「現代俳句」2月号(現代俳句協会)、本号の特筆すべき記事は、筑紫磐井「俳人協会創設秘史ー60年目の信実であるー」である。もとはと言えば「 藍生」(主宰・黒田杏子)に昨年より連載された「俳人協会創設秘史ー協会卒業論文として」の題で、わざわざ肩書を「現代俳句協会副会長/俳人協会評議員/『兜太 TOTA』編集長」を付けての発表である。本誌全文は15ページに及ぶものなので、読者は直接、本論考にあたられたい。さすがに、現代俳句協会副会長にして、しかも、俳人協会評議員の長い経験から、当時(現代俳句協会から分裂して俳人協会設立時)の俳人協会会報(第1号昭和37年5月安住敦「経過報告」)などを引用し、事実経過を突き合わせての論で、分裂時の表向きの理由ではなく、実証的に実態があきらかにされている。本ブログでは、ごく一部になるがそれらの部分、わずかな部分になるが紹介しておきたい。最初に、全体をイメージしてもらうために、文中小見出しを挙げておこう。
一 はじめに・・【楠本憲吉による概説】【俳人協会の見解】。二 俳人協会創設事件・・ ①共存の時期(36年10月16日~12月3日)△俳人協会側の活動、△現代俳句協会側の活動、②対立の時期(36年12月4日~)△俳人協会側の活動、△現代俳句協会側の活動。三 俳人協会創設事件・続き。四 俳人協会創設事件の首謀者。 五 俳人協会創設事件の首謀者(続き)。六 現代俳句協会賞と俳人協会賞。 七 俳人協会と現代俳句協会の今後。
以下には、各小見出しの中から、いくつかの部分を引用紹介しておきたい。まずは△現代俳句協会側の活動から、
(前略)この記事で注目したい重要なことは、(愚生注:創立俳人協会からの)楸邨の幹事・会員の辞退、龍太の退会であった。なぜ俳壇の良心というべき楸邨・龍太が辞退・脱会したのであろうか。
表を見ても分かるように、楸邨、龍太の入会・幹事就任は「共存の時期」の了承であった。楸邨への同意、龍太への勧誘は出席者(多分波郷か源義)が穏便に行ったものだろう。しかし草田男の朝日の発言で、聞いていた話と全く違う事態となり「対立の時期」となった訳だから、誠実な楸邨、龍太が入会を拒絶しても信義に反するものではない。(中略)
三 俳人協会創設事件・続き
(前略)以上から私の結論を述べたい。ある時期(12月3日)まで俳人協会は現代俳句協会内の伝統を掲げる一親睦団体にすぎなかった。多少隠密裏には見えても、現代俳句協会清記(昭和22年9月)では「協会は会員個々の俳句活動は之を全く拘束せず」としているから、伝統俳句の親睦団体を作ることは否定されていない。もちろん「協会」という名称がよかったかどうかは別だ。「懇話会」ぐらいがよかったかもしれない。(中略)
四 俳人協会創設事件の首謀者
(前略)〇第2回俳人協会発起人会
〇第一回俳人協会幹事会(俳人協会清規決定、第一回俳人協会賞(石川桂郎)の決定)
一日の内にこんな緻密な実務を進める能力が草田男にあるとは考えられない。草田男は生れて初めて公職である現俳幹事長に就任し、慣れないトップとして一年半でこんな大騒動を起こした。さらに俳人協会会長に就任しても僅か半年で会長職を擲っている(秋桜子が後任)。草田男は間違いなく昭和最大の俳人であるが、組織的能力はないに等しい。それは、この種の事件に練達した西東三鬼、石田波郷、角川源義であると思う。(中略)
①源義は発足したばかりの俳人協会内の事務所を角川書店内に提供している。これは俳人協会に対する最大の物的支援である。(中略)
②三鬼は、(中略)俳句人連盟を分裂させ、波郷と相談して現俳協の立ち上げの準備をした。(中略)
③波郷は、「現代俳句」の創刊、現代俳句協会の設立、馬酔木の復活などの戦後の動きの中心に常にいた。俳人協会の創設についても、状況証拠から見ても、第一回俳人協会賞を門下の石川桂郎に授与、幹事13人中の3人を「鶴」から出している。実は能村登四郎は現俳協幹事であったが、「(登四郎の先輩にあたる)波郷は当然だと言わんばかりに新協会の設立賛助三十数人のメンバーの中に私を入れたのどぇ、私は現俳協を脱退した形になった」(沖53号10月「わが冬の時代」)とあるようにとても納得した退会ではなかったようだ。(中略)
六 現代俳句協会賞と俳人協会賞
(前略)不可解なのはここからで、第9回現代俳句協会賞の選考が不明朗であると草田男は主張するが、本当は逆なのだ。実は、第一回選考委員会[予選会]直後、角川源義から安住敦に俳人協会発足の相談が行われ[俳句文学館第100号・昭和54年8月5日安住敦「創刊当時の思い出」]、まだ現俳協賞(兜子受賞)の決定していない時期に第一回俳人協会発起人会(10月26日)が開かれたことである。兜子に現代俳句協会賞が決まったために俳人協会発足が決まったのではなく、桂郎が現代俳句協会賞から外された時点で俳人協会は実質発足したのだ。草間時彦も同様の認識である(俳句文学館第192号(昭和62年4月5日)「二十年を振り返って」)。(中略)
七 俳人協会と現代俳句協会の今後
(前略)俳人協会が、現俳内の伝統の親睦団体にすぎないという事実は「俳人協会清規」が廃止され、昭和41年4月に「俳人協会規約」が制定(改定)されても、その目的にほぼ同文が組み込まれたことからも引き嗣がれることになる。
では俳人協会が、民法に基づく公益法人となってこれは改善されたのであろうか。実は念願の親睦が消え事業団体化するのとの引き換えにもっと恐ろしいことが起きてしまったのである。社団法人俳人協会は完膚無きまで定款の目的を変更されてしまったのである。
「社団法人俳人協会は、俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もって我が国文化の向上に寄与することを目的とする。」
「親睦」は消えたものの、最も大事な「伝統」がかけらもなく消えたのである。これは当時の文部省(政府全体を通じてだが)の公益法人認可条件として、一業界に一法人しか認めず、「伝統」と明示することは他の俳句を排斥することになるため国是として認められなかったと思われる。 結局俳人協会は、伝統俳句だけではなく、無季俳句の振興まで任務とすることになったのである(前出「二十五年を振り返って」)。これは多くの俳人にとって驚きであろう。新しい法人制度になってもこの目的は変わらない。(中略)
こうした轍を避けたのが、日本伝統俳句協会であった。優れた官僚で政治家でもあったホトトギス同人会長大久保橙青が、文部省と緊密な連携を取り、有季定型をを「伝統俳句」と呼び、これは「俳句」とは別の事業であると認定させるウルトラCをとった。(中略)
以上で俳人協会創設の顛末についての詳細を書いた。(中略)
私としては、こうした事実、特に現代俳句協会および俳人協会の設置目的がほとんど変わらない時代となってしまったことを踏まえて、両協会の未来を考えてみてはどうかと思う。これは一種の妄想であるが、(中略)協会は現在も友好裏に共存できていたことと思うのである。
さすがに、元文部官僚だった筑紫磐井の構想となれば、あながち妄想でもなさそうである。遠からず、現代俳句協会と俳人協会の大合同も在り得るかも知れない。何しろ、俳人協会が公益社団法人である限り、「俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もって我が国の文化の向上に寄与することを目的とする。」のだから、現俳協と組織統一を計っても何の不都合もない。それには、まず、次期現俳会長・筑紫磐井を誕生させることが第一歩であろう。そのときに、唯一の避けるべき大合同は、戦前の大日本文学報国会の轍を踏まないようにとのみである。
ともあれ、同誌同号のブックエリアに愚生は、酒井弘司句集『地気』評を書き、そして、岡田耕治は、久保純夫句集『植物図鑑』評を書いているので、二人の句作品をいくつか挙げておこう。
星涼しこの世の人は灯を灯す 弘司
立夏・小満・芒種天地のはじけくる
カンナ燃ゆまっすぐに立てわが叛旗
福は内「天に花咲け地に実なれ」
野の花のようになれたらまた一歩
甚六が恋する文旦愛しけり 純夫
文旦に顔を画きたる吾妹かな
文旦に胎動ありぬ聖少女
文旦を産み落としたる総理かな
文旦に触れて切なき人のこと
芽夢野うのき「寒卵われば川音少し見ゆ」↑
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