藤尾州、聞かない名だと思った。しかし、封筒の裏の署名には、一の宮市・・小川二三男とあったので、すぐに小川双々子縁の方だと思った。その小川双々子が逝ってからすでに八年が経つのだ。
もう随分昔になるが、坪内稔典、武馬久仁裕などと「現代俳句」のシンポジウムを名古屋で開催し、その折、双々子門「地表」の面々には、われら俳句の若造どもを大事にしていただいた恩ある想い出しかない。
話を元に戻して、掲出の句は藤尾州句集『木偶坊』(木偶坊俳句耕作所)からである。著者略歴をみると1948年生まれだから、団塊世代のまっただ中、愚生と同年、句歴も1969年「地表」主宰者小川双々子に学ぶ、とあるから、愚生とほとんど変わらない。
それだけで、来し方に親近感をもってしまうが、藤尾州の場合は1998年にクモ膜下脳動脈瘤による開頭手術や、その後も頭皮下膿痬にて手術とあって、順調とはいえない。現在は体調良好とあるから、他人ごとながらめでたい。
藤尾州の由来については、「あとがき」に以下のように記してある。俳句の場に再びもどってからの感懐。
やっぱり四十年以上続けた俳句、「高が俳句然れど俳句さくら咲く 州」だ。何が何でも俳句、という高い志向は捨てて、独り好きな時に好きなようにゆったりと書けばいいではないか、と思い至った。その厳しかった「地表」が、小川双々子が絶対と思っていたから、「地表」の小川二三男を引き摺ってまで俳句を書こうとは思わなかった。新しく気儘に俳句を書こうとするからには名前でも変えて俳句を書こうと、そして藤尾州とした。「藤尾」は二三男の捩り、「州」は小と川との合体である。
ちなみに句集名については、
藤尾州に名前を変えてもやっぱり役に立たない人であり、小川二三男だった時も機転の利かない人だったから、この句集は『木偶坊』とすることにした。木偶坊が木偶坊なりに『木偶坊』なる句集を出すまでになった。まことにめでたいことと思っている。
最期に、愚生としても少なからぬ想い出のある「地表」俳人の弔句があったのでそれを主に挙げたい。
悼 小川法子
ふきのたう残し天へと昇りてけり
弔
十五夜を見つけてうれし岸貞男は
悼 五藤一巳
空蝉の背割れ鋭き訣れかな
悼 坪内茜草
野しやうぶの鮮やかが野を物語り
小川双々子追悼句
土筆出る尽して哀し時の来て
悼 伊吹夏生
遠伊吹ああ惜別の雪一片
悼 白木 忠
黒穂麦なにゆゑにもう燃えたのか
悼 須藤 徹
郡上市よ無上に淋し蜩鳴く
草紅葉百人は去り一人ゐる
約束の雲雀は消えてうたひをり
白線を流すはるかを疑はず
雪吊や海を遠くに忘れ水
不覚にも啓蟄の虫水に浮き
・閑話休題・・・
皆様、よいお年をお迎え下さい。