2014年8月18日月曜日
栗林浩『新 俳人探訪』 〈中谷寛章〉・・・
このところ立て続けに著書を出している栗林浩だが、新著『新 俳人探訪』(文學の森)に「中谷寛章(夭折の俳論者・影の運動家?」の項をたてて論じている。いまは、ごく少数の、それも団塊世代の上あたりの年齢の俳人たちしか覚えていない俳人であろうが、1960年代末、当時、明らかに俳句の未来を語って、その筆法の鋭かった若き俳人といえば、第一に中谷寛章をあげ、第二に坪内稔典をあげるにやぶさかではない。
その中谷寛章に光をあてた栗林浩に、まず敬意を表しておきたい。
改めて資料を探したら、愚生はかつて1987(昭和62)年「俳句とエッセイ」4月号(牧羊社)に「大和の空を横飛びにー夭折の俳人・中谷寛章」と題して執筆したことがある。その冒頭を次のように書き出している。
「どこからきて、どこへ行くのか」。それが中谷寛章の口癖だった。その中谷寛章が急逝してはや十三年がたつ。享年三十一。一九七三年(昭48)十二月十六日、豊中病院にて腹膜肉腫による病死であった。同年五月に赤水有里と結婚して長女真海(まみ)誕生後わずか一ヵ月のことである。(以下略)
中谷寛章は本名を「宏文」といい、1942(昭17)年4月15日奈良県橿原市に生まれた。6年予備校に通うために京都に下宿。そこの女主人が「京鹿子」「青」の俳人であったことから「青」(波多野爽波)に入会。
大試験近し吐息にくもる玻璃 「青」昭和37年5月号
62年京大経済学部に入学、京大新聞社にも入り、赤尾兜子にも寄稿を勧めた。京大俳句会では「関西学生俳句連絡会」(略称・関俳連)を結成、京都で合同のシンポジウムを開いている。京大、同志社、立命館大、京都女子大、大阪女子大、甲南大が参加。坪内稔典もいた。当時の状況は羽田闘争での京大生・山﨑博昭の死、米原子力空母の佐世保入港阻止闘争、さらに東大闘争などのなかで戦後の俳句、とりわけ金子兜太は愚生らを含めて若い俳人の多くにとって、最も強く惹かれ、、かつ、乗り越えなければならない壁としてあった。それは、同時に、これまでの俳句の書き方では、到底自分たちの思いの表現は実現できないという切実な願いであったように思う。
ともあれ、中谷寛章遺稿集『眩さへの挑戦』(序章社・75年)で清水昶は「若い死者に出会うのはつらい。ましてや中谷寛章のように、この生きにくさを深める世界に対して一途に挑んでいた者を志し半ばにして失ったというつらさはいっそう倍加する」(若き死者への独白)と記した。その清水昶もいまは冥界にいる。
愚生はといえば、「俳句研究」(昭和44年11月)の中谷寛章「社会性から自然への成熟ー金子兜太氏へ」を読み、京大前にあった書店で「渦」を手に取り、中谷寛章にあこがれ、「渦」の購読を申し込んだのだった。
不意に醒めかなしきまでの遠花火 寛章
大時計とまりじんわり日本の砂流れ
鳶の空へ窓のない箱つみあげる
冬眠すわれら千の眼球(め)売り払い
バッタを追ってかるがる空を泳ぐかな
ホオの実↑
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