2018年5月25日金曜日
加藤元重「地震のまへ枯桃の丘かへりみき」(『加藤元重句文集』)・・
岩片仁次編『加藤元重句文集ー戦後編』(「鬣の会」風の花冠文庫)、目次を見ると、俳句、詩編、散文に附篇「策が今日吟行記」(「睦月」昭和16年12月号)、そして加藤元重略伝を岩片仁次、解説が林桂。
加藤元重についてはご存知ない方も多いと思う。愚生もほとんど知らない。ただ、岩片仁次が発行していた「夢幻航海」でお目にかかったことがあるように思う。戦前から髙柳重信と俳句の歩みをほぼ共にしながら「俳句評論」には参加しなかった(文章は求められて書いているようであるが)。岩片仁次による略伝には、
昭和二十一年九月十日付けの岩片宛て高柳重信の書信に、戦後復刊した俳句誌「群」の同人の名と年齢が記されている。高柳惠幻子・早大卒二十四歳、加藤藻太・早大卒二十八歳とある。当時はまだ数え年であるから、高柳の生年大正十二年から逆算すれば、元重は大正七年生れ。高柳重信は法科、専門部で学徒動員により繰上卒業だったが、四年年長の加藤元重は学部の定時卒であろうか。学部は何となく理工系であったような気がする。
とあり、また、
高柳重信と山本篤子との結婚には彼の貢献があった。二人は結婚前二度程大森の家に訪れているし、肺病で無職の青年に妹はやれないと一旦連れ戻され、軟禁状態にあった。(中略)山本家の出入りが見える近所の二階で高柳と二人で見張り、夕刻買い物に出た篤子を連れて高柳にという結末があった。篤子との離婚の原因であるN女には近寄りたくなかったであろう。但し、かれは善意の人である。重信没後その書信をN女に贈った。彼女は悪女であった。貴重な重信資料となったであろうその書信を廃棄してしまった。
と記されている。N女とは中村苑子のことである。加藤元重繋がりで、「鬣」第67号には、本書の刊行後に発見された新資料「薔薇」昭和31年1月号の「薔薇」創刊3周年の記録加藤元重「大会の記」が掲載されている。出席者には富澤赤黄男、三橋鷹女、寺田澄史、関口比良男、高柳重信、多賀よし子、鳥海多佳男、大原テルカズ、岩片仁次など24名の名と句が掲載されている。
また本号には、金子兜太追悼特集のほか、「鬣」俳句賞受賞者(清水伶・百瀬石濤子)の論も発表されている。
そうそう金子兜太特集・水野真由美「富岡製糸工場の煉瓦塀」で思い出したことがある。
水野真由美の文の結びに兜太が「『ニヒリズムか?そんなに俺を買い被るなよ』と笑った」とあったが、或る時愚生が、兜太に一番影響を受けられた思想は何ですか?と野暮な質問をしたときに、「俺は実存主義だよ」と答えられた。愚生らの世代も、戦後一世を風靡したサルトルをはじめとする実存主義にはけっこう影響を受けた。それは戦後の混乱期、マルクス主義もさることながら、サルトルの唱えた「アンガージュマン」、単純に、自己を投企することへの希望の魅力だったように思う。
ともあれ、加藤元重の句をいくつか、以下に挙げておこう。
惠幻子に再会 しきりに俳句をすすめらる
なにはあれこの友の見よはうはつを 元重
門外下出
東京の秋を呆乎と黙りゐる
晝には
夜をよびさます
罅のかんむり
ほたるいか
*
うたひ
ねむり
うたひ
ねむり
沼
うかぶ
白い目
回転木馬
おかしの おばけ
おもちやの おばけ
ぱぱと
ままとの
泣きべそ おばけ
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