2022年1月31日月曜日

安井浩司「麦秋の創造されたる嫁であれ」(安井浩司『自選句抄 友へ』)・・

  


   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(10)


     麦秋の創造されたる嫁であれ      浩司


 安井は生涯に、何度か自選句を選出したが、選択した句にかならず入っていた一句である。

 時折、安井インタビューで、俳句は構造であり文体ではないと答えていたことを思い返す。たとえば、読解では、句集に書かれたことば(俳句作品)を読者が読み、作者は書かれたことばの向う側の見えない姿として存在する。読者、句集、書かれたことば、作者、時間、空間などを有した構造となる。


   汝も我みえず大鋸(おおが)を押し合うや   『汝と我』


 この句は読者と作者の構造を「大鋸を押し合う」ようだと表現する。

 では、掲句においてはどうだろう。「麦秋の」の句を普通に読んでみれば、上句で切れるのだが、「麦秋の創造」と、中句の途中で切れを入れた読み方をしてみたい。

 「麦秋」は夏の季語であり、万物が様々に変化する美しい風薫る季節だ。

 薔薇・紫陽花・花水木・蔓・撫子・都忘れ・空木・菖蒲など、初夏の花々は順に開花し、北国では花々が一斉に花開く。更に、青々とした葉の夏木立、青い実を付けた青木立は、田畑や山々、野草や雑草とともに緑濃く彩られた世界を創る。その青々とした世界に麦穂の黄色は一面に拡がる。

 中句の「されたる」の「され」は古語、さる「戯」の連用形で、洒落ている、風流だ、趣がある意味だが、日光や風雨にさらされよけいなものがなくなるからこの意味になる。そして、古語「さる」は現代語の「洒落る」である。

 そこで、「さすがにされたる遣り戸口に(源氏・夕顔)の訳が、しゃれた趣のある引き戸口」と古語辞典(大修館全訳)にある例を見れば、中句の「されたる」は洒落た趣のある意味となる。

 そうすると掲句が言い表した事は、美しい麦秋の季節は天地万物の創造であり、この麦秋の創造のような洒落た趣のある嫁であってほしいという願いの句だ。

 そして「俳句を自分の主、もしくは妻として選ぶのに何の抵抗もなかった(『安井浩司選句集』インタビュー)となれば、「嫁」は、結婚したばかりの妻、俳句であり、「麦秋の創造」が俳句の創造の源であってほしいと文体的に読んでしまう句でもある。

 最後に、「嫁」という語を女性の俳人はどう受け止めるのか。安井の俳句を女性とする考えを、「妻(つま)」から「夫(つま)」へ変えればよいのかという単純なことではなく、俳句と嫁と妻を書き手の俳人が女性性で、同時のこの関係からは、これまでの読み方では読みは成立しない。それで、文体的に読まざるを得ない句となる。

 俳句=女性、作者=男性、この考えを超えるのに、韻律による自然言語で俳句を書く他ないように思える。散文的なことばを避け、韻律の自然言語で俳句を書ければ、男女の性差を超える。そして、俳句のことばが詩言語となるように思える。自然言語は、人類の歴史の中で自然発生したもので、誰しも己自身の言語の深層から発生してくるものである。

         追記

 句を成す友よ。いずれにせよ、その荒野の軌なき道を歩む外無いのである。

                          (「虚空山河抄」より)

 自己へ(私としての個)の道を歩む他なく、誰しも、只、今、ここに生きている。

 浄土門の向かう、瑠璃王土に安井浩司の立ち姿を見る。



     撮影・鈴木純一「白菜をはがしてだんだん忘れてゆく」↑

2022年1月30日日曜日

渡辺信子「悲しみの氷柱(つらら)言葉は傍(そば)に置く」(第33回「(メール×郵便切手)ことごと句会」)・・


 
 「第33回・(メール×郵便切手)ことごと句会」(2022年正月十五日・土 付け)。

兼題は一句「日」+雑詠2句=合計3句出し。ともあれ、一人一句と寸評を以下に挙げておこう。


   指折りて何を数える日向ぼこ        渡邉樹音

   葉牡丹の大中小の人生感         らふ亜沙弥

   金属音ぶちまけている氷点下        江良純雄

   大晦日人それぞれの夜が来る        杦森松一

   まんじゅしゃげ一つの旗は燃えやすい    武藤 幹

   冬没日(いりひ)撤去止む無し跨線橋    渡辺信子

   数え日や山里海(みなと)白い日日     金田一剛 

   日月に生まるる火宅室の梅         照井三余

   空の無の空無の宙(そら)の雪無限     大井恒行


・渡辺信子「悲しみの氷柱言葉は傍に置く」ー感情の氷柱だ!溶けるに従い「言葉」と成るか!?(幹)。ー氷柱は心。言葉なんかでは表現できず。仕方なく心の外に置き悲しみに埋没する(純雄)。

・「指折りて・・」ー日向ぼこしているといつの間にか、こんなことをしている私(亜沙弥)。ー老骨を感じてしまいます(松一)。

・「葉牡丹の・・」ープランターに並べられたいろいろな大きさの葉牡丹を見て、作者はふいに人間について思った。なにか、ものに触発されて思うことがよくある。今年、係長は何を考えているのか、とか、どうも部長の考えはこ頃変だとか(英一)。ー人生観ではなく、人生感なのですね。なるほど(信子)。

・「金属音・・」ー悪意すら感じるほどの寒気ですね(信子)。

・「大晦日・・」ー大忙しの大晦日。この日は「集団」の意識が強い。個人に光を向けた事、秀逸!!(幹)。ー「人それぞれ」が好感(亜沙弥)。

・「まんじゅしゃげ・・」ー「まんじゅしゃげ」と中下句「一つの旗は燃えやすい」のフレーズのシンプルな対比でありながら、様々な示唆を感じさせる(恒行)。

・「冬没日(ふゆいりひ)・・」ー「跨線橋」には太宰に繋がる憂愁がある。中句のこだわりが響く!(幹)。

・「数え日や・・」ー下五「白い日日」の「日」が果して何か?意外に抽象的である。ただ「山里海」に自然の循環の摂理を思うと、もう少し句が良くなる措辞が見つかるのではないだろうか(恒行)。

・「日月に・・」ー上五と中七の「日月に生まるる火宅」は佳いとしても、下五「室の梅」では、余りに平凡過ぎるのではないか。「火宅」とくれば、どうしても檀一雄の「火宅の人」が脳裏をかすめる。一句を飛躍させる下五(言葉)が欲しい(恒行)。

・「空の無の・・」ーわたしは、俳句は日本語と日本字(漢字・かな=国字)で成るものだと思います。この句を、音だけで聴くのと、文字の配置で見るのとではとらまえかたが違ってくると思います。俳句はビジュアル詩でもありますね。わたしは、こんな字面やことばの配置句を心がけtいます。が、そうすると毎度毎回「だじゃれ句」に陥りやすいのです(剛)。



         芽夢野うのき「むべなるかな蠟梅は黄に殉ず」↑

2022年1月29日土曜日

安井浩司「冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・・


   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(9)


    冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ       浩司

 真冬、今日は晴天と戸外に出で、空を見上げると、どこまでも透明な空の青さに心洗われる。「冬青空」の無音の静けさに鷹が泛かぶごとく飛んでいる。
 俳句の読解は読者との出合いの交差である。俳句に意味を求めていくのは無意味だとする説もあるが、一句との出合いの交感作用に誰しも意味を求め読解したくなるのではないか。
 若き頃の安井は芭蕉狂いであったと評論集にある。そこで、「鷹一つ」の芭蕉の句とともに読んでみることにする。


  鷹一つ見付てうれしいらご崎  (笈の小文)

 保美村で、流罪により、隠棲生活をしていた杜国(とこく)を芭蕉と越人(えつじん)が訪ね、翌日、伊良湖岬へ「三人彼浜に出で」、鷹を発見した日の一句。「鷹一つ」で、保美村での杜国の孤独を言い表したと山本健吉は読む。杜国の孤独は誰しもが感じることであろう。
 「絶景の面白さに、かへる事ともにわすれ(越人書簡)」(正徳五年九月付)るほどの伊良湖岬。この岬を「南の果てにて、鷹のはじめて渡るところといへり」と記す芭蕉の一羽の鷹の発見は、杜国との再会を同時とする「見つけてうてし」の喜び。天真の一句と思える。
 では、安井の句、「鷹ひとつ」も、同様に孤独を言い表しているが、芭蕉句の「一つ」が個を指しているのに対し、安井句の「ひとつ」が平仮名書きによって、単一、そのものだけであるとの意味に変化する。
 次に「総序」であるが、基本的な国語辞典には無く、親鸞の書「教行信証」六巻の最初に「総序」、最後に「後序」が置かれている(日本大百科全書)例を見る。
 次に「総序」を一語づつ分解してから、意味を組み合わせてみる。
 「総」は多くのものを集め合わせる。全部との意味を持つ。「序」に対して、序破急の一点にしぼれば、形式上の三区分である「序」は初部、導入部、つまり初めであり、「破」は展開部の中、「急」は終結部の終りの意味であるから、「序」は初めの意となる。
 このように表れた意味から、「総序」の俳句的意味を考えれば、多くのものを(俳句史を含めて)集め合わせた俳句作品、それらのすべての始まりであるところ、と思える。
 このように表れた意味は、それぞれの読者のイメージに帰りつく。
 「冬青空」の句は、芭蕉のように絶景の地に旅するのではない。私たちの日常にふと見上げる空、その空のどこまでも透明な青空に空華のごとく鷹を一羽思い泛かべれば、鷹はゆっくりと泛かぶごとく姿を現わす。
 誰でもない己一人、すべての俳句作品の初めにあるような、己一人、そのものだけの俳句を創ろう。安井は俳句を創ることを「俳句が起こる」という。自らの内に起こる俳句を、自らの言語で書く。その自ら書いた俳句は孤独の深層で詩言語となり無限に連なる。
 人は人との関わり、縁によって生かされるが、ほんとうのことばを伝え合うのは不可能に近い。そのことばの限界をこえることが出来るのが詩言語である。そうであるが故に、人と人の精神を結び合わせ、交感し、真の友愛を創るのが詩言語なのであるという導かれた支杖の一句である。
 俳句とは何か。
 俳句とは俳句自身であり、俳句を創るその俳人の韻律の言語である。
 そのように安井俳句から学んだ。見えないものを見るように言語化する芸術的精神を「安井浩司の俳句」に見るのはあやまりだろうか。



       
撮影・鈴木純一「善き人であるは快楽よ実朝忌」↑

2022年1月28日金曜日

壬生みつ子「年の朝熟れし金柑星の色」(プレ「きすげ句会」新年詠)・・・

          


  昨日27日(木)午後2時より、府中市生涯学習センターの現代俳句講座を核に、自主グループ「きすげ句会」立ち上げの総会がおこなわれた。杦森松一がとりまとめ役をされ、愚生はすべてが決まった3時過ぎに行き、新年持ち寄り新年詠1句の講評のみをさせていただいた。10名の参加。

 めでたく、次回2月17日(木)13時半~16時半の予定で、第1回「きすげ句会」がスタートする。持ち寄り雑詠2句プラス兼題「長」詠み込みの1句、計3句出しである。

 以下に、新年詠を紹介しておきたい。


   年の朝熟れし金柑星の色      壬生みつ子

   命継ぎ八十歳よ祝箸         井上治男

   今昔のコンビネーション松飾     杦森松一

   シナモンの香り漂い松明ける     井上芳子

   ひとり居の背骨正して初化粧     山川桂子

   初春の腹に響けり大太鼓      久保田和代

   眩しきは初雪溶けて空の蒼      濱 筆治

   JKの振袖似合う初詣        清水正之

   年明けて感染時代を楽しみたい   大庭久美子

   虎の尾を踏む張子の虎や老いの春   大井恒行  


        芽夢野うのき「氷柱でつらぬけるもの鶴の首」↑ 

2022年1月27日木曜日

永田和宏「恥毛までロマンスグレイになつたぜと告げたき人もいまはをらねば」(「現代短歌」3月号・No.89より)・・ 


 「現代短歌」3月号・No.89(現代短歌社)の特集は「永田和宏の現在」、総ページのほぼ半分を費やしている。目次には、永田和宏の巻頭作品50首、特集記事は、瀬戸夏子「河野裕子を詠む永田和宏を読むということ」、今井恵子「二つの『死後の時間』」、インタビュー1・土岐友浩「永田和宏の方法」、正岡豊「内実をめぐって」、染野太郎「わたしとは何か」、閒村俊一俳句作品「アカペラの 永田和宏歌集『置行堀』に寄せる極私的京都ラㇷ゚ソディ」、インタビューⅡ・澤村斉美「言葉の危機」、そして、これまでに上梓された第1歌集『メビウスの地平』から第15歌集『置行堀』までの歌集解題を、浅野大輝・鈴木晴香・帷子つらね・藤田千鶴・佐藤涼子・竹内亮・廣野翔一・田村穂隆・濱松哲郎・平出奔・山内頌子・河野美砂子・田宮智美・小林真代・沼尻つた子が執筆している。

 愚生にとっての永田和宏は、何よりも大本義幸句集『硝子器に春の影のみち』(沖積舎・2008年刊)の栞を、池田澄子、攝津資子、坪内稔典、仁平勝とともに、唯一の歌人、大本義幸の編集していた「黄金海岸」への寄稿、20歳代の付き合いで、たぶん二つ返事で書いていただいたであろう永田和宏「黄金海岸の頃」である。その末尾には、大本義幸の一句「初夢や象が出てゆく針の穴」が添えられていた。その大本義幸もすでに鬼籍に入っている。ともあれ、以下に本文中より、永田和宏の歌をいくつか挙げておこう。


 身をよじる全裸の青年をつつみ緑こそわれらが錯誤のはじめ    和宏

 あなた・海・くちづけ・海ね うつくしき言葉に逢えり夜の踊場

 あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

 やさしさはやさしさゆえに滅ぶべし 夕ぐれの野を漕げる野あざみ

 置きざりに置いてきぼりに差のありてあなたが置きざりにした

 ときどきは覗きにおいでこの世にはきみの知らないをさなごがゐる

 墓を作ればここにあなたがゐなくなる会ひに行かねばならなくもある

 コロナ禍を生きるは幸せならざれどそれさへ知らぬきみをかなしむ

   BCI(脳コンピューターインターフェイス)の研究の進展に驚愕。

   個人といふ概念が崩壊する

 思ひ浮かべた言葉が画面に現はれる脳のチップが読みとると言ふ  




★閑話休題・・間村俊一「来歴を問はゞ播州みなし栗」(「横浜歌人会会報」122)・・


 間村繫がりで・・。「現代短歌」3月号・No.89に閒村俊一は、「アカペラの 永田和宏歌集『置行堀』に寄せる極私的京都ラプソディ」で句作品を寄せている。前書はほぼ短歌に付けかたちの句である。一方、横浜歌人会会報122では、すべてに前書を付した句作品である。例えば「現代短歌」の末尾の作は、


   アカペラの春歌も止みて寒の雨

 河原町三條師走すれ違ふダッフルコートは殿山泰司      俊一


 である。ともあれ、本会報の特集は、インタビュー「間村俊一さん、聞き手・髙橋みずほ『語る指先ー間村俊一の仕事場』」。句作品の「BNSYU」より、以下にいくつか挙げておきたい。


    真鶴に種村季弘さんを訪ふ

  干されたるヤガラの口も秋に入る        俊一

    おでんとは言はず

  さしぐみて関東炊きはふくろかな

    戦争や金田一軍靴冬

  蕪蒸しシベリアのこと母のこと

    朴の花末っ子千代子は母なるぞ

  備前美作(みまさか)より揚羽出奔す



     芽夢野うのき「冬蝶の沖のむこうの帆のごとし」↑

2022年1月26日水曜日

安井浩司「有耶無耶の関ふりむけば汝と我」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・


 

   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(8)


    有耶無耶の関ふりむけば汝と我     浩司


 「有耶無耶の関」は、山形、宮城の県境にあるか笠谷峠にあった古関。出羽、象潟の関にも同名の関があった。「象潟にねぶりの西施生きること(『牛尾心抄』)など、安井に象潟を詠んだ句がある。秋田出身の安井の帰路に象潟を考えれば、出羽、象潟の関であろう。


  象潟や雨に西施がねぶの花   芭蕉『奥の細道』


 芭蕉「象潟や」の句に安井の「象潟に」の句を合わせて詠めば、「汝と我」の下五の句から、芭蕉、安井の存在も見えてくるのではないか。

 なおも、心身、肉体の我と、我の内面に存在する汝。幻想と実存における汝と我。芭蕉と自己、そして、内面の自己と己。芭蕉も内面の自己が俳句であるとき、俳句対私の存在は、有耶無耶で曖昧な存在である。荘子の胡蝶の夢のごとく、俳句と自己は同一であることの、心情吐露の一句。そして、安井は「無」であるという。芭蕉の禅を考えずとも、安井の「無」であれば、禅の心が存在を支えていることも、思い合わせて考えたい句である。

 第十句集『汝と我』一九八八年所収。   



    photo:kunigou・安井浩司「環状列石わらべすわれば回る秋」↑

2022年1月25日火曜日

安井浩司「睡蓮やふと日月は食しあう」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・


 

  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(7)


    睡蓮やふと日月を食しあう       浩司


 広々と水を湛え澄んだ池に咲く睡蓮は、蓮の東洋的イメージより広汎な世界、アジア・エジプト・西欧まで含んだ世界をイメージさせる。

 ふと、睡蓮の池に立ったとき「日月は食しあう」。

 それは、沈む太陽と上る月、日の出と有明の月。夜と昼、昼と夜の入れ替わる万象は混じり合い、分離し「食しあう」ごとくの交感の世界となる。

 そして、「日月」が「つきひ」であることを含ませてみれば、「日」・「月」の宇宙での無限と、地上の「日月」に咲き枯れる生命の連なりとの同時の一瞬の世界ともなる。

 昼と夜の、太陽と月の交替を「食しあう」感覚と受け取るとき、「睡蓮」を眼前に、天空に日と月を見上げた一瞬の世界はすべてがひとつとなった万有の世界。どこまでも、宇宙の静寂の世界が現れる。

 ひとつはすべてであり、すべてはひとつであるとは安井汎神論であり、荘子(内篇)の万有や無限を重んじる思想と通じ合う句と思える。


   芋嵐かさと死ぬとき荘子妻      安井浩司句集『汝と我』より

   空涼しなれど死ぬるなよ荘子妻

   釣鐘やふと荘重体に蝶とまり


 「荘子妻」二句は荘子の死んだ妻への話、『荘子・至楽篇』にあり。三句目の「蝶とまり」は「胡蝶の夢」、『荘子・一斉物論』にある話を、たとえば人が重体(息詰まったとき)においても、蝶になって飛ぶ夢の中が現実か、荘周である現実が現実なのか、分からず、区別もつかないのだから、ただあるがままに生きよとの作者の人生観の句。

       

  

    石榴種散って四千の蟲となれ      浩司


 掲句の「四千の」は詩語として、現代詩の「四千の昼と夜」(田村隆一)に用いられたものだ。この詩が収められた詩集『四千の日と夜」は一九五六年に刊行される。戦後十一年、四千日すぎて、戦争で死んでいった人々の追悼の意が込められた詩集である。 

 この田村隆一の詩のテーマ「死」に対して、再生の願いが込められた「石榴種」の句は、種から虫へのメタモルフォーゼによって、「なれ」と、祈りの句となった。

 なおも直径五センチメートル程の赤茶色の堅い実の中にびっしりと詰められた赤い果肉にくるまれた黒い種。細長く垂れた茎に付いた黒い実は地面に落ち、芽ぶきのときを待つ。この芽ぶきのときにメタモルフォーゼした黒い点のような種を虫に変え、四方へと飛び立たせる作者。意味の見えない掲句の語の十七音は、「四千」という現代詩の詩語へと、「なれ」によるメタモルフォーゼの作用が働きはじめたとき、花と虫、日と土と水の関係のすべてが緑によって言語の世界で動き出す。この動き出した言語世界で、戦争の時代に亡くなったすべての人々への再生の祈りを捧げる一句の意味が現れてくる。 



                 photo:kunigou ↑     

2022年1月24日月曜日

安井浩司「脳髄のはまひるがおの旅人よ」(『自選句抄 友よ』)・・

 


 

   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(6)


     脳髄のはまひるがおの旅人よ     浩司


 俳句が日本文学において詩であることを掲句から実感する。

 古代より旅は詩の無限の源泉であり、詩人は旅をする。現存最古の万葉集から、平安時代の西行、近世の芭蕉、現代の西脇順三郎まで、幾多の詩人の歩行が詩を創り出してきた。

 その時「脳髄へ(頭の中)」は詩語となる。


  頭の中で白い夏野となつてゐる      高屋窓秋


そして、西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』の書き出しは・・・。


  このかすかな泉に

  舌を濡らす前に

  考へよ人生の旅人


 安井は俳句人生の旅人である。

 掲句へ戻ろう。

 「はまひるがお」は、俳諧的あさがお、山林的詩人、加藤郁乎の「ひるがお」の先へと、海辺に歩を運ぶ詩人の行為を、象徴的に表している。「脳髄」の語からイメージされる肉体的な直接の感覚によって、深層へと俳句の旅は行為される。この実景でもない、しかし、実景であると感じ取れる掲句から、俳句であり詩である実感を得るのである。



    稲の世を巨人は三歩で踏み越える     浩司


 二五〇〇年前頃の縄文時代後期に水田での米作りは、朝鮮半島もしくは中国大陸から伝えられたと言われている。水田での米作りが、一万年続いた縄文時代を終わらせ、弥生時代の農耕文化、その後の古代国家の時代となる。そして、掲句の三歩は、縄文・弥生・古代国家の三つの時代を「踏み越える」と仮想する。

 巨人が三歩で行きついた古代国家に何があるのだろうか。

 神話的、伝説的「稲の世を」を様々な読みが行われてきたが、「三歩」で立つ巨人の眼下には、最古の歌集「万葉集」の世界が拡がっていたと思いを馳せる。



      撮影・鈴木純一「黙阿彌忌レモンの皮の削いだのを」↑

2022年1月23日日曜日

木割大雄「鬱王の残党吾れの十二月」(「カバトまんだら通信」通巻第44号)・・


 「カバトまんだら通信」通巻第44号(カバトまんだら企画)は、毎号、まるごと赤尾兜子である。巻末にささやかに木割太雄の句が添えられている。巻頭のエッセイ・木割大雄「恥ずかしながら」には、


  先師・赤尾兜子の作品と、その人となりを語ろうとしてこの手作りの〈通信〉を始めたのが平成八年。そのときすでに没後十五年になっていた。そうしてぽつりぽつり書き続けて昨年、43号を出した。

 そこで大失態をやってしまった。先師の作品を脱字・誤記したのだ。

 そのことを、かつての「渦」の仲間に指摘されたとき、本当に息を呑んだ。血が引いた。そしてこの〈通信〉をもう止めようと思った。恥ずかしくて彼に謝ることも出来なかった。


   機關車の底まで月明らか 馬盥     兜子   (中略)


 「そうか。君は赤尾の弟子か。赤尾には困ったもんだョ」

 兜子没後、何人かの先輩にそう言われた。赤尾兜子が酒席で急に怒鳴り出すのは珍しいことではなかったのだ。

 酒席で荒れた、という。でも、酔って我を忘れたのではないと思う。いつも、どこか醒めていたのではないか。酔って怒るのではなく、醒めた頭で怒ったのだと思う。酒席でも真剣だったのではないか。

 そんな先師の俳句を誤記するような男が、弟子とは名乗れぬのではないか。


   ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう      兜子


 その人の没後、とうとう四十年。三月十七日のその忌日を私たちは〈鬱王忌〉と言う。私は恥を忍んで書きつづけねばなるまい。鬱王のことを。


   俳句思へば泪わき出づ朝の李花    兜子


                        令和三年十二月十七日


 とあった。他の本号の記事は「ー兜子への旅ー神戸市局時代の兜子」である。ともあれ、文中の兜子の作品と、大雄の作品のいくつかを以下に挙げておきたい。


  神と医師いづれをえらぶ冬の窓      兜子

  落ちてなお恍惚を知る落椿

  会うほどしずかに一匹の魚いる秋

  硝子器の白魚 水は過ぎゆけり

  痩せてしまえば鏡がうごく冬の壁


  わが句座の馳走ぞ院の馬刀葉椎      大雄

  蝶々に多分耳など無いだろう

  俗人と言われて嬉し木下闇

  名も知らぬ人にも会釈夜の秋

  通されて「喫茶去」とある夏座敷



      芽夢野うのき「聴く耳のだんだん遠く冬木の芽」

2022年1月22日土曜日

安井浩司「御燈明ここに小川の始まれり」(『自選句抄 友よ』)・・


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(5)


    御燈明ここに小川の始まれり      浩司


 掲句は昭和中期の俳句史に印されている句だ。

 神仏に供える「御燈明」だが、この選句抄に夢に仏陀が現れる「夢殿」の句があることから、仏へと供える「御燈明」と考えるのが自然であろう。

 ところで、仏陀最後の説法は次のようなものであった。抜粋引用してみよう。


  この世で自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島と  して、他のものをよりどころとせずにあれ。


 引用にある島と訳された言葉は灯明(とうみょう)とも訳され、仏陀最後の説法は「自灯明(とうみょう)・法灯明(とうみょう)」と言われもする。

 東洋的な感覚を呼ぶ「御燈明」の句を思い泛べる度に「自灯明」の言葉が思い泛ぶ。

 なおも、「叢林の中でー二十世紀の俳句に寄せて」の安井の一文を思い起こしてみる。

 この一文には「二十一世紀の俳句に係わる在りよう」は「”芭蕉以前の俳句”として、俳壇以前の規範の原点、いわゆる己が詩としての一個の俳句作品を書き続ける外ないのである」とある。そして、「往くも帰るもきみ一人である」それ故に「己が俳句を(略)己が個のものとして、俳句の根拠律に挑んで欲しい」、だからこそ、「唯一本の乞食杖だけ」を頼りに、二十一世紀の宇宙」へと「旅立って欲しいのだ」と書き綴られている。

 ここに、「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず」の自灯明が「御燈明」となって見えてくる。自らをよりどころとして、創る俳句は「小川」の始まりとなって流れていく。

 その上で、掲句の静寂な暖かさに心が包まれていくのだ。山奥の寺、僧堂に灯された「御燈明」の光に、小さな流れは幽かに水音を立てて流れはじめていく。幽玄な世界の句である。



                 photo:kunigou↑

2022年1月20日木曜日

安井浩司「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」(『自選句抄 友よ』)・・

 


   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(4)


    ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき        浩司


 様々に語られてきた名句である。

 掲句に対して、『友よ』のテーマに添って読むことにしよう。中句の「小屋を壊せば」であるが、存在していたものを壊し無くなることを、ひとつの死と捉え、その小屋の無い場所は、すすき野になって時は推移していく。このすすき野となる現象を再生のはじまりとし、ここでの、死と再生の語りが、ひるから夕への陽の光差し込むすすき野を語る美しい俳句を出現させる。

 上句「ひるすぎ」もニーチェ・ツァラトゥストラの正后に繋げ、あらゆる可能性の時刻より、日没から明け方への再生の刻の始まりとする。己自らが創る俳句の、可能性の、新たなる旅。夜明けの時刻に歩み出す場所(トポス)が作者に現れた一句と言える。



     旅人よみえたる二階の灰かぐら      浩司


 「灰かぐら」が立つ二階の情景は、昭和三十年代頃までであろう。火鉢にたっぷりと入った灰の中で炭をおこし、その火の上に、鉄瓶などが置かれ湯を沸している。その湯が少しこぼれ、灰けむりが舞い上がる。その灰かむりを「灰かぐら」と言うのだが、疲れた旅人の立ち寄ろうと思う宿の二階の暖の光景となろう。「灰かぐら」に囲炉裏の火なども思い起こし、江戸のイメージまで繋げることの出来るノスタルジーの一句である。

 ここで少し深読みをする。作者の書斎は二階にある。二階の書斎より、宗祇、芭蕉、古くは万葉まで、養分をたっぷり含み、火の残る灰、書物や俳諧が、読み直す度に異なった味わいをみせる俳句となったのであろう。



       撮影・鈴木純一「大寒の席は上座の他になし」↑

2022年1月19日水曜日

中村草田男「日の丸に裏表なし冬朝日」(『草田男深耕』より)・・


 渡辺香根夫著・横澤放川編『草田男深耕』(角川書店)、横澤放川編註に、


 中村草田男(なかむらくさたお)の主宰誌「萬緑」のいわば最後の代表同人といっていい渡辺香根夫(わたなべかねお)が「草田男深耕」という題目のもと各月書き下ろしてきた、鏤刻(るこく)を尽くした文章である。草田男は第八句集『時機(とき)』以降、晩年へのほぼ二十年間の作品をもはや句集として上梓することはなかった。(中略)俳壇への配慮を断ったかに見える後半生の草田男の作品については、破調、難解、自己満足といった批判が少なからずいわれてきたが、草田男はその生涯の終りまで文学としての、そして文学を超えたともいうべき自己探求を決して忘ずることはなかった。その草田男固有の、あるいは唯一無二のいっていい精神世界は、それが解明されることなしには草田男の全貌を理解することはかなわない。(中略)さらに一層の理解のために、「萬緑」の大会において行われた同じ著者の三篇の篤実な講演録と評論二編を添えてみた。草田男のいわば深みの次元をとくと味読していただきたい。


 とある。また、著者「あとがきーただひとこと」の冒頭には、


 「草田男深耕」の筆をとりながら不断にたちかえった問は〈継承〉とは何かということである。それは俳壇で草田男調や萬緑調の名でよばれる異形リズムへの寛容ないし偏愛を、詩的許容として江湖に喧伝する営みでは無論ない。忘却されがちだが、五音ー七音ー五音の俳句定型をそのリズム形態の美しさもtづいて〈紡錘形の結晶〉という卓抜の比喩に託し得たのは他ならぬ草田男である。だから冒頭の問は、その同じ草田男がなぜ自らの句作においても、主宰誌の添削指導においても、敢えて破調を厭わなかったのかという問におきかえられなければならない。


 とあった。ともあれ、以下に文中より一例を挙げ、かつ、いくつかの草田男の句を挙げておきたい。


   ムッソリーニの如き大螇蜥(ばった)今も見たし   昭49


 大型のトノサマバッタ(・・・・・・・)は、あの庇(ひさし)のない帽子を被ったファシストの親玉を髣髴(ほうふつ)させて思わず頤がゆるむ。初めてこの句を読んだときからの心身的反応だ。(中略)これがどこまで厳密な固定なのか私に判定する能力はないが、彼岸的かつ夢幻的なあの舟形の美しい虫がムッソリーニだと言われると、途端に、直喩の励起する諧謔が分からなくなる。みなさんはどうだろうか。結びに「今も見たし」とある。無秩序な都市化の影響で虫の世界もいたく貧しくなったという感慨であろう。


   人体背後はふさがりきつてゐる裸      昭39 

   白足袋の中へ白足袋妻在らず        昭40

   泉辺にとどまらんか友訪(おとな)はんか  昭43

   わが罪は我が前背より日雷         昭44

   北窓塞がず隠花植物常(とこ)眺め     昭49

   「火宅」の語世にあれど「花宅」やわが隣家 昭55



   芽夢野うのき「さまざまな実のさまざまな鬱も虚も」↑

2022年1月18日火曜日

安井浩司「南北のなんでまひるの萩や馬」(『自選句抄 友よ』)・・


   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(3)


    南北のなんでまひるの萩や馬        浩司


 南北は、北と南。南北朝(一三三六~一三九二年)と広辞苑に載る。『友よ』を文学史的な流れから見ることにして、「南北の」を南北朝五山文学と考えてみてはどうか。「まひるの」をニーチェの「ツァラトゥストラ」、「大いなる正后」以後の「まひる」、あらゆる可能性の時とするなら、安井の句「雪袴ツァラトゥストラ参ろうか」がある。

 五山禅林において行われた五山文学に、連歌、謡曲、狂言などには、その後のあらゆる可能性の時からの急成長があったのに、「萩」を詠っていたが、衰退。なんで「萩」にこだわったままでいたのだろうかとの疑問の句となる。南北朝時代から馬の神事があったと言われるが、「なんで」「馬」なのか、半世紀も分からぬままに、「なんで」、「馬」と閉じる。




    幼年や隠して植えるたばこぐさ       浩司


 これまでの五句は語の歴史的背景をたよりとして読解したが、「幼年や」は、句のままに読める句である。「たばこぐさ」を中毒性のあるものの象徴とし、幼年の頃から自らの内に育てあげるものがあるとの意を表した一句。

 『阿父學』(一九七四年)に収められた掲句に、二〇〇八年に発行された『安井浩司選句集』のインタビューの次のことばを添えれば、安井の俳句に表現されてきたテーマが見えることに気づかされる。

  

  詩を書き続けることによって幼年を発見し、いささか傲慢な言い方をすれば、最近は 幼年を作る、すなわち「幼年創造」も行えるようになった気がするのです。己が幼年の深  層へ 立ち向かうほどに、この時間も空間も膨張するものであることを、そして今まで全く見えな かった新鮮な幼年や風土が起き上がってくることを、長い間の俳句の積み重ねで分かった感じがするのです。(一八三頁)


 己が人生を出生に限定することなく、自由に創ることが俳句の大いなる可能性なのだと安井が語っている。



     撮影・中西ひろ美「初便りごめんねありがとう二通」↑

2022年1月17日月曜日

安井浩司「キセル火よ中止(エポケ)を図れる旅人よ」(『自選句抄 友よ』)・・

  


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(2) 


   キセル火よ中止(エポケ)を図れる旅人よ    浩司


 二〇二二現在、「キセル火」を見知る者は高齢の者のみであろう。絵画に描かれ、文化財となるキセルは、棒状の先に小さな火皿があり、吸うたびに火種は赤くなる。

 安井浩司は自らを旅人という。安井の句集は旅人として書かれた句集である。過去となった火種=俳諧への明治期以降の中止へとエポケ、判断を控えようではないか。そして純粋に旅人には、「図れる」つまり、俳句への意図があると句は語る。



   夢殿へまひるのにんじん削りつつ       浩司


 法隆寺の夢殿は聖徳太子の夢に仏陀が現れ教示したという伝説から、夢殿と呼ばれる。そして、夢は夜眠りの中に見る。

 「にんじん」は人身(にんじん)または人参(にんじん)。人身(じんしん)は古くはにんじんと読んだ。夢見の仏像からも、仏教的に覚り得たものを人(ひと)と言わず人(にん)と言われることを考えれば、人身(にんじん)と捉えることが出来る。

 人身(にんじん)を「削りつつ」、つまり、身を削る、身体を削るがごとく、自然、夢殿へと出向く。夢殿、この身を削りつつ出向くことをどのように、読み取ればよいのだろうか。

 夢殿に仏陀が立った聖徳太子の言葉に「世間虛仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」がある。聖徳太子の仏教思想が表れた言葉だ。一九四五年以後の戦後、現在まで西洋思想キリスト教文化を表面に、根底に仏教思想・東洋思想をもって、私達の生活、文化、芸術などがある。表面は欧化された私達の根底にある東洋・仏教思想に対して身を削るほどにしても学ぶ、作者の姿が読み取れてくるのだ。

 掲句が収められた第三句集『中止観』の句集名そのものも、「止観行」を含む。止観行は安井の俳句道でもある。

 夜眠りの中にあるものを「まひる」に直視せねばならないのは詩の本質である。



    撮影・鈴木純一「梅早し受けてみしゃんせ一打ちを」↑

2022年1月16日日曜日

池田澄子「私生きてる春キャベツ嵩張る」(「東京新聞」夕刊、1月15日・土)・・


 昨日の「東京新聞」夕刊(2022年1月15日)の「土曜訪問」の記事は池田澄子。昨年はとにかくいそがしく、雑誌などに発表した句は350句以上になるという。記事中には、


 俳句とで出会ったのは三十八歳の時、毎日新聞の記者だった夫の転勤で横浜に住んでいたころ、俳句雑誌で見た阿部完市のさん(一九二八~二〇〇九年)の難解な句に「こういうのも俳句なんだ」と衝撃を受けた。以来「毎日、、俳句のことを考えてる」。

 敬愛する師・三橋敏雄さん(一九二〇~二〇〇一年)には「今までにない新しいものでなければ意味がない」と教えを受けた。(中略)

 俳句を始めて四十五年。池田さんは「何を書くかを考えることが、俳句を書くということ。一句一句悩んで、じたばたしてる。でもね。こう書けばいいとわかったと思ってしまったら、もう終わりかなと思ってるの」率直に語る。(中略)

「知らないところを知りたい。それには、分からないところから、無心に一句を書くしかないかなって。せっかく年取ったんだから、年を取らないと詠めない句というのが詠めれば一番ありがたいよね。これから私、何書くんだろう、どういう書き方をするんだろうって、興味津々だわ」


 とあった。ともあれ、記事中のたの句を挙げておこう。


   じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

   前へススメ前へススミテ還ラザル

   初明り地球に人も寝て起きて

   春寒の火を消す思ってます思ってます

   本当は逢いたし拝復蟬しぐれ



          芽夢野うのき「野水仙どこまでも添い野より風」↑

2022年1月14日金曜日

深悼・・安井浩司「鳥墜ちて青野に伏せり重き脳」(『自選句抄 友よ』)・・

            


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読むー深悼」(1)                        


    鳥墜ちて青野に伏せり重き脳      浩司


 掲句「墜ちて」に、高屋窓秋連作句「鳥世界」、富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」、中句の「青野」に島津亮の「怒らぬから青野でしめる友の首」、下五の「重き脳」に、河原枇杷男の句に頭脳的と言った永田耕衣を思い起こす。

 鳥は直線斜めに落ちるがごとき、草に身を隠す。静まる青野に伏す鳥を描く作者に、鳥と自己との同一の姿態を見る。『自選句抄 友よ』の第一句に掲出した「青野に伏せり」の句は、安井浩司第一句集、旅立ちの句集に収められている。「青野に伏せり」と鳥と同一化した作者の、この姿態から創造の旅へ出立が見えてくる。  

  


    逃げよ母かの神殿の歌留多取り  

 歌留多は歌かるたであろう。江戸期に流行する。神の住居である神殿での歌留多取りであるならば、万葉集に始まる和歌から離れよの意味と受け取られてもよいように思える。俳句の母なるものを仮想し、深い伝統の和歌から、一端は逃げて俳句の立ち位置を見てもよいのではないかと。しかし逃げを行う為には、西行などの和歌の世界に入り込まねばならない。その反語の意味も掲句は含んでいるように思える。



(愚生注:「自選句抄」は、全23句、経本仕立ての見開き部分に一句が墨書されている。奥付には、平成二十八年二月二十九日 傘寿 とある。安井浩司の誕生日である。救仁郷由美子は、その年、子宮頸がんステージ4、全摘出手術のため入院する。その励ましのために,託された酒巻英一郎によって手づからもたらされ、贈られたもの。以来、枕頭にあった。しかし、この稿をブログにアップして欲しいと、病床の救仁郷から頼まれたのは昨夜。あろうことか、先程、詳細不明なれど、安井浩司死去、享年85の訃がもたらされた。よって、上記稿の副題は「安井浩司を病臥を案じて」だったが、急遽「深悼」に改めた)


         撮影・鈴木純一「蠟梅のままと信じる雫かな」↑ 

2022年1月9日日曜日

芭蕉「両の手に桃と桜や草の餅」(『蕉門の人々/その発句と生涯』)・・


  渡辺鮎太『蕉門の人々ーその発句と生涯』(ふらんす堂)、ブログタイトルにした句は、「芭蕉が『草庵に桃桜あり、門人に其角・嵐雪』と称えた」句。「あとがき」には、


 今回、蕉門の十四人の発句と生涯を見てきて時間的に元禄を中心とする時代が見えた思いがする。更に、空間的に江戸、尾張、美濃、京都、近江などを旅し得た気がする。


 とあった。本書の収載は十四人だが、その分量については、残されている資料にもよるだろうが、その分量に幅がある。当然のように其角は多く割かれている。が、全体をとおして渡辺鮎太の俳句(発句)観が色濃く反映されている。例えば、「許六」の項、


  作風は理屈が勝っており、作句法は許六風の「取り合わせ(配合)」を用いたものが多い。

 因みに、筆者は「取り合わせ(配合)」を「発句の毒」「発句の有りようを歪める論」と理解している。発句も、叙情詩の一分だと思うからである。(中略)

 盗作・剽窃・類想が問題になるのは現今の俳壇でも同様である。恥を知ることが作句に於いて不可欠なのは、今も昔も変わりはない。

 最後に、取り合わせの意図の見えない、技巧のない許六の発句を挙げておく。発句の本質を知らない者にも、たまには本来の意味での発句が生まれるものである。次の句にあるのは自然さ・実感・素直さである。

 落雁の声のかさなる夜寒かな

 夕やけの百姓赤し秋の風

 清水の上から出たり春の月


 また、「丈草」には、


 この世の世俗なるもの・醜いものから離れ、欲得とか名誉とかからも離れ、勢力の拡大など眼中になく、純粋に敬慕できる師に出会えたことを至福とし、病気がちながら誰に諂うこともなく、虚偽やはったりなどに縁することなく、私欲なく誠実に生きて死に得たことは幸せでなくてなんであろうかー。(中略)

 余談ながら、丈草の小さな墓は現在、師芭蕉の墓から程近い膳所の「龍が丘俳人墓地」の中に、「経塚」や他の蕉門の俳人らとともに建っている。国道の端に車の排気ガスの臭いに苛まれながらー。


 と述べられている。愚生にも丈草に関する余談がある。眞鍋呉夫の句集『雪女』のなかに、


      日本橋小網町釜屋の艾は江州伊吹山の産なりとぞ

  丈艸(ぢやうさう)が好きで釜屋の艾(もぐさ)買ふ    呉夫


 の句があって、この句があることを、現在も続く釜屋に知らせたところ、ほぼ一ヶ月分の「カマヤミニ」温灸が送られて来たことがある。愚生は、かつて40歳代初めころ約1年間、鍼灸師だった人を先生にして、数人で操体法研究会をやり、そのついでに温灸を習い、釜屋の艾や温灸を使っていたことがある。ともあれ、本書より、以下に蕉門の人々の一句を挙げておこう。


  名月や畳の上に松の影          榎本其角

  梅一輪一輪ほどの暖かさ         服部嵐雪

  空も地もひとつになりぬ五月雨      杉山杉風

  さみだれに小鮒をにぎる子供かな     志太野坡

  捨舟のうちそとこほる入江かな      野沢凡兆

  霜やけの手を吹てやる雪まろげ       羽紅尼

  尾頭のこゝろもとなき海鼠哉       向井去来

  淋しさの底ぬけてふるみぞれかな     内藤丈草

  ゆりの花生(いけ)ればあちらむきたがる 各務支考

  月に雁前は小海老の堅田かな       三上千那

  十団子も小粒になりぬ秋の風       森川許六

  たくましく八手は花になりにけり     江左尚白

  水鳥やむかふの岸へつういつい      広瀬惟然

  きゆる時は氷もきえてはしるなり     斎部路通


 渡辺鮎太(わたなべ・あゆた) 1953年、埼玉県川口市生まれ。



★閑話休題・・有賀眞澄「あすみまかる拠って一夜さひとよ霧」(「萃(すい)展」)・・


 画廊 珈琲 zaroff  企画展「有賀眞澄 萃(すい)展」。愚生は籠の鳥で行けないが、行きたい気持ちはある。よって案内をしておきたい。


・2022年1月8日(土)~18日(火)13時~19時(水曜日休廊・最終日17時まで)

・画廊 珈琲 Zaroff   151-0061 渋谷区初台1-11-9 五差路

      電話 03-6322-9032

・最寄り駅 京王線・初台駅中央改札口を出る→(甲州街道)南口の階段を登り右へ→商店街を進みセブンイレブン角を右折徒歩1分。



       芽夢野うのき「口角を吊り上げて見る霜の花」↑

2022年1月8日土曜日

山本鬼之介「三鬼が叫ぶ紫黄よく来た忠治をやれ」(『マネキン』)・・


  山本鬼之介第一句集『マネキン』(文學の森)、「鬼之介俳句の原点となった作品と講評」として、巻尾に「『俳句研究』昭和四十八年三月号」の「三橋敏雄推薦」評が掲載されている。その結びには、


    マネキンを目白へ運び冬霞    山本飛鷺子(現・鬼之介) (中略)

 要点は、「目白」という特定の土地柄を如何に感受するかにかかわろう。あるいは、土地柄について知らなくても、この固有名詞の文字面が誘う、複合的な情趣の不思議を手がかりにできるならば、マネキン人形とその運び手を媒体にして、かかるカスミの諧謔世界を味読し、共感してもらえようかと思う。


 と記されている。また著者「あとがき」には、


    マネキンを目白へ運び冬霞

 昭和四十七年十二月某日朝、真新しいマネキン人形に遭遇したことが、以後今日まで、俳句と深く係わり合う切っ掛けとなった。

 夢語り的な言い方になるが、俳句の神様がマネキンに身をやつし、その当時、身辺俳句からの脱却に悩んでいた自分に啓示を与えてくださったのではないかと思っている。(中略)

 その後、兄山本紫黄の勧めで入会した「面の会」では、泳げない子供が海に放り込まれたように、元「断崖」同人の諸兄姉に交じってがむしゃらに俳句に取り組んだ。昭和四十年末から五十年前半にかけての「俳句研究」五十句競作への投句も財産となり、佳き思い出となった。


 とある。ともあれ、以下に集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


  噴水を身軽な水は逃れけり         鬼之介

  満月に石の象やら駱駝やら

  忌心のあれど二月の軍艦旗

  いつか終はらむ貨車の入れ替へ雲の峰

  倒立の諸手が四五歩青き踏む

  くろがねの匂ふ水こそかな女の忌

  影武者もまた落武者よ山眠る

  曲師いま泣かせの糸を霜の夜

  薄氷の円盤投げをしてみるか

  啓蟄の花屋にどつと異国の荷

  里山や一番鶏も羽抜鳥

  四次元へ行ける気がする大花野

  洋装の「かな」に逢ひたや冬の湖

  残雪や時よ遥かに赤軍派

  文化の日吏員の誤解誤記誤読

  亀も鳴くかと亀と歩調を合はせけり

  日の本に乱いく度ぞ松落葉

  瑞兆の五代の空よ水明忌 

  創作案山子まさに「田舎のプレスリー」

  犬の日捲り二月三日はブルドッグ


 山本鬼之介(やまもと・きのすけ) 昭和13年、東京都杉並区生まれ。



       撮影・中西ひろ美「東京の端々までも初雪す」↑

2022年1月7日金曜日

種田山頭火「さて、どちらへ行かう風が吹く」(「六花」 VOL.6より)・・

 

「六花」VOL.6(六花書林)、特集は、前号に続く「詩歌を読む 続」。「少し長めの編集後記」に、


 『六花』vol.5から一年経てのvol,6の刊行である。創業十七年目に入り、年一回の定期刊行を何とか続けることができた。まずは喜びたい。

 

 とあって、今年は、創業十七年目にして、一ヶ月の間に評倫集2冊、松村正直『踊場からの眺め』と三枝昂之『跫音を聴く』を立て続けに刊行したとあった。着実な歩みである。

 ブログタイトルにした山頭火の句「さて、どちらへ行かうか風が吹く」は、本誌中、橋本直の連載「とっておきの詩歌書⑤」からのものである。その冒頭に、


 世の中がバブル経済と言われた八〇年代の終りから九〇年代にかけてのこと、空前の好景気を背景に、ちゃらちゃらした軽薄な世相となったカウンターカルチャー現象であったものか、何度目かの種田山頭火ブームが起きていた。(中略)それは自分がちょうど大学生のころで、世のちゃらちゃらした雰囲気をそれなりに受容しつつ、なるべく一人であることを好み、バイクであちらこちらツーリングしてまわるのを趣味としていた。そして、そういうバイク乗りの嗜好する孤独とか自由とか放浪の気分が山頭火のありようと合うと思ったのだろう。

 

 とあり、結びに、「一番最初に買った句集は、いつだったか誰かに譲ってしまったが、今や山頭火の句集はこんなに世に出ている。三十年も経つと隔世の感がある」と記されている。


 その通りだが(橋本直は、愚生と20歳ほど違うが)、愚生が、最初に山頭火の本を手にしたのは、すでに53年前になる。どこにも山頭火の本が無かったころだ。和綴じの『草木塔』と『其中庵日記』だったと思う。それは、愚生が20歳、わずか1年で離婚することになった最初の妻の実家の山口市の寺(曹洞宗)の本棚にあった(愚生が仏前結婚式をあげる前日。禅宗だった大山澄太との交流があったのだろう)。すべて大山澄太が刊行したものであった(大山澄太無くしては、山頭火の書物は残らなかったとおもわれる)。それを貸してもらい、持ち帰った。その2冊を種本にして、何とか山頭火を世に紹介したいと思い、当時、「立命俳句」を創設し、京都新聞社に勤めていた故・さとう野火に見開き2ページ分、山頭火について「立命俳句」に書いてもらった。しばらくして、永六輔がラジオで山頭火について語り、瞬く間に山頭火ブームが訪れた。村上護の山頭火の評伝によって多くの人たちに読まれることになったが、村上護から、生前に澄太との確執ががあったとも聞いた。その山頭火の本は、結局返すことなく、他の句集類と生活の足しにと古書店・B書院に売った。愚生が山頭火を知ることになったのは、防府高等学校に一学期だけ通ったことがあり、そのとき、近くの公園の叢のなかに「雨ふるふるさとははだしであるく」という句碑があったことと、地元の高校の文芸誌に、中原中也と嘉村磯多と山頭火の特集があったからだ。それにしても、山頭火など知る人もなく、それこそ「ホイトウ」(乞食)と呼ばれていた名残すらあった。愚生の田舎では、よく門付けする僧もいた。愚生は、故郷を出てからというもの、これまで数回しか帰郷せず、いまだに、叢に苔むした句碑のことしか脳裏にない。

 ともあれ、本誌本特集の執筆陣は26名、吉野裕之「いつもたいへん」、なみの亜子「問い続けたい」、山西雅子「詩を読んだころ」、中津昌子「岡井隆の庭で」、黒瀬珂瀾「遠い誰かと」、中岡毅雄「『展開図』を読む」、藤野早苗「一杖」、喜多昭夫「顔と心臓ー『みじかい髪も長い髪も炎』を読む」、横山未来子「個人を超えて」、宮崎斗士「散りばめて」、真田幸治「小村雪岱と佐佐木信綱」他である。文中より、短歌、俳句をいくつか以下に挙げておきたい。


 いや無論くらく濃く立つ葉脈を昔(むかし)通ひゐし水のことさ、ね 岡井 隆

 乾葡萄のむせるにほひにいらいらと少年は背より抱きしめられぬ   塚本邦雄

 四十歳のわが暗濁のおもしろさみどりの蘭の蜜をば舐むる     森重香代子

 はぎすすききやうのあきの風の朝われはめざめん鞄のなかに    小島ゆかり

 花びらの裏側ばかり見るようにわたしをなぞるきみの舌先      平岡直子

 さまざまに見る夢ありてそのひとつ馬の蹄(ひづめ)を洗ひやりゐき  宮柊二

 遺品館を出てたる父は「字がうまいものだな」と言う 言いて黙せり 吉川宏志

 折針を陽にかざすときわが脳に折針の黒き影は落ちゐつ       葛原妙子

 雪でみがく窓 その部屋のみどりからイエスは離(さか)りニーチェは離る 酒井修一 

 ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ     佐佐木幸綱

 桜咲く指輪は指に飽きたでしょ    池田澄子

 古書店に力士来てゐる朧かな     川越歌澄  

 メビウスのそこが最果て酌み交す   夏木 久

 産む前の深息いくつ雪解川      神野紗希

 でで虫は悲の渦ゆるめては生きる   若森京子

 骸骨につづく歯並び沢庵噛む     杉浦圭祐

 甚平といふ精神に腕通す       石倉夏生

 吾がからだぴつたりの穴つちの穴   堀田季何  


      撮影・鈴木純一「青い目になった手袋なくなした」↑