2020年2月1日土曜日
眞鍋呉夫「逢へぬ身は日々透きゆくと雪女」(『眞鍋呉夫全句集』)・・
沼津・大中寺での句碑開きの折の揮毫・呉夫77歳。 ↑
句碑の句は「花びらと水のあはひの光かな」
『眞鍋呉夫全句集』(書肆子午線)、全句集の跋は髙橋睦郎「雪月花の人 跋に代えて」、栞には、上久保正敏「虚空に書くー眞鍋呉夫先生断想」を除いては、再録、那珂太郎「眞鍋呉夫の句」、粟津則雄「『雪女』について」、種村季弘「大いなる眼に見られをりー眞鍋呉夫句集『雪女』のために」の四名。
愚生が眞鍋呉夫(天魚)と会った最初は、関口芭蕉庵の連句会で、天魚の弟子の浅沼璞に連れて行かれた時である。まだ句集『雪女』を出される前のことだ。俳諧誌「水分(みくまり)」を出された頃だったのではなかろうか。ご自宅に伺ったこともあった。つまり、二十年前の話だ。『雪女』が第30回藤村記念歴程賞を受賞した折のお祝いの会には、たしか俳人の姿は見えなかった。全句集をいただいて、没後8年が経ったことに、少し驚いている(享年92)。いつだったか、正木ゆう子と三人だったときに、眞鍋呉夫が、しきりに、正木ゆう子のことを、「このひとは僕の雪女です」と言っていたことを思い出す。
上久保正敏が記している、
戦争について、芭蕉の「造化にしたがい、造化にかえれ」という日本の詩歌の根底に流れる「不戦だから不敗」という絶対平和を語られた。先生は戦後「絶對平和論」を書いた保田與重郎とは、彼の晩年親しくなられた。
ことも、愚生は幾度か聞いた。絶対に読めと言われた『絶対平和論」も手にした。また、髙橋睦郎は、
(前略)これを言い換えれば、眞鍋呉夫は恋・死・友の詩学をもって雪・月・花に代表される季題・季語の本意を生涯かけて攻めつづけた人。その結果、彼の俳句は俳諧史に空前絶後の戦慄を得た。ここでいう戦慄とは、十九世紀フランスに於いてヴィクトル・ユゴーがシャルル・ボードレールに献じた「君は詩に戦慄をもたらした」に沿う意味での戦慄である。詩に戦慄とはともかく、俳句に戦慄とは!私見をいえば、霊肉が死とすれすれの恋、むしろ性愛に遊ぶとき立ちあがる波動のごとき何ものかではあるまいか。古典語の恋が現代語の性愛に近いことはいまさらいうまでもあるまい。
と述べている。ともあれ、本全句集から、補遺と既刊句集未収録句の部分よりいくつか以下に挙げておきたい。
花柚(はなゆ)の香さびしくなれば眠るなり 呉夫
亡き戦友(とも)の手をひいてくる雪女
雪女同じところにある黒子
雪女抱けば死ぬとは知りながら
秋空に人も花火も打ち上げよ
枯木がひとり だから夜空に風が鳴るのだ
母よりの便りの中の句「防人のたよりとだえつ衣(きぬ)つづる 織女」
への返し
母が守(も)る國のまほらも雪積むか
昭和十八年一月二十八日早朝 西鉄大牟田線楽院ー平尾間の
無人踏切にて矢山哲治轢死 享年二十四 それが自死なりしか事故
なりしかも判明せずといふ島尾敏雄よりの急電に接して動顚なすすべ
を知らず「わたしは鳥/もう一羽の鳥がよびかける夜が明けるまで/
羽が休まるときまで翔けてゐませう」とはその遺作『鳥』が後半なり
羽搏(はばた)きのかなしきまでに冴えかへる
未発表
死水は三矢サイダー三口半
月皓々空にも魚の泳ぎをり
眞鍋呉夫(まなべ・くれお) 1920年、福岡県生まれ。
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