よりも鮮明に、映像よりも感動的にその瞬間を永遠に残すことができる。つまり、一句の中に”命”を封じ込めることができるのだ。句をつぶやけば、母と歩いた花の下の匂いや、雨の中の父の肩車のうれしさを、私は追体験することができる。両親はこの世にもういないけれど、一句の中で二人は生きている。そこが俳句の素晴らしさであり、最大の魅力である。(以下略)
と記されている。そして集名に因む句は、
水すまし光の靴で進みけり 雪香
であろう。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。
薫風やテトラポッドの半乾き
染め上げし藍の落ちつく夕薄暑
銭湯に自転車で征くほぼ裸
父へ
風鈴を外す大きな喉仏
対岸の芒から揺れ始めけり
2011年 入院
流星や日々生れて日々尽く命
毬栗の毬のとらへし雨しづく
追ひ払ふ気のなき眉の案山子かな
ふきのたうだけがみどりでありにけり
引き返すしかない道や花なづな
飛花落花風の広さを使ひきる
永き日や胎内でする子の欠伸
もう燕見たかと父の肩車
はくれんの一匙掬ふ空の色
母へ
野遊びと書かれてゐたる処方箋
大木雪香(おおき・せっか) 1973年、千葉県松戸市生まれ。
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