2014年4月30日水曜日
仁平勝『路地裏の散歩者ー俳人攝津幸彦』・・・
ほんとうは、先日、『路地裏の散歩者』(邑書林)を恵まれた翌日にも、ブログに書きたかったのだが、今日になってしまった。
本書が、路地裏に隠れてしまって、仕方なく、書店に注文して取り寄せて読むしかないとあきらめていたところだった。昨夜、偶然に姿を現してくれたのだ。それは老人によくありがちな、予測もしないとんでもないところにそれが置かれている・・・という事態だった。封筒を開封したのちに何かの拍子でそちらに本が移動したとしか思えない、奥深い、予測もしない場所だった。
仁平勝の書くものは、発表時にことごとく読んでいるつもりなので、一本になるときは書き下ろしの部分から先に読む。最近に書かれた内容には、仁平勝の現在の在り様が読めて興味深いからだ。考え方も生き方も、歩んだ道も愚生とは違うはずだが、どうしても彼がどのように歩もうとしているのかが気になり、見届けたいという思いの方が強いのである。
それは、彼が俳人、あるいは評論家として世に出る前からの友人だったという、ただそれだけのことかも知れない。
先日も断捨離のつもりで整理をしていたら、大昔も大昔、彼と出会って間もないころ(愚生20歳代の初め)、古沢栲(現・首くくり栲象)が国分寺画廊で個展を開いた折の段ボールの表紙で作られた手作りの冊子に、古沢栲について愚生と仁平勝が彼についての文章を寄稿していたのを発見した(まったく愚生の記憶から消え去っていた。こんなこともあったのかと驚いた)。
その折に会ったのが現在も「豈」の表紙を飾ってもらっている、先年亡くなった風倉匠や赤瀬川原平(のちに小説家・尾辻克彦、ご本人はお忘れだと思うが・・)だった。
ある時、愚生の職場に仁平勝が『花盗人』の句集を携えてきた。攝津幸彦や坪内稔典など、二、三人の若い俳人を彼に紹介して、句集を送るように勧めたのである。そして、仁平勝と攝津幸彦は盟友となった。
ウワミズザクラ↓
ちなみに、本著の描き下ろしの部分は第三章「『非俳句的な環境』の探検ー『與野情話』を読む」である。攝津幸彦が生きていた1960年代末から70年代の時代背景を抜きにしては攝津俳句はあり得ないこと、また、加藤郁乎との影響関係を作品との対照で具体的に明らかにした出色の指摘である。また、攝津幸彦の普段の顔、日常をもうかがい知ることのできる懐かしさに満ちている。
(昨年、「鷹」に竹岡一郎が連載した「攝津幸彦論」も時代状況との関わりを後続世代でありながら、よく読みこんだと思える珠玉の論だったが・・)。
加藤郁乎の句と比較された攝津幸彦句と文の一例は、
水に水逢ふてまじりぬ別れかな 『與野情話』
餅を焼くすべて餅として焼くる
花に花ふれぬ二つの句を考へ 『球体感覚』
枯木見ゆすべて不在として見ゆる
『球体感覚』にみられる特徴として、同じ漢字を反復するスタイルがある。よく知られた冒頭句 《冬の波冬の波止場に来て返す》は「冬の波」を反復すると同時に、二度目の「波」を「波止場」に転換させる仕掛けである。(中略)思うに意識されたパロディーではない。攝津は『球体感覚』を何度も読み込んでいるはずで、その文体が無意識のうちに浸透していると考えたほうがいい。これは『與野情話』全体にいえることだ。
余談だが、攝津はあるとき、「いま『球体感覚』全句のパロディーを作っているんだ」といったことがある。第一句目は、《冬の波春(・)の波止場に来て返す》というものだ。なにかのパーティで本人にもそれを披露したが、郁乎は「そりゃあ攝津の俳諧だよ」と苦笑していた。もっとも第二句目以降は聞いたことがないので、どうやらその雄大な構想は一句だけで立ち消えたようだ。逆に言えば幻の第一句目は、かなり自信作だったのである。
今は亡き両名、仁平勝(ニヒラ・マサル)のことを、攝津幸彦は「ねぇ、ニヒラくん」、加藤郁乎は「おい、ニヒラ・カツ」・・・と、言っていた。
ツツジ↑
2014年4月25日金曜日
閒村俊一「敗戦日冷やしケツネをずるずると」・・・
昨夕、アルカディア市ヶ谷で行われた「閒村俊一句集『拔辨天』刊行を祝う會」に出かけた。約220名と実に大勢の人でにぎわっていた。
閒村俊一はたぶん忘れているだろうが、愚生が氏と最初に会ったのは、福島泰樹が季刊「月光」(月光の会・発売元彌生書房)を出していたころに遡るから、ほぼ26年前のことだ。愚生が季刊「俳句空間」にかかわっていた頃、「俳句空間」に掲載するための「月光」の広告版下を受け取りに行ったときである。飯田橋駅の陸橋を小石川後楽園側に渡るとすすぐ近くに閒村氏の事務所があったのだ。「月光」創刊号の目次には「表紙・本文装幀・・間村俊一+デザインスタジオ金太郎組」とある。
たまたま、手元の「月光」創刊号を開いたら、すっかり忘れていたが、俳句作品は西川徹郎「月山へ」と愚生は「赤子(ぼうや)!」20句を載せてもらっていた。
天心に鶴いるときは鶴とくらす 恒行
魔子にキス、パパはラ・サンテ牢名主
『拔辨天』(角川学芸出版)は『鶴の鬱』に続く閒村俊一の第二句集、ますます俳諧風に磨きがかかってきたきた感じがするが、それも、学生時代に京都で加藤郁乎の句に出合ってから句作を始められたようだから、自ずから肯われようというもの。もっとも、その時代に郁乎はまだ『出イクヤ記』以前の、まだまだ過激な言葉の殺戮者の趣だったのだが・・・。
ともあれ、本集は句の趣の深さもさることながら、旧かな正漢字、活版印刷、著者渾身の自装になる一本である。装幀家としては、いまだにパソコンを用いず、写植版下をもって制作されているというまさにガラパゴスを僭称してやまない貴重な御仁なのである。
また、序句に「亡きタマに」と題して、「初夏の雷門で出會いしを」と詠み、ひそかに「-マダム・エドワルダに寄せて」と小文字で章扉の裏にしのばせ記すあたりは、一筋縄ではいかない句集だと想像させる。
昭和懐舊
ゆくとしのすめらみことのざうふはも
どうやらもかうやらもなし水温む
根岸に轉居 酒井抱一画房雨華庵近ければ
うぐひすや下戸殿ゆるせ昼の酒
メルトダウンせよ官邸も菫夫人も
それ以前それ以後の空燕来る
まがつ火をいたゞきにけり冬山河
雪女郎もそつと近こう寄らないか
カラスノエンドウ?↑
2014年4月23日水曜日
誰もがボブに憧れた「101年目のロバート・キャパ」・・・
「ボブ」はキャパの愛称である。
キャパはハンガリー、ブタペストで1913年生まれ、インドシナ戦争下のベトナムで地雷を踏んで40歳と7か月の生涯だった。本名は「エンドレ・エルネー・フリードマン」であったが、各国において6つの呼び名をもったらしい。英米語で「ロバート・キャパ」と「ボブ・キャパ」。
キャパ『ちょっとピンぼけ』はノルマンディー上陸作戦を撮った第二次大戦後に出版された有名な写真集。
キャパを一躍有名にしたのはアメリカの写真週刊誌「ライフ」に掲載されたスペイン戦争時の「崩れ落ちる兵士」。その写真のピントがぼけていて、「これはピントがぼけているために実に本物っぽく見える」と言ったギャラハーに、「ピントが合ってはだめなんだ。少し手がぶれたら、うまい動きのショットが撮れるんだ」とキャパは大笑いしたという。沢木耕太郎著『キャパの十字架』(文藝春秋)にそう書かれている。以前、この著書の証明をするようにキャパとゲルダに焦点を合わせた企画展が、確か横浜美術館で開催されたことがある。
その展示では、「崩れ落ちる兵士」は戦場そのもので撮られたものではなく、「演習場で撮ったものにすぎない」(ギャラハー)の証言を実証するため、撮られた場所を特定し、コンピュータで撮られた位置を明らかにし、さらに、この写真は結婚を約束した恋人だったゲルダ・タローが撮った写真に違いないと推理した。つまり二人は別のカメラで撮る位置を違えて同時に撮っていたものの一つだというのである。
そのもう一人のカメラウーマンがゲルダだ。ゲルダ・タローはスペイン戦争下女性戦場カメラマンとして撮影中に戦車に轢かれて死ぬ。27歳だった。ロバート・キャパはいわば二人のための「チーム・キャパ」の一人の名だ。そのゲルダを失ったのはキャパが23歳の時であった。
その後、キャパはゲルダの志を共に生きるように、20歳代を日中戦争、スペイン戦争、空爆下のロンドン、第二次世界大戦にはアメリカの従軍記者、北アフリカのイタリア戦線など、戦場カメラマンとして活躍した。あたかも「崩れ落ちる兵士」以上の本物の戦場写真を撮るためのように・・・
現在開催中のキャパ展は、東京都写真美術館、5月11日まで・・・。生誕1世紀を記念しての展示だから、「崩れ落ちる兵士」は謎に包まれた写真として紹介されている。
また、キャパの愛用したカメラなど、ほとんどを東京富士美術館所蔵のものが公開されている。
『キャパの十字架』では、沢木耕太郎がキャパらが設立した写真家集団「マグナム・フォト」からすべてのキャパの写真を借り、「マグナムは必ずしも沢木氏の本の内容を認めているわけではない」の一文を入れてほしいという申し入れを、「喜んで」と答えている。「崩れ落ちる兵士」の謎を解く沢木耕太郎もまた、キャパへの愛であふれている。
ガマズミ↑
*閑話休題
この日、都内で先にこのブログで紹介した上田薫氏の著書『林間抄残光』のお祝いの会があったらしく、上京した武馬久仁裕氏と会った。久しぶりに氏と俳句よもやま話をした。
武馬氏は小川双々子「地表」の弟子であり、かつ、今は、小川双々子が社長を務めていた黎明書房の社長でもある。同人誌「未定」創刊同人の一人でもあった。「雑技団」にも所属されていたが、現在は「船団」。
氏と最初にあったのは坪内稔典氏らと「現代俳句シンポジウム」を名古屋で開催したときだから、随分昔のことになる。ふらんす堂現代俳句文庫では、愚生のために、ともども清水哲男、福島泰樹、武馬久仁裕の解説を掲載させていただいた恩もある。
大空に脳中の春絞り出す 久仁裕 句集『G町』
パラソルが溶けて真赤な国興る
かなもじという裸体を思う秋の空 久仁裕句集『玉門関』
玉門関月は俄に欠けて出る
2014年4月20日日曜日
佐々木貴子「白木蓮空の古墳が疼きたる」・・・
ショカッサイ↑
昨日、王子・北トピアで行われたLOTUS句会にお邪魔した。
上記の句は、欠席投句ながら、最高点を獲得した句である。
中七の「空」をクウと読むか、カラと読むか、ソラと読むかで大きく句の内容は変わってくる、というもっともな評が出されたが、はたして作者は、その「読み」を限定するべく書こうとしたのか、あるいは、ほとんど無意識にそのいずれかの読みで書いてしまったのかは明らかではない。句の成否はともかくとして、正確に読んでもらうのであればルビも必要であったかも知れない。それとも、それらのすべての読みを想定して、なお、いずれで読んでもらってもかまわないと放ったのか。愚生はソラの古墳がもっとも美しい光景のように思えたが、いずれにすても下五「疼きたる」は曖昧さを免れ難い。はたして如何に・・・
以下に句会参加者のみ一句ずつを挙げておこう。
春の水かわいて春の残りけり 流ひさし
枕火(まくらび)
透影(すきかげ)
箸一膳(はしいちぜん)の立姿(たちすがた) 田沼泰彦
冥婚の雨はオルガン地方より 九堂夜想
夏影に
比喩はこぼれて
僂みけり 酒巻英一郎
はくれんのゆきてかえらぬひのうつわ 舟
永遠はまがるものなりとろろ汁 高橋比呂子
形而上学
秘密明かせば
蟻が死ぬ 村田由美子
呟きに巨人の天地鎮まらず 北野元生
耳二つ塞ぎて赫き春の星 三枝桂子
鳥風かその残月の風下は 大井恒行
ポピー↓
昨日、王子・北トピアで行われたLOTUS句会にお邪魔した。
上記の句は、欠席投句ながら、最高点を獲得した句である。
中七の「空」をクウと読むか、カラと読むか、ソラと読むかで大きく句の内容は変わってくる、というもっともな評が出されたが、はたして作者は、その「読み」を限定するべく書こうとしたのか、あるいは、ほとんど無意識にそのいずれかの読みで書いてしまったのかは明らかではない。句の成否はともかくとして、正確に読んでもらうのであればルビも必要であったかも知れない。それとも、それらのすべての読みを想定して、なお、いずれで読んでもらってもかまわないと放ったのか。愚生はソラの古墳がもっとも美しい光景のように思えたが、いずれにすても下五「疼きたる」は曖昧さを免れ難い。はたして如何に・・・
以下に句会参加者のみ一句ずつを挙げておこう。
春の水かわいて春の残りけり 流ひさし
枕火(まくらび)
透影(すきかげ)
箸一膳(はしいちぜん)の立姿(たちすがた) 田沼泰彦
冥婚の雨はオルガン地方より 九堂夜想
夏影に
比喩はこぼれて
僂みけり 酒巻英一郎
はくれんのゆきてかえらぬひのうつわ 舟
永遠はまがるものなりとろろ汁 高橋比呂子
形而上学
秘密明かせば
蟻が死ぬ 村田由美子
呟きに巨人の天地鎮まらず 北野元生
耳二つ塞ぎて赫き春の星 三枝桂子
鳥風かその残月の風下は 大井恒行
ポピー↓
2014年4月19日土曜日
坂戸淳夫「死におくればんざいはまた、死のかたち」・・・
少し雑誌の整理をしていたら、「夢幻航海」(夢幻航海社・平成22年2月3日刊))第71号「坂戸淳夫抄」に手が止まった。
この号はすべてが、坂戸淳夫追悼号として臨時に発行され献じられている。
坂戸淳夫はこの年(平成22年)1月3日に亡くなった。享年85。わずか一か月の短期間後に約60ページの冊子として献じられているのだ。
「夢幻航海」誌は、最初は福田葉子によって刊行されていたと記憶しているが(あるいは共同発行だったか・・)、途中より岩片仁次が継続して発行し続けている。通常号は高柳重信『散文集成』や高柳重信関係の資料を掲載し続けている雑誌だ。
高柳重信自身よりも高柳重信のことをよく知っているという岩片仁次であるが(彼には『重信表』という詳細を極めた年譜がある)、それだけの労力のみでも驚嘆するが、それだけではない。
そのすべての刊行書の文字入力、印字を自らで行い、それをコピーし製本をして届け続けている。
ごく少部数ながら『高柳重信全集成』は全30冊にもおよんでいる。
『高柳重信全集成』の最初の刊行が平成7年7月8日、最後が平成18年3月31日だから10年以上の歳月をかけての仕事ということになる。こうした彼のすべての膂力を傾注しての仕事には、ただ、ただ、頭を垂れるのみである。
ところで、本号の「坂戸淳夫抄」には、これまでに「上梓された各句集よりそれぞれ三十五句、前略句集というべき『年少集』及び『彼方へ』以降については各十五句を抄録した」(編集後記)、総数約310句が収められている。
木犀やけさ来し手紙ふところに 淳夫『冬樹』
夜はよるのことば 応へぬ子と話す
朝はまた骨をつないで起ち上る
*句集『冬樹』は、坂戸淳夫の長男の名、中学2年のおり、「脳外科手術によって、一時回復したものの死の二週間前には言語障害を起こし、食物も喉を通らなくなった。/それ以後の冬樹との対話は、僕や妻が彼の手を握り、僕たちの呼びかけに応えて彼が手を握り返す、これが唯一のものとなった。この単純な行為によって、彼の意志や要求は僕たちに伝達され、手足をさすったり、果汁を作ったりもした。その果汁も、数滴とは口に入らなかったけれど、僕も妻も、目を覚ましている限りはきっとその手を握り、何ごとかを話しかけずにはいられなかった。冬樹の存在を確かめ、元気づけることと、僕たち自身へのいいなだめのためにも。/そのときほど、僕は、僕自身の持っている言葉の貧しさを思い知らされたことはない。僕はいったい、彼のための祈りの言葉、病気への呪いの言葉を、どれほど所有していたというのであろう。そして、その言葉の効用を、いったいどれほど信じていたであろう。このときほど、僕は呪術師の言葉を天来の声として信じ切ることができた古代人が羨ましかったことはない。、と同時に、言葉をもぎとられるということの悲惨さを、これほどまでに思い知らされたことはない(中略)/このとき以降、僕は言語不信に陥ってしまったようだ。己の思いを言葉に移し、書きとるその瞬間、まったく信じていない自分の影を見た。冬樹を失った悲しみを、なまじいな言葉によって書くことなど、まったく自己をいつわるものでしかあり得なかった。/かくて沈黙の数ヵ月を過ごしたが、僕はまた俳句に己の心の拠りどころを求めることになった。いまのところ、僕には、たとえ不完全であっても、思い託すものは俳句しかなかったからである。そのとき僕は、冬樹のために句集を編むことを思い立った」(句集『冬樹』あとがき)。
長し昭和むかし麦稈真田帽
折笠美秋氏へ
見せたやな辛夷が菫が咲き候よ
追悼・高柳重信
沖に船こころに弔旗たたみけり
今は昔十九の夏の爆死の友よ
折笠美秋追悼
黄泉にて語るそは「言霊の金剛」なれ
蟲の闇異端の蟲のこゑもして
爆死の友の五十年忌の淡あぢさゐ
窓押し開き招き入れるは夜と霧
ヒロシマ忌先制攻撃症候群厳存す
平成の市町村大合併
さるどしの除夜鬼無里といふ村が消えた
国敗れ餓死せし者も英霊たり
ハナミズキ↓
2014年4月15日火曜日
伊丹三樹彦「ガンガの水汲んだばかりの 壺に初日」・・・
伊丹三樹彦写俳集⑯『ガンガの沐浴』(写俳新書1 青群俳句会)の「あとがき」に、三樹彦は言う。
『ガンガの沐浴』と題したのは、何度目かの写俳旅行の一頂点を成す場としてである。その群
像写真で私は写俳開眼が出来たような気がする。
「写俳」はたぶん伊丹三樹彦の造語であろうが、彼が「写俳」をやり始めたころは認知度も低く、今回の写俳集もそうだが、モノクロの写真は、すべてフィルムが用いられていた。今はデジカメの普及で手軽に、安価に写真を楽しむことができるようになって、「写真俳句」の愛好家も多く、ブームでもあり、コンテストもたくさん行われているようだ。
今回の写真はその初期の作品のコンパクトな意匠での再刊ということになる。「今回の写真は総てトリミングなし。撮影の眼心指(がんしんし)は本能に従ったままだ」(三樹彦)という。
三樹彦は今年94歳になった。数年前に病で倒れたが、いまや完全復活の感じで喜ばしい。戦後、日野草城を継いで、主宰となった三樹彦は第二次「青弦」で「リゴリズム」「リアリズム」「リリシズム」の「三り主義」を提唱し、定型を生かす、季語を超える、現代語を働かす、などとして「分かち書き俳句」を推進した。愚生の年代にとっては、まさにその現代俳句を領導した坪内稔典、大本義幸、攝津幸彦、澤好摩、花谷清、伊丹啓子らを擁した俳句同人誌「日時計」の出自をもたらした結社だった。
三樹彦の実娘・伊丹啓子に誘われて攝津幸彦(本当は映画監督になりたかった)は俳句をやりはじめ「あばんせ」という雑誌を啓子と出した。1968年、もう46年も前のことだ。その「あばんせ」2号に攝津幸彦は次のように書いていた。
あらゆる芸術は、その形式の普遍と安定に伴って時代の社会的事情を拒否しそれが生まれ
た時代環境の永続性の観念のもとに大衆に定着しようとするものであるからだ。つまり「僕ら」
が古めかしい俳句に反抗しその変革を求めるということは「僕ら」が生きつづけなければなら
ぬ激烈で過酷な時代と社会に反抗することに他ならない。
実は、この志をこそ、49歳で亡くなるまで攝津幸彦は胸中にかかえていた。だからこそ、「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」だったのだ。
話は少しそれてしまったが、2、3年ほど前の現代俳句協会総会後の懇親会で、病より復活した伊丹三樹彦が金子兜太と戦友のごとく満面の笑みで抱き合った光景を、今、思い出す。この小さな写俳集の刊行も三樹彦を励ますに違いない。
漕ぎ寄るレイ売り 初日以前の手燭捧げ 三樹彦
タントラを選る 眼光の武二の夜
カレー捏ねる正面 タントラ人体図
ジュウニヒトエ↓
2014年4月13日日曜日
三橋敏雄「原子力発電やまずシャンデリア」・・・
「弦」第37号(弦楽社・2014,4.10遠山陽子編集発行)に「三橋敏雄『しだらでん』以後の全作品」が掲載されている。
遠山陽子は「本来、遺句集として発表されるべきもの、或いは全句集を編み、そこに収載されるべき句群であろう。しかし、種々の事情により遺句集・全句集の発刊が遅れている現在、敏雄の資料をすべて見たいと思う人々のために、取り敢えず今ここに、それらを纏めて記載しておきたいと思う」と言う。
総句数は237句。『しだらでん』(沖積舎・平成8年11月)以後、三橋敏雄の死去平成13年12月1日まで、5年間の作品である。
その作品の中から20句ほどに遠山陽子は小感を書いている。その一つが「原子力発電やまずシャンデリア」(平成9年7月・「現代俳句」)の句である。同時作に「生まれ合ふ五月蠅(さばえ)や見えぬ核汚染」があり、「平成二十三年フクシマ原発事故以後なら、このような作品はは珍しくない。しかしこれは、原発安全神話がまかり通っていた頃の作である。敏雄の予知性、予言性の確かさに驚く。(中略)何故、政府は原子力発電を推し進めようとするのかという、国民の素朴な思いを、敏雄は十数年前に既に、シャンデリアに象徴させて詠んでいる」(遠山陽子)のだ。高屋窓秋の予見性とも相通じる認識である。
フクシマを敏雄は知らず敏雄の忌 陽子
被爆地の夜夜をひとだま弱り絶ゆ 敏雄
天日や水の地球に深海魚
麦秋や空港沈みたるままに
長き長き戦中戦後大桜
三橋敏雄は平成11年以後は俳壇各誌への作品を発表しないことを宣言する。従って以後は句会中心にまとめてある。
身体髪膚以て我あり夏霞
君と行くわがたましひや夏の果(富沢松雄の辞世句への返句)
寝ては起き歩き駆け坐し去年今年
山に金太郎野に金次郎予は昼寝(辞世句)
ヒトリシズカ↓
*閑話休題
愚生は今朝、府中市の多摩川清掃ボランティアにシルバー人材センター会員として参加。愚生らは約100人ほどだったが、府中市の他の各団体青少年少女の元気いっぱいの皆んながすでに通り過ぎたあとだったのか、拾うべきゴミも少なく、さながら散歩の趣だった。
天候にも恵まれ、終了後に近くの府中市郷土の森博物館に初めて入った。プラネタリウムも併設されているが、なんといっても東京ドームの三倍の広さというその庭には、四季折々の植物(いまは、菜の花の盛り・・)はもちろん、郷土の詩人として、村野四郎記念館や移築された昔の建物など、郷愁をさそう藁葺家などがあった。
入場料は200円(府中市民は100円らしい)。吟行も可能かな・・・
ぶん ぶん ぶん 村野四郎
はちが とぶ
おいけの まわりに
のばらが さいたよ
ぶん ぶん ぶん
はちが とぶ
ハナノキ↓
2014年4月12日土曜日
筑紫磐井の純真・・・
筑紫磐井句集『我が時代ー二〇〇四~二〇一三〈第一部・第二部〉』(実業公報社)は、いかにも時代をリアルタイムに生きた筑紫磐井の在り様を留めている。
少し長い「まえがき」と少し長い「あとがき」をめくれば、その真意がほの見える。
あたかも「憂鬱な時代には、ほの明かりのような思想がふさわしい」といい、
我々が迎えるたそがれの時代にはたそがれがふさわしい思想・思念があるべきだ。先ず我々
自身が変質していることを知らなければならない。自分が変質していることを知れば―すなわ
ち我々がもはや青年でもないことを知れば―我々にふさわしい、なすべきことが見えてくる。
あるいは、
一句一句を詠むだけでなく、句集を企画し、あるいは事実を記録し、編集し、刊行することを
全体をもって「表現」と言うべきなのではないか。自由な表現が「権利」であるとすれば、久しくこ
のことを忘れていたような気がする。あてがわれた頁数のなかに三百句をはめ込むことばかり
が文学ではあるまい。
句集として先例のないものになったすれば、それだけで作者としては十分満足である。
かく初心を言挙げする心性は、およそ純真以外の何物でもなかろう。失われない初々しさこそは詩歌の根本原理である。永田耕衣に「少年や六十年後の春の如し」の句があるが、この句を地で行っているようなもの。
句集の一部・二部のつなぎに、筑紫磐井が長年の病であった心臓を手術したおりの地霊(ゲニウス・ロキ)を配したのも、その瞬間に、彼が本質的な実存を垣間見たからではないのか。
それを、愚生はうまく説明できないので、邪道を承知で、レヴィナスの次の言を長くなるが引用してみたい。
主体が、もはや何かを捉えるいかなる可能性も持つことのない、そのような死という状況か
ら、他者とともにある実存のもうひとつの特徴を引き出すことも可能である。どうやっても捉え
られることにのないもの、それは未来である。未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に
訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものであ
る。ベルグソンからサルトルに到るまであらゆる理論によって、時間の本質として広く認めら
れてきた、未来の先取り[予測]、未来の投映は、未来というかたちをとった現在に過ぎず、真
正の未来ではないのだ。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われ
われを捕えるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そ
のものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語
ることは、われわれのは不可能であるように思われる。(『時間と他者』原田佳彦訳・法政大学
出版局刊)
ともあれ、果敢なる筑紫磐井の純真を愛でたいと思う。
阿部定にしぐれ花やぐ昭和かな 磐井
時代すでに虚子を置き去るそれもよし
愛人やほのかにうすら寒き存在(もの)
激しき恋の残りの生は老い・腑抜け
余生とはうかつにすごす末期かな
この街の不思議な時計すぐ遅る
師系とは身分のちがふ恋に似し
脱ぎたくて脱ぐや水着もその他も
沸点も氷点もある温度計
戦前の、オリンピックが湧いてゐる
スズラン↓
2014年4月10日木曜日
打田峨者ん「瞑(メツム)れば純白の闇 核の冬」(『光速樹』)・・・
己(オレ)の死へ遅刻する蠅 核の冬 峨者ん
一人づつ」はい!「一人づつ 核の冬
核の冬 未生(ミショウ)の友と冬ざるる
「核の冬」の句で、愚生がすぐさま思い出すのは高屋窓秋である。
核の冬天知る地知る海ぞ知る 窓秋『花の悲歌』
核の冬海は鉛となりにけり
高屋窓秋には、核に関連してほかにも句が思い浮かぶ。
核といふ一語に尽きて日が没す 窓秋
死の灰に人は馴染めり天がふる
死の灰の天のひろ天がふる
「核の冬」はもとはといえば、核戦争による地球上の環境が変動し氷河期がおとずれるというものだが、実際にチェルノブイリ原発事故による放射能は上昇気流に乗ってヨーロッパはいうまでもなく、日本も汚染された。近くは福島の原発事故によっても放射能汚染は広がってしまった。
人類の滅亡が待ち受けていることは想像の範囲であろう(山川草木だってそうだ)。
掲げた核の冬の連作の句の作者は打田峨者ん。句集名は『光速樹』(書肆山田)。
まったく未知の作者で、句は独学のようである。
巻末の略歴を紹介しよう。
打田峨者ん(うちだ・がしゃん)
俳諧者、朗詩人、画家・打田峨(たかし)
1950年11月、東京生まれ。東京在住。幼少期を北海道、岩手で送る。
句歴26年。無所属。
私家版句集に『暴君龍忌』(1989秋制作)等。
旅、又、我流の打楽器単独演奏を好む。
句も我流ならば、生き方も我流のようだ(すこし羨ましい)。
もちろん挿画も著者自身だから多才というべきであろう。
我流といいながら、句集の句の配列は夏からはじまって秋・冬・春・再び夏に戻ってくる季寄せ。歳時記風なのは形式性も備えているということか。
有季定型、花鳥諷詠ばかりの句集を見せられつづけている愚生などには、その制度的修練を経ていない分だけ魅力的、興味が湧いた。
手花火や悩める瞳(マミ)は瞬かず 峨者ん
いつか灰 いつか塵 いま 汗と汗
風死しては旗あまた垂れ敗戦忌
パウル・クレーの星への小道
宇宙地図 先づ折る露の対角線
悼 吉岡実ー一九九〇年
詩人の訃 日輪草(ヒグルマ)の黄の昏睡季
赤錆噴く輪廻(リンネ)の車軸 草ひばり
愚生の旧作での核の句は、
ムルロア環礁
フランス人形みな美しき核の風 恒行
2014年4月8日火曜日
本日は椿寿忌・・
本日、4月8日は椿寿忌こと虚子忌である。
実は愚生が最初に読んだ句集は虚子の句集である。
また、最初に読んだ俳句入門書は、中村草田男のもの、角川文庫だった。
いずれも10代の終わりだったので、虚子の句集はじつに退屈だったし、草田男の俳句入門からは有季定型の呪縛から,解きほどかれるまでに随分と年月を要した。
と、ここまでブログを書いてきて、明日からウインドウズXPのサービスが停止されるというので、皆々様のご忠言をいただき、今日パソコンを買い替えて、愚生、初始動なのであります(消費税もアップしていた)。
いわば、テスト中です。
はたして、この彼是・・うまくアップできるのでしょうか?
とり急ぎのご挨拶まで・・・
ハナミモザ↓
2014年4月7日月曜日
不思議な三位一体・・
4月7日は三橋鷹女忌である。享年は74。
高柳重信は、「鷹女ノート」に次のように記した。
僕が鷹女について書いてゆけば、当然、この不思議な三位一体に触れることを回避で きないであろう。それは、やがて、昭和三十七年三月七日に赤黄男が没し、昭和四十 七年四月七日に鷹女が没し、そして、昭和五十七年五月七日に僕が没するという、こ のめでたい俳句的恩寵の三位一体の成就について、おのずから書きすすむことになろ う。(中略)
それにしても、いま僕を魅了してやまぬ父と母と子の三位一体とは、いったい何であ ろうか。周知のように、古代エジプトに於けるオシリスは、邪しまなセトの暴虐に遭い、と きには大箱の中に詰められて海へ流され、あるときは死体をばらばらに切り刻まれ撒 き散らされてしまうが、やがてイシスとホルスの呪術によって蘇生し、遂に死者を支配す る王となる。しかし、戦後の理不尽きわまる俳壇から徹底的に疎外されつづけた赤黄男 と鷹女は、どうしたら正当な評価を獲得し、俳句史の中に蘇生することができるのであ ろうか。いまは、それを可能にするかもしれぬ三位一体の呪術に、いたずらに魅了され ているばかりで、そのことの実現の叶わぬ無念さが、いっそう僕を苦しめ、躊躇を誘う のであった。
高柳重信にとって、格別に親しい俳人としての父は富澤赤黄男で、母は三橋鷹女だった。その戦後俳壇の理不尽な評価を覆し、正当な評価を可能にするべく、重信が用いたのは呪術ではなく、『富澤赤黄男全句集』『三橋鷹女全句集』を編纂し出版することであった。「鷹女ノート」の最後に重信は、「それは僕にとって、母のような暗黒の迷路であった。こうして全句集に纏められた作品を通読しながら、いま改めて、そのことを特に思うのである」と締めくくっている。
重信が「鷹女ノート」を書いたのは、たぶん昭和51年の初めであろう。『三橋鷹女全句集』(立風書房)の発行日は鷹女の命日である四月七日(昭和51年)だからだ。重信が予感した昭和五十七年五月七日には、まだ6年の歳月を残していた。その重信が亡くなったのは、翌年、ほぼ一年後の昭和58年7月8日だった。まことの三位一体とはならなかったが、その月日の違いは、夢幻の予兆の範囲であったということも可能なわずかばかり差異ではないのか。
重信逝去の同じ年のほぼ2ヶ月前には寺山修司が逝った。重信の享年は60。富澤赤黄男と同齢だった。愚生の旧作より。
五月修司七月重信逝ける空はも 恒行
蝶飛べり飛べよとおもふ掌の菫 鷹女
日本の我はをみなや明治節
燕来て夫の句下手知れわたる
鷹女の夫は俳号・東劔三。共に石鼎の「鹿火屋」で学び、おしどり夫婦で有名だった。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
初嵐して人の機嫌はとれませぬ
つはぶきはだんまりの花嫌ひな花
みんな夢雪割草が咲いたのね
詩に痩せて二月渚をゆくはわたし
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となつて踊りけり
天が下に風船売りとなりにけり
ウメ↓
2014年4月6日日曜日
上田薫「老残をひそと歩めば春淡き」・・・
「老残をひそと歩めば春淡き」の句は(下写真参照)、謹呈短冊に「贈」と書かれ「薫」と署名がある。愚生にとっては、初めての方からの寄贈本。謹呈短冊に自句を書かれる方は珍しいので、それだけで印象に残った。
愚生のいつもの癖で、奥付の略歴にまず目を通した。それには「1920年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。名古屋大学教授、東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長をつとめる」とある。著書も多数お持ちで著作集まで出されているが、浅学不明にして、存知あげなかった。
帯には「教育哲学の最高峰、上田薫の最終論考と、上田薫の思想が凝縮された俳句400余句を収録」とある。
著書『林間抄残光』(黎明書房)は、前編に論考・エッセイが収められ、後編に「残光」上田薫句集(全)として400余句が収められている。
独学ながら俳句を本格的に始められたのはどうやら90歳近くになられた頃からのようである。
古希の頃の句が19句、50歳の頃の一句合計20句が補遺として収められいるが、多くは、2007年4月から現在までに作句された句群である。
本書の第一章「老い深くして未来を思う」を読み始めてすぐに、すっかり引き込まれてしまった。
書き出しは、「一 環境問題の酷烈さ」と題して、
あえて奇矯の言をなすことを許されよ。幻想の論と思う人あれば思いたまえ。
で始まり、以下のように断言する。
人類はいま核問題、人口問題、民俗対立・宗教対立の始末などに直面して、何の見通 しもてぬままいる。かく対応力の乏しいところへ環境よりする大混乱を招いてどう立ち向 かえるか、現に人びとはとみに利己に走り、不自由への耐力に乏しい。国益に固執して 世界の利益などよそごとである。危険にたえるための財力などろくにありそうもないが、こ こでも軍備を撤廃しようなどとは夢にも思うまい。この不可測の深刻事態への態勢として は、最悪といっても過言ではあるまい。人類は知性と文化を誇ってきたが、武力に固執し ていつまでも人間特有の馬鹿げた共食いに狂奔していては、多くの動物に恥じねばなら ぬ。人類究極の悲惨な運命はここにも示唆されている。
書中には、このような真言が目白押しである。次の句がある。「心弱りしかさしたることもなきを思ひにとどむる」と記して、
九十路(くそじ)春昨日きし人今日もきて 薫
九重路春ひとり来てまたいつかひとり
さしたる用もなきままに訪れくれる人の数へりぬ
巻末に配された解説とでも言うべき橋本輝久「思想と表現の均衡ー上田薫の俳句の深さ」は、文字通り、橋本輝久の師恩とでもいいたいほどの誠実さに溢れた懇切丁寧な玉文である。橋本輝久には上田薫が1958年に創設した文部行政を批判し社会科の「初志をつらぬく会」の会員としての長い交流があるようである。が、しかし、本格的に俳句を通しての交流となると2008年、上田薫米寿記念に出版された『沈まざる未来を』に収められた上田薫俳句について感想を送ったときからということになろう。
上田薫は短歌も作っているが、「作句の立場」でこう述べている。
私は短歌のときと同様作句の動機に常人とは違ったものをもっている。自分の思想自体 を深めることを俳句に期待しているからである。事実句の対象と作者の表現の上でのつば ぜり合いには、哲学的な何かがひそむと私は考えずにはいられない。視点が当然そのよう にそこに傾けば、出てくる俳句はどうしても俳句一般の世界から外れていかずにはいない であろう。
上田薫の真情にあふれたこの書は、人に勧めたくなる感銘の一本である。最後にいくつかの句を紹介しておきたい。
水澄むとずれの深さを知らずゐて 〈ずれは動的なる奥行き〉
松飾り断ちゐてわれはなほ戦後
真黒き髪やや恥ぢゐしを九十路冴え
句作など老残の果てにつつきしが十年(ととせ)遅きをしたたかに知りき
(2008年・冬雲所載)
橋本輝久と伊勢にて
明かき部屋に君と冬凪(なぎ)愛しみけり
人類死滅して
花吹雪人果てしあともかく舞ふか
敗戦に日、靖国神社
好戦の性(さが)なほうづくか夏往けり
老い深めば泣けど笑むがに春消えゆく
悲しみはより深い悲しみのなかで癒される
夏原の色やや褪めて海の音
いのちしばらく尽きはてずゐて秋ひかり
これが春か
よろぼひ行くこの生きさまを春と言ひ
のたうてどいのちニヒルに冬をゆく
古希の折には次の句を作っている。
老いのしむ句は作らじな花四月
2014年4月4日金曜日
アンパンが好きだった明治天皇皇后・・・
カラスノエンドウ↑
時代は下って、アンパンが好きだった俳人といえば、永田耕衣、さらに坪内稔典に指を折る。稔典氏は最近、胃の手術をされたあと、さすがに毎日ではなく、一週間に一度くらいになったとどこかに書いておられた。
かくいう愚生もアンパン大好き人間で、これも血糖値の上昇に寄与すること大で、さすがに今では毎日というわけにはいかない。糖の値をさげるには炭水化物を抑えることが一番、それもパン類は駄目なもののトップクラスらしい(そんな我慢までして健康になりたいか、などという罵声がどこからか聞こえてきそうだが・・・)。
ところで、ものの本によると、今日4月4日は、明治8年のこと、明治天皇は水戸徳川家代々の勤王精神に応えるべく、水戸家下屋敷にご臨幸なされたらしい。そのとき水戸家が接待に用意したのがアンパンである。天皇の侍従・山岡鉄舟が銀座木村屋の店主・木村安兵衛と剣道が縁で知り合いだったことによる。
木村屋が発明したアンパンこそはまんじゅうの伝統と西洋の製パン技術の粋を集めた和魂洋才の典型のように思われていたのだ。
明治天皇は大いに喜ばれ、以後皇室御用達になった。とくにアンパンを好まれたのは明治天皇皇后陛下だったようで、木村屋では、皇室用には、アンパンの中央に穴をあけ、紫蘇ををつめたとある。その木村屋の看板の文字は山岡鉄舟の筆で、銀座名物になった。
あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ 三好達治
ムスカリ↓
2014年4月3日木曜日
日本の子どもの文学・・・
桜は満開。
駆け足だが、国会図書館国際子ども図書館展示会「日本の子どもの文学ーー国際図書館所蔵資料で見る歩み」を見た。
ここは建物がいい。明治44年築だとか・・(入場・無料というのも魅力、もっとも多くの子どもたちから入場料をとることはできないよね・・)。
お茶を飲めるテラスもある。
現在は「21世紀の子どもの本」その1・絵本が~11月30日まで、開催されている。
テーマで見ると「『赤い鳥』創刊から戦前までー『童話の時代』」、「戦後から1970年代『現代児童文学』の出発」、1980年台から1999年までー『児童文学の現在』」、「現代の絵本ー戦後から1999年まで」、「子ども文学のはじまり」など、明治時代以来の日本の絵本の歴史が一目でわかる、という感じだ。
21世紀に入ってからの現代絵本の流れは、愚生の子どもの成長期に、あるいは、愚生が本屋の店員だった頃にであった懐かしい絵本もたくさんあった。
もちろん宮沢賢治や竹久夢二もあった。
実は愚生は、幼少の頃から少年時、絵本はおろか、高校生になるまで、少年少女文学全集など、の本というものを全く読んだことがなかった。また、そういう本に出会う環境でもなかった。
そういう意味では、愚生は、全く文学的出発が遅い・・。いわば、無教養等しい時代を長くすごして来たというわけである(もっとも、今でもその傾向はなきにしもあらずだが・・)。
今回の展示では、絵本の世界にも「3.11以降の絵本」というコーナーがあるのには驚いた。絵本の世界もそうなのか、という感じだった。
絵本展のパンフには「赤ちゃん絵本の広がり」「国境を越えた絵本づくり」「3.11以降の絵本」の3つテーマとともに「今を生きる大人が、今を生きる子どもたち(読者)に向けて送り出した新しい表現を、どうぞご覧ください」とあった。
サクラ↓
2014年4月1日火曜日
「宇宙開(うちゅうかい)」に挑んだ・・・
一千句余を収める大冊である。帯には「『汝と我』『四大にあらず』『句篇』『山毛欅林と創造』『空なる芭蕉』--と延々と書き継がれてきた厖大なる言葉と句業の長旅の、いわゆる【句篇・全】の渾身の最終巻がここに成る」とある。
帯に記されたいずれの句集も各一千句を越す句であふれているから、安井浩司の構想の句の世界が開示されるのに『汝と我』刊行、1988年(昭和63年)以来、完成に約30年近い歳月をかけたことになろう。総句数をきちんと数えたわけではないが、およそ八千句、末広がりの八がらみで、これからもまだ多くの句を残される予感さえする、喜寿の安井浩司である。
「宇宙開」の語に愚生が初めて接したのは、『安井浩司選句集』(邑書林・2008年刊)に収録された「安井浩司インタビュー」である。それには、
宇宙開に挑んだのが『乾坤』『氾人』で、それ以後の句集がどうだという事でなく、一つ一つ道を踏んで来たというのが正直な話です。誰だって同じだと思いますが、どれが一番好きかといえば、それは最新作でしょうね。
と答え、また、次のように続けている。
私が「一句集一作品」という言葉を発したとき、当然に一句一宇宙の独自性のことや、連作、群作の誤解を持ち込まれることを覚悟していました。(中略) これはあるテーマを掲げての連作、群作ということではないのです。作品を形取り、創出を繰り返していく過程で、それが大いなるモチーフに貫かれているかどうかだけの問題なのです。だから、そのことを大きく言えば、当然〈一生涯一作品〉でもよいわけで、これは結果としての事実が確然と語っています。(中略)自分ではそれぞれの作がバラバラに拡散した状態にあるとは思いません。押し寄せる作品の波が、いつからか私の宇宙運動のリズムとなり、そのリズムを繰り返すことで、諸作が次第に渦巻文となり〈一世界〉をめざすのです。これは私が今まで十三冊の句集を成した流れから、ごく自然に成立したわが〈世界形成〉の手法です。
とりあえず、句集『宇宙開』のなかから、前書のある句を挙げておこう。
わが若き日に
書を抱(いだ)き行く多摩墓地の決闘や 浩司
多摩墓地に眠る多くの先達、例えば俳人ならば渡邊白泉か?
詩友・金子弘保倒る
立つ風に汝が骨髄震うべし 浩司
金子弘保は、安井浩司の無二の親友であり、酒巻英一郎を俳句の世界に引きづり込んだ師にも等しい人である。その金子弘保に10年前、短詩『古生人類も』(天秤社)がある。それは、大岡頌司多行の、三行書俳句を髣髴とさせる短詩である。一篇を以下に、
山崖と低地は幾度も海没の春を
黴は灰色、苔は緑色、菌は褐色に
小さく、大きく、小さく羊歯は 弘保
最後に幾つか『宇宙開』から紹介するが、いかがなものか少しばかり愚生の好みに偏して躊躇している。
廻りそむ原動天や山菫 浩司
逝く春の鯉の泪を雲紙に
きみ若く楕円の石を抱く葬や
この句には、攝津幸彦「葱二本楕円の思惟はくづれたり」を想起する。 果たしていかに・・・
春沖を顔は見えずに諸手(もろた)船 浩司
千屈菜(みそはぎ)を抜けば現わる黄泉の穴
かの若き貧血僧に野いちごを
山鳩よ天の洪水起るらし
抽象の輪を投げ孔雀捕えんや
ふるさとの師が科の木に吊る言葉
消えるまで沙羅(シャーラ)を登りゆくや父
レンギョウ↓