2018年8月31日金曜日

田中裕明「爽やかに俳句の神に愛されて」(『田中裕明の想い出』より)・・



 四ッ谷龍『田中裕明の想い出』(ふらんす堂)、四ツ谷龍の書いたものについては、「むしめがね」の寄贈も受けてきたこともあり、ほぼ、読んできたつもりだが、こうして一本まとめられた、田中裕明に関する論のほんどは、記憶力の弱い愚生には、やはり忘却の彼方で、新たに出会った感じがすほどである。
 かつて、愚生が若き日、たしか四ツ谷龍と亡くなれた冬野虹のお二人に、渋谷東急インでインタビューを受けた記憶がある。喋ったことは、全く覚えていない。他にも、不思議なことはあるもので、関西での何かの会の翌日、神戸の街で偶然に四ッ谷龍・冬野虹と出会い、これから永田耕衣の元町句会に行くところだからと、誘われ、同行し、その句会にも参加した記憶だけがある。今では、どういう句を出し、どのような成績だったかは全く覚えていない。
 本書に収められた裕明論の巻末の初出をたどると、「俳句研究」1988年12月号のアンケート「今年の秀句ベスト5」がもっとも古い。その次は、愚生が編集していた「俳句空間」(1992年10月、弘栄堂書店)第21号への田中裕明『櫻姫譚』の書評である。その後は「俳句」2002年10月号の「取り合わせと俳句」に裕明の句に言及して、

  田中裕明の俳句は、余白を活用することによって、抽象的な虚の世界を作ることに成功している。彼の作品の中に、私は今日における取り合わせの新しい可能性を見出だすのである。

 と締めくくっている。本書では、改めて冒頭の「田中裕明の点睛ー句集『夜の客人』読後」にで、田中裕明の訃報が、森賀まり夫妻の年賀の辞「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」(大伴家持)とともに、句集『夜の客人』が届けられたことを思い起させた。そしてその中の裕明句への出色の指摘は、句頭韻(上五・中七・下五それぞれの最初の一音、つまり三つの句頭のうち、二つ以上で同じ音を使う)という句法についてのものだった。
 もっとも、刺激的だったのは、第2章の「田中裕明『夜の形式』とは何か」(未発表)の論考であろう。現代俳句協会青年部主催の講演(2010年1月24日)の記録で、愚生は、それを聞いているのだが、改めて、その緻密さに驚いているところである。
 ともあれ、田中裕明は45歳で、攝津幸彦は49歳で亡くなった。ふたりとも大人の風貌、雰囲気ということでは共通していたように思う。ただ、句の表情は、裕明の方が静謐で清らかな、幸彦はいくぶん猥雑な印象を与えるのは、幸彦が、たぶん愚生と同世代という意味での、時代の呼吸を句に多く吸い込んでいたせいだろう。
 ともあれ、本書中より、田中裕明と四ッ谷龍の根津二人吟行句会の句を以下にすこし挙げておきたい。

   空蟬に風吹いてゐる谷中かな     裕明
   白砂に鳥の足あと日の盛
   腕冷えて滴りのその音を聞く
   茉莉に書き杏奴に書きぬ夜の秋
   草かげろふ口髭たかきデスマスク
   落花すぐ掃き寄せられぬ百日紅     
   虻の垣薮下道というを来て
   根津の裏道物影の淡々と
   母の掌に置く空蟬の巨きさよ
   ソーダ水地震研究所で笑う
   

2018年8月30日木曜日

対中いずみ「亡き人の眼をのみ畏る稲の花」(『水瓶』)・・・



 対中いずみ第三句集『水瓶』(ふらんす堂)、集名の由来については、多くの句が「びわこ吟行」で生まれたといい、

 (前略)それは瓶に一滴一滴水をためるような日々でした。また、日本最大の湖であり、近畿の水瓶と言われる琵琶湖へのリスペクトもこめて集名といたしました。

 とある。集中、愚生は龍の句に注目した。何らかの比喩がそれらの龍に隠されているのではなかろうか。

  浅春の岸辺は龍の匂ひせる      いずみ
  うら若き龍が氷雨を降らすこと    
  冬うらら龍の巻髭伸ばしたく
  葉桜やさざなみは龍秘するごと
  どこからが龍どこからが秋の水
  わたくしの龍が呼ぶなり春の暮
  龍絡むごとくに雲や後の月

 また、ブログタイトルに挙げた「亡き人の眼をのみ畏る稲の花」は、当然ながら、田中裕明の「空へゆく階段のなし稲の花」の句が下敷きにあると思われる。また、

  鳥のほか川しづかなる裕明忌 

には、田中裕明「小鳥来るここに静かな場所がある」を脳裏に置いて詠んでいる。句を詠むことのなにもかもが「亡き人」との対話によって創造されているのかもしれない。それは、たぶん琵琶湖を吟行しているときもそうだろう。
 ともあれ、他のいくつかの句を以下に挙げておこう。  

  春の水杉の古実を沈ませて
  蟬の殻片手一本にて吹かる
  冬あたたか万年筆もその声も
  大ぶりの茸世尊に捧げしか
  氷のかけら氷の上を走りけり

対中いずみ(たいなか・いずみ)1956年、大阪市生まれ。


2018年8月29日水曜日

安西篤「災後七年いま災前や半夏生」(「海原」創刊号)・・




「海原(KAIGEN)」創刊号(2018・9月号、海原発行所)、安西篤「『海原』創刊の辞ー俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立つー」によると、

 「海原」発足の方針は、すでに「海程」一月号において発表され、二・三月号において「海原」の理念は「海程」創刊時のものを踏襲していくことを表明しました。即ち、①俳句形式への愛を基本とし、②俳諧自由の精神に立つことであります。これは兜太先生が海程創刊時に打ち出された理念でありますから、この原点に立って「海原」は「海程」の歴史を受け継いでいくことに他なりません。先ずは先生の衣鉢を継ぎ、今後「海原」の成長過程の中で、時代に即応した体制整備を皆さんとともに築いてゆきたいということです。(中略)
 新「海原」は主宰誌ではなく代表制とし、「海程」創刊時と同じような同人誌形式とします。当面執行部の体制は、代表・安西篤、発行人・武田伸一、編集人・堀之内長一(副編集人・宮崎斗士)のトロイカ方式で参ります。発行所は武田伸一宅となります。(中略
 私たちは、これから「兜太以後を」担っていかなければなりません。差し当たり「海原」の未来は、ポスト金子兜太五年間の帰趨が鍵を握っていると思われます。幸いにして海程人の多くは、「海程」のこれまでの絆を「海原」においても活かしたいと考えているようです。(中略)この機を逃さず、「海原」の基礎固めをしてゆきたいと願っております。

 と記されている。誌面の構成などは、ほぼ「海程」を継承している。「編集後記」にも記されているが「同人作品五句の迫力。三句のときとは違う存在感に思わずも目を見張ってしまったのである」(堀之内とあり、その通りだとおもった。その同人欄「碇の衆」「光の衆」「風の衆」「帆の衆」を一読するだけでも、愚生は意外に多くの方々の知遇を得ていたのだと、改めて気づかされ、これまでの厚情に感謝し、かつ今後の奮闘に期待したいともおもったのである。そのすべての方々の句を挙げるスペースを有していないので、ここでは「海程」時代からの古参同人「碇の衆」の一人一句を以下に挙げておきたい。

   生涯現役生涯少年春の人     安西 篤(武蔵野抄1)
   一つとや人と兜太とくちなわと  武田伸一(雜雜抄1)
   陽炎児童後から陽炎老婦人    加川憲一
   水温む鎖解れぬ被曝の地    鈴木八̪駛郎
   困民党語り兜太師秩父夏     舘岡誠二
   よだれ掛け前掛け共と朧なる   佃 悦夫
   惜春の暦に誑かされてばかり  中村ヨシオ
   韋駄天や髪ざんばらに樗の実   福富健男
   青葉若葉の切っ先が今朝喉元に 堀之内長一
   夏日ぎらぎら乱反射して沖縄よ  前川弘明
   ガザの下この一本の日傘かな   森田緑郎
   海原や九月の太陽が浮いた    山中葛子  
  
 愚生は、記事中、この他に、「豈」同人の堀本吟が山本掌句集『月球儀』の評を「月面の〈存在(ザイン)-地上の『虚無』」と題して執筆しているのに目をとめたこと。そして、また、これも贔屓にすぎないのだが、遊句会でご一緒させてもらっている会友作品「海原集」よりお二人の句を挙げておきたい。

   母の日や母とならざる娘の日記   たなべきよみ
   母の日や母亡き古稀を過ごしおり    武藤 幹




2018年8月28日火曜日

津田このみ「病棟の床の矢印行けば霧」(『木星酒場』)・・



 津田このみ第二句集『木星酒場』(邑書林)、坪内稔典は帯に以下のようにしたためている。

    裸たのし世界よ吾に触れてみよ

 津田このみの俳句は身体が世界を感受している。
 なんだかまぶしく、なんだかおかしい。
 その俳句の私は熱烈なファンだ。

 集名の『木星酒場』に因む句は、

  雪の夜の木星という酒場かな     このみ

 だろう。
 一読、「木星酒場」のような固有の名を詠み込んだ句が多いのに気づく。またそれが一句のなかでいい具合な主張を句にもたらしている。ランダムに挙げてみるだけでもそれが分かる。以下の句がそうだ。

  野遊びやバカボンパパの年越えて
  ダライラマきびきびと行く立夏かな
  ダリのひげくねくねと残暑かな
  天高く林家ぺーとパー子かな
  秋灯ゴッホとテオのようにいて
  火事跡よ松田聖子のポスターよ
  霜の朝眉しかめてもぺ・ヨンジュン
  モーツァルト聴かせてみたき海鼠かな
  ベッケンバウアーという顔をして蛙かな
  膝抱え川上弘美読む̪̪霜夜
    
ともあれ、他にいくつかの句を挙げておきたい。

  恋人をよじ登りたる蟻ひとつ
  夫もと好きな人なり桜の実
  寒林をバルビゾン派として歩む
  「あ」と言えば「あ」と返したる初鏡
  飽きるまで見つめて飽きて冬の波 
  すぐ傷む苺と家族と愛人と
  桃の花元気と決めてから元気
  もやもやの下界のあれを花と言う
  ああ蟹はくすぐったいね蟹の穴

津田このみ(つだ・このみ)、1968年大阪生まれ。 


2018年8月27日月曜日

小川双々子「くちなはのゆきかへりはしだてを曇りて」(「韻」28号より)・・・



「韻」28号(韻俳句会)に、武馬久仁裕が「視覚詩として俳句」を論じている。少し難しいところのある論なので、興味ある方は、是非、本誌を手に取って読んでいただきたい。 愚生はといえば、筑紫磐井著『季語は生きているー季題・季語の戦略ー』(実業公報社)を参考にしながら、武馬久仁裕が、

 (前略)一つの特定の季題が持つはずの絶対の典型的「本質的類想句」と呼んでいるものに他ならない。「視覚詩としても俳句」は、筑紫が「本質的類想句」を定義していう「いかなる描写もない」「描写を超越した」俳句なのである。あるのは言葉による描写ではなく、俳句の姿形による描写なのである。筑紫が「本質的類想句」として挙げている後藤夜半の「瀧の上に水現はれて落ちにけり」なども基本的に、俳句の姿形によって滝の描写がなされていると言える。これは「視覚詩としての俳句」なのである。 
(中略)
 視覚詩としての俳句は、先に述べたように句の姿形と内容が過不足なく一致していることにある。

と述べているなかに、ブログタイトルにした小川双々子の句が例句としてあったり、結びに白木忠「一月の竹のまつすぐなるを泣き」を挙げていて(もちろん飯田龍太の「一月の川一月の谷」も挙げているが)、その俳名とその人への懐かしさに駆られているのである。
 ともあれ、同誌同号の一人一句を以下に挙げておこう。

  囀りや見るとはなしに非常口      片山洋子
  執拗に苺をつぶすセヴンティーン    金子ユリ
  いさかひはひとのなすことさるすべり  川本利範
  十薬の花の一途に迎へられ       後藤昌治
  夏ひばりあぽかりぷすを予言せり    佐々木敏
  どの時計もすべて狂いし母の夏     谷口智子
  曖昧な思惟なり西日くづれゐて     千田 敏
  イヤホンのひと気づかずに夏景色   千葉みずほ
  うつつ世を千客万来さくら踏み    寺島たかえ
  透明になりたき月日さくら貝     永井江美子
  畜生に風格のある弥生かな        廣島佑亮
  春潮へ手放すものを思いをり      森千恵子
  純粋な蟻来て墜つる蟻地獄       山本左門
  折り目から地図裂けてをり梅雨の冷え 依田美代子
  この大きあぢさゐの毬つくは誰ぞ   米山久美子
  ぼうたんの崩れて影の行きどころ    渡邊淳子
  剥すことなき貼紙やこども日    児嶋ほけきよ
  芒種かな天のあたまの翳りつつ    小笠原靖和



★閑話休題・・

 ところで、武馬久仁裕は、一昨年12月から、シニア対象の「黎明俳壇」(黎明書房)を発行している。先日、第3号を発行し、句の募集は第10回を迎えるという。B5版大ぶりの写真入り、なかなか読ませるエッセイあり、シニアには読みやすい、地域の方々の交流誌の趣もある雑誌である。武馬久仁裕の趣味、奮闘ぶりが伺える。
 その特選句の三回を以下に紹介しておこう。

  碧南で生まれ碧南の大工雪のなか 碧南市 杉浦富三(第7回)
  節分草咲く奥三河までの軌道   西尾市 本多映子(第8回)
  散るさくら見あげる兵の碑の高さ 安城市 岡田武敏(第9回)



          撮影・葛城綾呂 アゲハ羽化失敗↑

2018年8月26日日曜日

榎本好宏「木槿咲くあの日よ生きて還りけり」(『青簾』)・・



 榎本好宏第13句集『青簾』(角川書店)、長くはない「あとがき」に、

  俳句の表現もこのところ変わってきたと思う。現代俳句を見渡して、漢語を使う句があまりにも多いことに慨嘆し、大和言葉の多用を意図的に試みた。簡単に言えば、漢語は音読みによることばだが、大和言葉の大方は訓読みの言葉で、日常使っている言葉と思えばよい。四年前の創刊した俳誌「航」の中でもしきりに主張してきたことだから、自らの作品にもそれを生かしてきたつもりである。

 と言挙げされている。また本書の刊行日が本年8月15日とあるのは、著者の何らかの拘りがそうしているのだと思う。まさに、ブログタイトルに挙げた句「木槿咲くあの日よ生きて還りけり」なのだろうと、さまざま推測してみる。
 集名『青簾』の由来については、「あとがき」にも述べられているが、集中の次の句にもつながっていると思う。

   早よ外せ婆のひとこと秋簾      好宏
   名の月の頃よ簾を外さねば
   蠟塗りて簾戸(すど)の滑りも今宵から

 ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

  鳥帰る奈良より京へ逸れながら
  魚簗掛けて父の昼寝に帰りけり
  今見ねばけふ仰がねば海紅豆
  このところ少しづつ色青木の実
  めまとひが教へたがりし閨事(ねやごと)
  虚子に問ふ立子に聞かう蜃気楼
  どの蜂に貰ひし色よ草の花
  咲きそめて花に折り目や白桔梗
  十六夜を例へ申さば酢の匂ひ
  錦木に誰も触りて学校へ
  神山の篝いよいよ去年今年

 榎本好宏(えのもと・よしひろ)、昭和12年(1937) 東京生まれ。


2018年8月25日土曜日

田口辰郎「浪が泣く八月死者を海に抱き」(第49回原爆忌東京俳句大会・大井恒行特選句)・・



 去る8月11日(土)、北とぴあ・ペガサスホールで開催された第49回原爆忌東京大会作品集が送られてきた。ブログタイトルにした句は、愚生が選んだ特選句で、1402句中で唯一愚生のみが選んだのだが、他の高点を獲得した句にけっして引けをとっているとは思われない(田口辰郎は他の句で、「平和を愛する俳人懇話会賞」「全国俳誌協会賞」もダブル受賞している)。という意味も含めて、以下に大会賞作品も挙げて愚生のせめてもの顕彰としておきたい。

    (東京都知事賞)だんだんと本気になって鶴を折る 秋田県 小林万年青
   (現代俳句協会賞)兜太死すいまも火傷のの爆心地  山口県 佐伯喜誠
(第五福竜丸平和協会賞)原爆忌つくづく老いし膝がしら  静岡県 大場弌子
      (東友会賞)家系図の先を書き足す原爆忌   東京都 曽根新五郎
     (東京新聞賞)ひるまの月白く光る兜太が死んだ 静岡県 望月房義
   (新俳句人連盟賞)なわとびの輪からいち抜け爆死の子 神奈川県 菅谷かしこ 
  (口語俳句振興会賞)どの子にも無限の空や原爆忌   埼玉県 古郡孝之
(平和を愛する俳人懇話会賞)祈るため生きて八月老いてゆく 大分県 田口辰郎
   (全国俳誌協会賞)爆死者の闇にきれいな水を打つ   大分県 田口辰郎 

 因みに節目の来年の第50回原爆忌東京俳句大会は、今年と同じ北とぴあで8月10日(土)に行われる予定である。




★閑話休題・・
上記「原爆忌東京俳句大会」にも「口語俳句新興会賞」というのがあったが、その口語俳句振興会(代表・田中陽、事務局・萩山栄一)の会報「原点」No.1によると、去る5月26日(土)に静岡県島田市・プラザおおるりに於て、「主流」創刊75周年記念俳句大会と併催で発会式が開催された、とある。その事業として「口語俳句〈第一回〉作品大賞」を募集している。一編でも多く優れた作品に出会えることを期待して、以下にその要綱を列記しておこう。

・主催 口語俳句新興会 後援(株)文學の森
・募集作品 二十句(一篇)。2016年以降現在までの作品。既発表・未発表を問わない。
・参加資格 制限なし。
・参加費用2000円。句稿に同封(小為替)または郵便振替(00850-0-185086 金子徹)にて
・送稿要領 B4400字詰原稿用紙を使用。右欄外に表題を書き、20句。別の200字詰原稿用紙に表題・作者名・所属・住所・電話番号を明記。
・授賞 作品大賞一編・奨励賞若干篇。
・選考発表 口語俳句新興会会報「原点」第二号誌上。
・送り先 〒417-0014 富士市鈴川西町1-17-4 金子徹方 作品大賞選考委員会
      電話(FAX)0545-33-0659
〈口語俳句 作品大賞選考委員〉
  秋尾敏・安西篤・飯田史朗・大井恒行・岸本マチ子・谷口慎也・前田弘ほか旧「口語俳句協会賞」選考委員。
    


           撮影・葛城綾呂 アゲハ羽化中↑

2018年8月24日金曜日

望月至高「犠牲者へ椀一杯の春光を」(「奔」創刊号)・・



 「奔(ほん)」創刊号(編集・発行人 望月至高)、夏冬の年2回刊。同人は、望月至高と大橋愛由等の二人だという。本号の招待作家(俳句作品)は愚生と江里昭彦。個人誌だというだけあって、その他は、望月至高の評論、エッセイなどで固められている。その目次を記してみるだけで、精力的にかつ幅広く論じていることが窺える。望月至高は鈴木六林男「花曜」の晩年の弟子で、没後は、同門の出口善子「六曜」に拠っていたが、その同人も辞して、もはや、自らの書きたいことを書きつけるべく「奔」を創刊したのだ、と思う。
 その目次は、「虹の彼方へ 大道寺将司を偲ぶ」、「映画『三里塚のイカロス』(代島治彦監督)鑑賞」、「是枝裕和監督『万引き家族』は漂流する現代家族の真実を問う」、「『俳句弾圧不忘の碑』除幕式」、「福井紳一著『羽田の記憶』の史的重層性ー一九七〇年一〇月八日山崎博昭の死ー」、「治水は先人に学べー暴れ川だった富士川にダムはない」、「時空を超える『評伝 島成郎(しげお)』」。最後の佐藤幹夫著『評伝 島成郎』(筑摩書房)への批評論文は、「飢餓陣営」47号(1918年夏号)に執筆掲載されたものの再録である。



 その号の「飢餓陣営」は、特集「島成郎の再考」を組んでいて、望月至高の他にも、南木佳士、松下竜一の書評の再録や水島英己「世界をよこせ『評伝 島成郎の世界」、内海新祐「島成郎のもう一つの闘い方 臨床精神科医として」なども掲載している。
 「奔」は、望月至高の志向がよく伺える雑誌なのだが、ここでは、「虹の彼方へ 大道寺将司を偲ぶ」に、本誌の創刊に関わる部分が記されていたので、引用しておこう。

(前略)かっこつけるわけではないが表現者としての、思想的矜持とでもいうものを取り戻してみようと考えた。
 「たかが俳句 されど俳句」、などという言葉を聞くが、下句の「されど俳句」は、結局俳人の自己慰撫の口吻にすぎないのだ。表現形式としての俳句依存中毒はこれでお終いにしよう。大道寺にあってわたしにないもの、それを痛切に思うのだった。
 大道寺の『最終獄中通信 大道寺将司』(河出書房新社)には、獄中にあってもなお必死に時々の政治社会への発言を刻んでいる。俳人ではなく表現者たらんとすれば、世界の総体的ビジョンを持たなければ作家ではない。また自己の創作について、歴史的原理的に何であるのかを論理的に説明できないなら、その作者は職人であっても作家ではない。わたしが、大道寺の生涯にわたる全重量をかけた獄中日誌から受け取ったものは、「思想者」としての矜持とでもいうべきものであった。

 されど俳句については、愚生が思うに、職人であっても思想家はいそうな気がするし、また愚生は若き日に、愚かにも、慰藉としての俳句形式を選んでいたのだから、自分には、いささか耳の痛い話でもある。望月至高、いまどき稀有な俳人にして思想家。楽しみな道行なのである。ともあれ、以下に、同誌掲載の一人一句を挙げておこう。

  脳をでて戻らぬ翼(はね)が陽炎よ        江里昭彦
  越境の蜘蛛の餌として生きてみる        大橋愛由等
  盲亀浮く浮木と別に花筏             望月至高
  狐のかんざし素人戦(しろうといくさ)つかまつる 大井恒行



2018年8月23日木曜日

依田善朗「藍生きて藍の匂へる大暑かな」(『転蓬』)・・・



 第一句集『教師の子』に続く依田善朗第二句集『転蓬(てんぽう)』(角川書店)、帯文は鍵和田秞子、それには、

 自然詠も人事句も確りと作者のいのちが通っている秀吟である。地道に一歩一歩句境を広げ、深めてゆく作者のこれは一到達点である。大きな稔りの季を迎えた。

 とあり、さすがに弟子の来し方行く末を見守っている風情が滲んでいる。集名の『転蓬』の由来については曹植の詩「吁嗟篇」に拠るとある。五言古詩の冒頭、「吁嗟転蓬 居世何独然」(ああ、転がりゆく蓬よ、なぜ世の中にこうしてお前は独りでいるのだ」(「あとがき」には、全体の詩言、訳が付されているが略する)というものかららしい。また、作句について志してきたことは以下のように、

 風景に作者の心が宿るところに詩は生れる。自然と人生の交差するところに俳句の命がある。自然を通してどれだけ自分の心が反映されているか甚だ心許ないが、対象物と自己の接点を求めて作句してきた。

と、したためられ、よどみがない。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  蛇苺つまむやいつも少数派        善朗
  大雪渓人は次々雲に消え
  右の鎌動くことなき枯蟷螂
  音の奥より白々と夜の滝
  父なくて母のかたはら小鳥来る
  石塀にひしと蛹よ阪神忌
  頬骨のくつと突き出る歩荷(ぼつか)かな
  春しぐれ虹を生むには至らざる
  麦笛を吹く生徒らに選挙権
  雨脚の虚空にねぢれ秋出水
  線引けば線に表情竹の春
  開戦の日よ空耳のいくたびか
  徴兵の久しくなき世雪を搔く

 依田善朗(よだ・ぜんろう) 昭和32年、東京生まれ。
  



2018年8月20日月曜日

富澤赤黄男「蝶墜ちて大音響の結氷期」(『虚子は戦後俳句をどう読んだか』より)・・



 筑紫磐井編著『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(深夜叢書社)、副題に「埋もれていた『玉藻』研究座談会」とある。帯には、

 「玉藻」誌上で昭和27年から7年あまり続いた連載、《研究座談会》での高浜虚子の全発言を収載。虚子晩年の幻の肉声を聞かれよ。
飯田蛇笏から金子兜太まで虚子による《戦後俳句史》初公開!
推薦ーー深見けん二・星野椿・星野高士・本井英

と惹句されている。第1部「『研究座談会』を語る」のメンバーは深見けん二・齋藤愼爾・筑紫磐井・本井英。主に、当時の研究座談会に参加していていた深見けん二に対して、当時の事情などの確認や、疑問点を質問し、それらに誠実に答えている深見けん二の貴重な証言が随所にある。第2部が「研究座談会による戦後俳句史」で、筑紫磐井は、虚子の発言を整理し、第1回座談会より、順次取り上げ、秋櫻子・誓子・青邨・風生・草城・蛇笏など、大正時代から、いわゆる人間探求派、新興俳句、戦後の社会性俳句までのあまたの俳人の評の虚子の発言を丹念にたどって、掲載している。例えば、研究座談会で語られた「虚子独自の俳句基準」としてまとめられているものに、

【虚子評価用語
(現代語表示)
①われらと同じ俳句(我らに近く同根からでた俳句・我ら仲間の句の中にあっても異様には感じない・我らの好む句等)
②われらと違う俳句(我らにとっては門外の句・表現法が我等仲間と違う・どこか感じにそぐわない・言葉が違っている等。ただし、「云わんとするところは同情が持てる」「此の句などは分からんことはない」などの条件がつく場合も多い。)
③問題ある句(俳句というのはどうかと思う・陳腐である・俳句を難しく考え難しく叙する・晦渋である・気取っている)

がある。例に挙げられた句については、例えば、ブログタイトルにした句、

  蝶堕ちて大音響の結氷期     富澤赤黄男

虚子 『結氷期』といふのはどういふんですか。
虚子 [こういうのは説明できたらつまらないということです(けん二)]面白い処があるんぢやないかといふ気もするね。
虚子 [草田男の句は季がある(立子)]草田男は理屈つぽい。
虚子 『蝶墜ちて』は理屈がなくていゝね。

について、正直な感想が述べられている。あるいは、金子兜太の句については、

(前略)縄とびの純潔の額を組織すべし
    艦隠す青黒い森へ洋傘干す(中略)
   
 虚子 思想を現はすといふのも面白い。それはそれでいゝ。
 虚子 [十七音詩として認められるか](けん二)]認められます。但し十七音詩としてですよ。俳句ではないですよ。
    艦隠す青黒い森へ洋傘干す
 といふのは一寸分りにくいが、別に悪いとは思わん。

 という具合である。なかなかに面白いので興味を持たれる方は、本著を一読して損はないと思う。著者「あとがき」にもあるが、平成23年から毎年刊行されている本井英主宰「夏潮」の別冊「虚子研究号」への寄稿「虚子による戦後俳句史」が元になって出来上がった一本である。最新の「夏潮」別冊「虚子研究号VOL.Ⅷ 2018」には筑紫磐井は「虚子における俳句入門体系」を執筆している。同号にはほかに井上泰至・岸本尚毅・黒川悦子・小林祐代・松本邦吉・堀切実・岩岡中正・星野高士・山脇多代・齊藤克実などがそれぞれ玉文を寄せている。




 ともあれ、本書「まえがき」に筑紫磐井が引用した虚子の言(「玉藻」昭和30年4月号「研究座談会」第24回)を孫引きしておこう。

 虚子 私は、よき俳句の批評は、よき解釈だと思つてゐる。この句は、どういふことを言ひ表してゐるのだと言へば、それが、もう、批評になつてゐる。俳句の面白味は、或程度説明してやらないとわからない。解釈をして始めてわかる人が多い。だが、その句が表現してゐる限界を越えて、説明するのは、よくない。世間には、往々、さふいふ句解がある。私は、昔から、ずいぶん批評もしたが、寸評といふこともした。寸評は、その句の面白味を端的に示唆するものだ。其寸評を得てその句は生きる。子規は悪い句を攻撃した。(中略)私は好い句を取り上げる。私が其句をよいとする理由は斯ういふ風に解釈するからだといふことを説明する。



            撮影・葛城綾呂 アゲハ羽化最中↑

2018年8月18日土曜日

武藤幹「翁長氏の星ひとつ増(ふ)え天の川」(第182回遊句会)・・

 


 一昨日は、第182回の遊句会(於:たい乃家)だった。兼題は天の川・衣被・蔦・当季雑詠。帰省していた村上直樹は故郷尾道からの直行参加、また、横山眞弓には愚生が、本句会に参加してから初めてお会いしたが、皆さんには旧知の方である。以下一人一句を・・・。

  衣被つるりと本音滑らしむ     たなべきよみ
  指からめ五十年目の天の川       山田浩明
  御巣鷹の無念たゆたふ天の川      橋本 明
  きぬかつぎ掴みかねたる古希の箸    渡辺 保
  銀漢や十五の夜に決めた事       村上直樹
  雨戸這い行く手とまどう蔦かずら   春風亭昇吉
  衣被八つ夜空を眺めおり        武藤 幹
  蔦の闇厭(いと)わしき生の息づかい  石川耕治
  そこそこの倖せでよしきぬかつぎ   中山よしこ
  蔦からむ土蔵跡無し石の河       川島紘一
  ヴィオロンのセンシュアルな香蔦の窓  横山眞弓
  衣被脱がせた下の白い肌       植松隆一郎
  逢瀬にも虚実混交天の川        天畠良光 
  山脈を踏みはずしたり天の川      大井恒行  

欠席投句・・・

 天の川上げ潮八分電気浮         加藤哲也
 この道で良いの悪いの天の川       林 桂子
 小さいな人は小さい天の川       原島なほみ
 湯気まとふ艶めく見目や衣被       須賀健斗  

 ところで、このブログの元になっている句会報を、いつも、数日内には送って下さっているのが山田浩明、そのコメントがなかなかに思いやりが深い。よって、掟破りを承知の上で、叱責覚悟で、愚生が勝手に引用しておきたいと思う。

このまま一気に秋に・・・なるはずも無いけれど、
昨日/今日は楽でした。
しかし70にもなって、衣かつぎでスケベな句しか思いつかない彼らは
疚しさを感じる事は無いのだろうか。
私の的を得た一句を選んだのは武藤氏と若い昇吉さんだけ。
お二人とも全く疚しくない句を詠んでおられます。
・・・そうか、私の句があまりに的を得ていたので、
恥じて選べなかったんだな!納得、納得。
という事で、今回は久々に横山さんの出席、須賀さんの投句があり
新鮮な句会でした。(トビさん欠席の静かな句会でもありました。)
林さん、「この道」良いのだと思いますよ、きっと。
原島さん、リハビリのための仮住まい、大変だけど、報いはあるはずです。
今月の植松さんの兼題、やさしそうで難しかった・・・ですよね?
で、また、来月の大井さんの兼題がやさしそうで、難しい。そう思いませんか。
お二人のお人柄(?)がよ~く分かりますね。  頑張ろう・・・山田でした。

 引用の中の疚しさというのは、彼の当日の出句「衣被剥く疚(やま)しさ疚(やま)し齢七十」のことである。それにしても、今月の兼題は難しかった。「天の川」などはワンパターンになりやすい季題だったためだろう。愚生は句歴の長さだけが取り柄で、ひたすらバレ句にならないように用心しただけにすぎないが・・。衣被の句となれば、いつも、45歳で亡くなった田中裕明の「(ことごと)く全集にあり衣被」を思い出す。もっとも、衣被は俳人の好きな季題のひとつであるのだが、それだけにこれも難しい・・。
 次回は、9月20日(木)、兼題は、「菊・露・秋思」。  


2018年8月17日金曜日

小林良作著『「八月や六日九日十五日」のその後』・・・



          「八月や六日九日十五日を」追う!年表 ↑

 小林良作『「八月や六日九日十五日」のその後』(「鴻」発行所出版局)、前著『「八月や六日九日十五日」真の先行句を求めて!』(2016年刊「鴻」俳句会)の第二弾である。前著にょってさまざまな人から評されたり、メデアに取り上げられたりして、さらに、この句のあらたな情報が寄せられるなどして、調査が進み、その後も、「八月や六日九日十五日」の句が各地の俳句大会などに選ばれ、もしくは、類想句としてボツになったり、その後のエピソードを紹介している。なかには、
  
 荒川心星氏(「鴻」特別顧問)は、「鴻」誌昨年六月号に「『八月の六日九日十五日』のエピソードを寄稿している。驚くことに、そこには、
   八月の六日九日十五日
    あつしあつしとかなしきことよ  心星
との短歌を1948(昭23)年に詠んだと記している。その作歌は、氏が旧制中学校(現愛知県立豊田西高等学校)2年生在学の17歳の時であった。(中略)
 その心星氏が、短歌と俳句のちがいこそあれ、終戦後間もない時期に「八月の・・」と詠っていたとはー。当時の学校新聞等の所在と搭載記事を手繰ることができれば、まさに公知された短歌「八月や」となり得よう。
 
 とある。また、石子順が東京新聞に連載した「マンガ月評」の「戦争の真実を直視/平和を訴えかける」(1988年8月27日付け)で、
 
 「八月や六日九日十五日」とよんだ俳人がいた。
戦争と平和が凝縮している八月の重みをいい切っている。 

との事実にも行きついている。そして、ついにさかのぼること1976(昭和51)年に発表された同句が、小森白芒子第2句集『͡͡壺中の天』(平成2年刊)の集中に、「古希」(昭和51年)の年の部に収載されていることに辿りつく。そして小林良作は言う。

 最早、「八月や」詠み人不詳、ではなかろう。さりとて誰の句と特定することもなかろう。「八月や六日九日十五日」詠み人多数ーーそれが「八月や」に対する公平で真摯な向き合い方なのかもしれない。

とし、 

 私はもう「八月や」の作者を誰彼と云々することは大事の外のこと、と前節で総括した。それでも、
 八月や六日九日十五日 小森白芒子(1976年)
が、今日知り得た「公知された『八月や』」の初作である、と記録しておかなけれななるまい。

 著者・小林良作自身が「八月や六日九日十五日」を作ったとき、類句があると指摘され、自らの句を没にし、それを機に始まった「八月や」の句の探索の旅はこれで一応終わったのだと思う。戦争に征った人たちの世代が生還して、だれもが抱いたであろう「八月や」の句の感懐は、たしかに「詠み人多数」が相応しい、見事な総括であると思う。
 


2018年8月16日木曜日

柳本々々「信用をしてからさっと手をあげる」(「川柳スパイラル」第3号)・・



 「川柳スパイラル」第3号(編集発行人・小池正博)の特集は「現代川柳にアクセスしよう」。愚生のような門外漢には、川柳の歴史的なおおまかな流れといい、その在り様(小池正博「五つの現代川柳」)、また、飯島章友「現代川柳の発見」では、その啓蒙的な案内に随分助けられる気がする。川合大祐「『二次の彼方に』ー前提を超えて」も興味深い。大会や句会の方法も、いわゆる俳句の句会とちがうダイナミズム、「選ばれる」ことを「抜かれる」と言ったり、評する言語の違いもあるようである。このあたりの川柳の選の時代的な変遷については小池正博がよく説明している。安福望と柳本々々の対談「川柳を描く。と何かいいことあんですか?」では、柳本は、

 (前略)川柳ってゲリラ的でアナーキーでカオスなところがいいとおもうから、いろんな渦をつくりながら、やっていってもいいんじゃないかとおもって、で、もちろん、やだっていうひともいますね。で、そういうやだもふくめてやってくのがいいなあとおもうんですよね。うず、で。小池さんはときどき、やぎもとさんのいうことに不満です。っていうんだけれど、ぼくはそういうそれ不満ですとかそれありかともといろんな声がうずまきながら、実作がおこなわれていくのがいいなあとおもって。

 と述べているが、たしか「オルガン」でも、柳本々々は、座談の際などの文章表記にもずいぶん平仮名を多用しているので、たぶん、テープ起こしなどされるスタッフは、著者校正の折りに、漢字で書かれた部分、たとえば「作って」を「つくって」などのように、改めて字を開いているのではないかと想像している。この特色は、現在の若い世代に共通する意識的なものだと思うのだが、いつかその理由を窺ってみたいとも思う。そこに現在という時代の底にある愚生にはうかがい知れぬ心性を表わしているような気がするから・・・。インターネットでは「川柳スープレックス」のサイトがおススメらしい(飯島章友)。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  ろぼっとのやきそばいがい魂だ        川合大祐
  スコップをざくりと入れる地平線       一戸涼子
  ふと我に返る自動改札機           悠とし子
  パイプ椅子二つ 翼の重みだな        石田柊馬
  曇天だったね垂れ幕のテレパシー       小池正博
  あしぎぬの空のいちめんのいなびかり     畑 美樹
  コミュニケーションが苦手な石        柳本々々
  アンケート出したらバスに乗せられる     浪越靖政
  落ちた実の踏まれるまでを高貴という     兵頭全郎
  下線部の意味を歪めて書きなさい       湊 圭史
  その茎を束ねるように抱きしめる      清水かおり
  継ぐ者の途絶えた「流し川柳」だ       飯島章友



2018年8月14日火曜日

加古宗也「雲雀は天を人は水辺を好みけり」(『茅花流し』)・・

 


 加古宗也第5句集『茅花流し』(角川書店)、「あとがき」によれば、『雲雀野』に続く第5句集で、平成17年から25年までの句から371句を選んだという。集名に因む句は、

  茅花流しや富士川は富士の水     宗也

 であろう。師の富田うしほ、潮児、その師・村上鬼城に関する句も多く収録されている。

     鬼城忌四句
  水茎に漲る力常閑忌
  蓑虫の鳴くという嘘常閑忌 
  忌の寺のこぼれやすくて紅の萩
  鬼城忌の山河きちきちばつた飛ぶ
     守石莊
  句襖の八面復習ひ常閑忌
     冨田潮児翁
  誰れ彼れをいつも案じて生身魂
     富田潮児翁百寿 三句
  子に孫に長寿はやされ生身魂
  生身魂けふもすててこ離さざる
  手を膝に昭和を語る生身魂

 その生身魂も平成23年9月29日に身罷っている。 鬼城は昭和13年9月17日、うしほは昭和52年9月19日、何れの忌日も近い。富田木歩の忌日は大正12年9月1日、関東大震災の渦中に没したと伝えられている。

  わが顔にかかる蜘蛛の囲木歩の忌
  鳳仙花はじけ木歩の忌なりけり   

 忌日句と言えば、龍太を悼む句もある。

  龍太逝く今日も桜の家武村
    註 家武村=現在の西尾市家武町。
           「雲母」誕生の地  

 ともあれ、他にもいくつかの句を挙げておきたい。

  団扇絵は球子の富士やぱたぱたす
  涅槃図の端のまくれて猫のぞく
  岳の上に雪の岳あり花の雲
  銀河見えずなりぬランタン高く飛ぶ
  冬晴や日時計はけふ影持たず
  



             俳句集団縷縷俳句展VOL.3 ↑
                 2018,7.7・8    
 

★閑話休題・・・
 先日、7月8日の愚生のブログで紹介した「俳句集団 縷縷 俳句展」のフォトブックが出来たというので、一冊恵まれた。文庫サイズの写真をふんだんに、瀟洒な出来栄えである。展示の様子や同人仲間の写真など楽しく、さらに当日の飾られていた句なども掲載されているが、すでにブログで一人一句を挙げておいたので、今回はそのフォトブックの書影のみだが紹介しておこう(上掲写真)。



          撮影・葛城綾呂 アゲハの羽化↑ 

2018年8月13日月曜日

内田正美「人間の名前が書き殴られた壁」(「鹿首」第12号)・・



「鹿首」第12号(鹿首発行所)の特集は「イメージの血層」、地層にかけた血層、少しおどろおどろしい感じがするが、これが「鹿首」(詩・歌・句・美)の特徴というか趣向である。冒頭のアーティスト・インタビューは山内若菜「被曝牧場のペガサス・そしてヤンバルクイナ」。愚生は不明にして初めて名を留める人であるが、表紙絵になっている作品やインタビューの内容をうかがうと実にエネルギッシュであり、

 若菜さんの作品というのは、実在の世界を実際に観て、体感しながら、その背後に隠されている不可視なもの、未来への不安や希望のようなものを捉えて、何かメッセージとして伝えようとしている。それは写実という方法ではないのですが、強烈なリアリティーを表現している。

と、編集部が名付けたように、「『侵食』とか自然の持っている生態系の循環性とか、自然にしても命あるものにしても、実在の底部で深く繋がっているイメージを捉えようろしているのです。それを「イメージの血層」という言葉で表しました」ということになるのであろう。
 また、「鹿首」の毎号の論のなかではいつも、高柳蕗子のデータベースを駆使した短歌の読みに感銘を受け、刺激をうけているのだが、今号も期待を裏切らず「青が世界を深読みさせる」で、具体的に、作品に即して記された「青」にまつわるもろもろの魅力に興味をそそられた。長大な論の冒頭には、註のように付された書き出しがある。

  本稿は短歌における「青」という言葉の考察であり。青い色そのものと、言葉の青を区別して表記する。
 色そのものは通常の表記とし、強調や引用の際には「青」と書く。それに対して言葉の青は、〈青〉と表記する。
 また、〈青≒△△〉は、「〈青〉のイメージが△△と連想脈で結ばれている」ということを意味する。青以外の言葉も右に準じた表記をする場合がある。

とあり、「おわりに」には、

 本稿を書くにあたって、〈青〉の短歌を一気に大量に読んだ。それらの歌全体が私に深読みを促した。その深読みをまとめたのが本稿である。
 青と緑は、多くの言語で混用からスタートするそうだが、それを色の識別の話と捉えると言葉の本質から外れると思う。言葉の変化とは、人々の言語活動による新たなイメージや概念の変化を反映するものだったのだ。

と結ばれている。ともあれ、同誌の句作品から以下に挙げておこう。

  湖は紫紺の泪秋の馬       西川徹郎
  いちりんの瑠璃光世界花すみれ  井口時男
  棺から投げ返される狂い花    内田正美
  はまぐりのふたみの椅子に雲の影 奥原蘇丹
  勿忘草末摘む指に水の紋     三沢暁大
    あんきも×ひやおろし
  遠くしか見えない窓へつるします 八上桐子
  枝蛙葉に包まれて夢見顔     翁 譲
  山里の誰そ彼はやし柿黒き    風山人
  足跡は真直ぐにならず春の土   星 衛
  菩提樹はいのちの木霊明日香村  研生英午



★閑話休題・・・・
上掲写真は、府中市開催、被曝二世のアオギリの発育写真展の案内(於*府中駅南口、ル・シーニュ6F,府中市市民活動センタープラッツ会議室、~8月15日)です・・・



           撮影・葛城綾呂 アゲハの羽化↑

2018年8月11日土曜日

石原百合子「熱帯夜『いいね』五万のツイートや」(「円錐」第78号より)・・



 「円錐」第78号は第二回円錐新鋭作品賞の発表である。各選者のそれじれの推薦賞となっている。加えて各選者の推薦句受賞者の各5句が3名ずつ、計9名が掲載されている。愚生の「豈」においての第4回攝津幸彦記念賞も愚生を含め選者三名の選が割れて、唯一重なっていた作者がいたものの最優秀賞は授賞なしにした。そして各人に優秀賞を授賞し、かつ若手推薦賞(攝津記念賞には年齢制限がないため)を決めた。たぶん円錐新鋭作品賞においても応募者の多彩さ、それぞれの表現の水準が拮抗していたということなのであろう。
 円錐新鋭作品賞は賞の名にそれぞれ選者の冠名がついている。因みに、花車賞(澤好摩推薦)、白桃賞(山田耕司推薦)、夢前賞(樋口由紀子推薦)である。以下に各人の一句を紹介しておこう。

  絵日傘に一礼かへす白日傘     石原百合子(花車賞)
  後方にきのふの月の光かな      高梨 章(白桃賞)
  撮るほどの虹ではなくて見てしまふ  大塚 凱(夢前賞)

以下は円錐同人より一句、
 
  ときめきしものにぬりゑの赤い国   後藤秀治
  尻取りの句は散り散りに長岡忌   三輪たけし
  手鏡の化粧直しや目借時       小倉 紫
  わたつみや柩の舟に骨の櫂      今泉康弘
  はかりなきことのあはひに雪月花   栗林 浩
  一匹の淋しき蠅や青嵐        江川一枝
  花筏風の船頭機嫌よし       田中位和子
  唸り凧見えぬ高さの糸を引く     丸喜久枝
  買物の最後にうぐひす餅を買ふ   原田もと子
  野遊びの翁の白衣しめりけり    荒井みづえ
  福助にひねもす降れりそは亡母か   横山康夫
  麦の秋母背負ひたるおぼえなく    大和まな
  火の国の青年如何に夏薊       味元昭次
  夏虫の跳ねそこねしは歩みつつ    山田耕司
  数輪の梅花藻を水うねり過ぐ     澤 好摩
  くたぶれた女の胡坐夏に入る     矢上新八
  踏込めば廻廊鳴ける万愚節     山﨑浩一郎
  たかんなの煮炊きは淡し斎皇女(いつきみこ) 和久井幹雄
  水瓶を庭に持ち出す季節が変る   橋本七尾子
  階段の鴨の緑の立ち残る      宮﨑莉々香



          撮影・葛城綾呂 アゲハの羽化↑


2018年8月10日金曜日

原石鼎「蔓踏んで一山の露動きけり」(「ふらんす堂通信」157より)・・



ふらんす堂通信157(ふらんす堂)、で宇多喜代子「怖い俳句」の連載が始まった。ブログタイトルに挙げた石鼎の句はその第一回目のものである。その文中にロクさんという60年間山で一人暮らしをしてきた山守の話が出てくる。

 畳一枚分の畑を耕し、川の魚を捕り、山菜を摘み、わずかな調味料、わずかな衣服、手拭の二三本などを山主から貰い、機嫌よくくらしていたロクさんを、行政が山中に暮らす「独居老人」と指定してあれこれと行政指導を始めたのだ。すると平素、付き合いがあったわけでもない人らが、ロクさんに対する行政の扱いを依怙贔屓だと言い合い、嫌みの一つ二つを投げかける。人付き合いに不慣れなロクさんに心労が募る。どんなにか苦痛であったろう。いつしか疲れはて、ついに縊れて死んでしまった。(中略)
 ここの真夜の闇はしんからの闇で、月星のない夜など十センチ先も見えない。私はこの闇を怖いと思うが、原石鼎はこの闇のなかで、『花影』の佳句を残している。
 怖ろしいのは人間の妬心か、山いっぱいの露か、夜の闇か。

 他に、第9回田中裕明賞の受賞者・小野あらたの新作10句と「俳句について思うこと」の特別寄稿、そして、選考委員の経過報告も掲載されている。愚生は、小野あらたの句集は読んでいなかったので、何ともいえないが、福田若之『自生地』について語る小川軽舟の言葉に慧眼を思った。

 何より感心したのは、現代の言葉(口語の話し言葉と書き言葉)だけで俳句を作り、一冊にまとめあげたことだ。五七五にきれいに収まった口語俳句が陥りがちな標語のような単調さを、福田さんは句跨りなど複雑なリズムを刻むことで乗り越えた。「春はすぐそこだけどパスワードが違う」「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」「ぽーんと日傘手放して海だぁーってなってる」、俳句が慣れ親しんだ文語をあえて拒みながら、口語で読む快感を与えてくれる。俳句が現代以降の時代を生き続けるための一つの扉を開いた句集だと思う。

 愚生も『自生地』によって、現代の俳句が、現代仮名遣い、口語で書かれた非俳句として(大袈裟に聞こえるかもしれないが)、十年に一冊、いや二十年に一冊の、まさに時代を画する句集がようやく誕生したと思った。それを小川軽舟は、「俳句が現代以降の時代を生き続けるための一つの扉を開いた句集だと思う」と言う。その通りだと思う。小野あらたの句が悪いといっているのではない。俳句の器が表現してきた言葉の地平の手ざわりが真にあたらしいのだ、と思う。愚生は第一回の髙柳克弘句集『未踏』から、自分なりに、ひそかに、田中裕明賞の対象句集を予想してきた。第二回の受賞作無し(これは御中虫を予想したような?・・記憶はあいまいだが、)を含めて、けっこう当たってきた。今回は、文句なく『自生地』を予想したが、見事に・・・その期待も外れた。まだ俳句の時代の方が『自生地』よりも少し遅れているようだ。
 ともあれ、同誌同号より、いくつかの句を挙げておこう。

   水門を閉ぢて開きて遊び船        後藤比奈夫
   一と棹で流れに乗りし舟遊び       深見けん二
   敗戦日いつも求肥はぐにゅぐにゅと     池田澄子
   水飲んでしばらく薔薇の空仰ぐ      岩淵喜代子
   紙魚の跡無き頁へと行き着きぬ      小野あらた
   カルナヴァル忌の聖セバスチャンこそ夏料理 関 悦史
      カルナヴァル忌=金原まさ子の命日 六月二十七日



          撮影・葛城綾呂 アゲハまもなく羽化へ↑

2018年8月9日木曜日

大井恒行「刑死あり烈暑豪雨下なりまかる」(「東京新聞」8月8日夕刊・辺見庸の記事に)・・・



 昨夕、8月8日付け東京新聞夕刊に、辺見庸は「人びとはこれを望んだのかー『オウム全死刑囚の執行終了』気づかざる荒みと未来」と題された論を書いている。先日の「ジャム・セッション」(編集・発行 江里昭彦)を読んだときもそうだったが、実に鬱勃たる気分は消えないでいたところ、そのわけを辺見庸は、まるで愚生の非力な脳を覚醒させるべく、よく分析し書いてくれている、と思った。以下に引用するが、より興味のある人は、当の新聞を読んでもらいたい。書き出しは、

 さながら古代である。計十三人の処刑が終わった。紀元前十八世紀のハンムラビ法典の言葉がよぎる。「目には目を、歯には歯を」。石を噛むようなおもいがいつまでも消えない。わたしたちはこれを真に望んだのだろうか。(中略)
 死刑の執行とは、美しい観念や崇高な思想の実践ではない。いくら改心しようが生きたがっていようが、一切問答無用の、リアルな生身の抹殺である。言葉と声、身体の公的な抹消ーそのような行為を、わたしたちはそれぞれの実存を賭して、わが手を汚してやっているのではない。刑務官にやらせているのである。われわれはもっと狼狽(ろうばい)し、傷つき、苦悩すべきだ。(中略)
 人はここまで荒(すさ)むことができるものか。死刑反対、賛成の別なく、人命に対する畏れとつつしみをなくしたら、人間はもはや「人間的」たりえない。オウム真理教というカルトは、人命への畏れを欠くことにより、国家悪を一歩も乗り越えることができず、奇形の「国家内国家」として滅んだ。あの「ポア」の思想は、国家による死刑のそれと劃然(かくぜん)とことなるようでいて、非人間性においてかさなるところがある。上からの指示の忠実な実行、組織妄信、個人の摩滅、指導者崇拝という点でも、オウムは脱俗ではなく、むしろ世俗的だったのであり、われわれの”分身”であったともいえる。(中略)
 かんたんな道理がとおらなくなってきた。たとえば「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい」(新約聖書「マタイによる福音書」)あるいはその逆の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)といったあたりまえの黄金律も乱暴に無視されることが多い。このたびの死刑もそうだ。わたしはこれをまったく望まなかった。望まないにもかかわらず、執行された。(中略)
 確定死刑囚とは何か。確定(・・)とはんなにか。かれらは人間ではないのか。それは古代ローマ法にいう「ホモ・サケル」とどうちがうのか。いっさいの権利を奪われた「剥(む)き出しの生」と、いったいどのようにことなるのか。答えられないのに、議論もせず、殺すことがなぜ赦(ゆる)されるのか。(中略)
 被害者感情と死刑制度は、ひとつの風景にすんなりおさまるように見えて、そのじつ異次元の問題である。前者の魂は、後者の殺人によって本質的に救われはしない。わたしは死刑制度に反対である。それは究極の頽廃(たいはい)だからだ。

 愚生はたぶん、自分の肉親や子ども,あるいは愛する者が殺されたら、その当の相手を殺そうと思うだろう。癒されることのない憎しみを抱くだろう。そして、自分で相手を殺し、たとえ自分が獄に下ったとしても、自分の心はついに晴れないだろうと思う。むしろ、憎しみの対象が居なくなることにおいて、愚生はその後の憎しみを生きることができなくなる。憎しみ続けるためには当事者に生き続けてもらわなければ困るのだ。つまり、相手を抹殺しても自らのこころは救えない、救われない、それだけは想像できる。いかなる意味においても暴力的に、一方的に他人の命を奪うことによっては、ましてや国家による殺人制度としての死刑では、少なくとも自らの未来も、自らが存在する社会にも、望むような未来はこない、と思える。
 現在、麻原彰晃の信者がどれだけいるかもしらないが、この死刑がいくばくかの政治的な(愚生には想像もできない)執行であったとしも、麻原彰晃の死は、その信者たちにとっては、殉教の死であり、麻原が人間からほんとうの神になることにほかならない。オウムは死せずである。その意味では、死刑執行は最悪の選択だったかもしれない。
              
       刑死あり烈暑豪雨下なりまかる      恒行



          撮影・葛城綾呂 セミの羽化↑
 
 

2018年8月8日水曜日

青木澄江「秋深き影の中から猫が出る」(『薔薇果』)・・・



 青木澄江第二句集『薔薇果』(角川書店)、序句に、

   夢の世のゆめ森閑と澄む虚空    津沢マサ子

 著者の名を一字詠み込んである。また、著者を十代の頃から見守ってきたという和泉香津子の帯文には、

 中央アルプスと南アルプス。
 屹立する嶺々に囲まれ。
 天竜の流れがつらぬく
 伊那の里。

 幾年月。

 風景として清爽のひとを
 思う折ふしは、今も
 私にとっての安堵である。

 と記されている。集名の由来については、「あとがき」に、

 句集名の『薔薇果』とは、梅、桃など子房と種子だけで出来ている果実を「真果」というのに対して、薔薇の実、林檎、梨、などのように花床、花軸、萼など子房以外の部分が子房とともに肥大して出来る果実のことで「偽果」ともいうらしい。私の句が真果と言えるものかどうかと考えた時、この句集名はとても相応しいものに思えた。

とある。そして「ここ十年来私淑しています津沢マサ子さん」宅には、山口剛が健在の頃、彼が上京するたびに、青木澄江も津沢邸に行っていたと思う。愚生もそのうち何度かはご一緒させてもらった想い出がある。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  手花火のびくともしない闇がある     澄江
  葱坊主男なら立ち尿せよ
  秒針にゴールはなくて日の永し
    悼 小宅容義
  戻らない夏へ立木は立ち尽くす

    悼 浅野毘呂史先生
  呆然の視野あきざくら秋桜
    悼 山口 剛
  白の残像となりけり秋の蝶
  冬たんぽぽ海辺で海の見えぬ場所
  桜また桜さくらや桜古都
  露の身をもってまみえる伎芸天
  
 「薔薇果(しょうびか)」に縁のある句は、

  薔薇の名はホワイトサクセス山に雪
  冬帝の心臓ですよ赤い薔薇

である。

 青木澄江(あおき・すみえ)1952年、長野県駒ケ根市生まれ。


2018年8月7日火曜日

中川智正「わが骨をわけるわけかた春の泥」(「ジャム・セッション」第13号)・・



 「ジャム・セッション」第13号(編集・発行人 江里昭彦)、挟み込まれた別紙「『ジャム・セッション』の今後について」には、

 本号の原稿は6月23日に印刷所へ送付しました。校正原稿が届くのを待っていたところ、7月6日に突如、刑が執行されました。急遽、中川氏の遺影を巻頭に掲げましたけれど、目次以降は7月6日の事態を全く反映していません。つまり、本号は追悼号ではありません。(中略)
 そこで、来年の睦月に第14号を、そして、中川氏の祥月命日である7月6日に第15号をもって、「ジャム・セッション」を終了します。しばらくおつきあい下さい。

           2018.7月31日
                                 江里昭彦

 としたためられていた。記事に、中川智正「私をとりまく世界について(その十二)」があり、2018年3月14日、東京拘置所から広島拘置所に移送される際の様子と拘置所職員に対して、「私は、東京拘置所の地下の出口を歩いてでましたが、私は思わず振り返っておじぎをしながら『ありがとうございました』と声を張り上げてしまいました」と記され、また、

 結局、午後六時頃に山陽道を出て広島の市街地へ入り、しばらく走って広島拘置所に着きました。カーテンを通して護送車の外で沢山のフラッシュが光るのが分かりました。護送車から降りる時、車内の時計で六時二十五分でした。十三時間手錠のまま護送車の中でした。車酔い、睡眠不足、そして後から思えば脱水でふらふらでした。到着直後の血圧は、収縮期が二〇〇、拡張期が一〇〇を越えていて、心拍も一〇〇前後でした。疲れているのに夜は寝られず、体重は五キロ落ちていました。(中略)
 東京よりも職員は気さくに声をかけてくれます。法律には定められていない収容者への対応が、東京よりきめ細かい感じです。朝、窓の外で鳴く雀の声を聞くのは十数年ぶりでした。ともあれ、私は広島で何とかやっています。

 とも記されていた。その他、食生活など、日常生活の記録を残すという意味でも麻原彰晃の服や食事のことについても書かれていた。貴重な証言だろう。
 江里昭彦は追悼・金子兜太で「兜太は野人の載冠」、「光州への旅」、書評などを執筆、彼の志向がよく伺える記事が多く充実していた。
 ともあれ、ゲスト作品を含め、以下に一人一句を挙げておきたい。

  誰彼となく手をつなぎ大枯野     諏訪洋子
   金子兜太氏の逝去に
  春荒や秩父や今日は花買う日     中川智正
  ガザへ運ぶ泣きも呻きもせぬ塩を   江里昭彦



2018年8月6日月曜日

島田牙城「みづうみを出でゆくみづの灼けゐたり」(「しばかぶれ」第二集)・・



 「しばかぶれ」第二集(「しばかぶれ」、発売・邑書林)、は「特集・島田牙城」である。島田牙城特別作品三十句、各同人による牙城句集評に加えて、島田牙城インタビューと、細密を極める評論「島田牙城青の時代」はいずれも田中惣一郎。また島田牙城百二十句選は堀下翔。島田牙城の現在まで寄ってきたる経歴とおおよその在り様は伺える牙城理解の必読の一本といっていい。
 インタビューは第一部「波多野爽波『青』により仲間と過した青春時代」、第二部は「上京、編集者時代様々な俳人、歌人との交流」。愚生にとっても思い出深いというか、愚生が京都に三年居た時期に、彼と擦れ違っていたのではないかという錯覚に陥った。それは「東雲」や三浦健龍「鷺」の名が出てきたせいであろう。愚生が京都にいたのは1967年から70年あたりまでだから、愚生よりかなり若い牙城に会っているはずはない。愚生が最初に、彼の名を記憶したのは、「俳句とエッセイ」の編集者・島田尋郎である。インタビューにも出てきたが、飯田龍太特集である。若かった愚生は、何かのお祝い企画だった飯田龍太について、龍太自身があまり触れられたくはない事情について記したせいだと思う。後に立腹していたと牙城から聞かされたことがある。愚生は、飯田龍太は一等好きな俳人であったが、その故に、龍太の作品について正直に書き過ぎてしまったのだ。思えば総合誌に愚生が書いた初めての批評文であった。
 以来、島田牙城には事あるごとにお世話になったり、危ない橋もわたってきたようにも思う。しかし、俳句の世界において編集者としての彼の仕事ぶりには、いつも感心させられている。初期の楸邨全集や波多野爽波全集や、また、セレクションの俳人・歌人・川柳の仕事などは彼無くして実現しなかった企画であり、そうした苦難を志としていつも彼は引受けていたように思う。
 「しばかぶれ」は「里」の四十歳以下の同人が結集した同人誌なのだという。奥付前の「編集後記」とおぼしきところに編集長・堀下翔は以下のように記している。

(前略)俳人としての姿は「里」の内部にいないとなかなか見えません。僕は牙城さんの句が大好きなので、この特集を作りました。また、邑書林設立以前の活動を記録する意味でインタビューも敢行しました。

 牙城、もって瞑すべし、羨ましいというべきか。今後も身体をとにかく大切にして志の実現のために奮闘、活躍を祈りたい。ともあれ、総力の同人諸兄姉の一人一句以下に挙げておきたい。

    噫、波多野爽波
  拾月に蟬を鳴かせて逝きたまふ       島田牙城
  寒雷や波のをはりは波頭          佐藤文香
  蜘蛛乗せていのちがかゆい指の腹      坂入菜月
  なきがらにして着膨れの爺なり       堀下 翔
  潮さわがし墓にはまなす咲いたらし    青山ゆりえ
  アルビノの天使アスパラガス剥きぬ     中山奈々
  彼んちのカレー三日目冬隣         川嶋健祐
  くちびるのびるに初音を取りこぼす     青本柚紀
  朝曇言語学者の理論に詩          脇坂拓海
  露草に脱ぐそのままの暮らしかな      青本瑞季
    ときどきなみだのごふ手拭(てぬぐひ) 周令
  まなかひに靡(なび)かふ水(みづ)も夏霞(なつがすみ)田中惣一郎