井口時男第3句集『その前夜』(深夜叢書社)、帯には、
その前夜(いまも前夜か)雪しきる
世界やはらげよ雨の花あやめ
微かに聞えるエコーを掬い、共振しつつ紡がれた十七音ー—
〈俳句と自句自解によって織りなす作家論〉という画期のスタイルで、
室井光広、河林満という2人の作家を見事に描出したエッセイも収載、
俳句表現の新たな可能性を開く第三句集
とある。また「あとがき」には、
三部仕立てて構成した。第一部は単独句、第二部は連作句、第三部は旅の句。それぞれ句作の意識が少しずつ異なる。各部内の句はほぼ作成順に配列した。(中略)
私自身の俳句観でいえば、『をどり字』の帯に書き、「わが俳句ーあとがきを兼ねて」で敷衍した「俳は詩であり批評である」という信念の特殊な実践の一例である。
文章の全体は、主として自句自解(時に戯解)のつづれ織りの形をしているが、私にとっては新たな俳文の試みである。私は、例えば芭蕉が旅をしつつ文章を書き句を詠んだように、室井光広(そして河林満)という作家の作品を旅しつつ句を詠んだのだ。
ともあった。
「東京新聞」8月17日(水)夕刊↑
また、東京新聞夕刊「大波小波」には、(喉仏)氏によって、「その前夜」の句には、「あたかも、ウクライナの悲劇を見据えて詠まれたかおようだ」とあり、その結び近くから、
それ以上に本書で異彩を放つのは、俳句を交えたエッセー「追悼句におる室井光広論のためのエスキース」だ。二〇一九年に亡くなった室井は井口の二歳下。「あんにゃ」と慕った井口に倣うように彼も「隠遁」した。畏敬の念で結ばれた同志への、深い洞察と愛惜が伝わる。手応えがあったらしく「あとがき」で「前例のない画期的な試みだろう」と自負している。まだまだ批評家の野心は旺盛にたぎっているようだ。
と記されている。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。
〈広島や蛇の蛻(もぬけ)の目のドーム〉
中川智正(元オウム真理教信徒。「ジャム・セッション」第13号より)
虚に殺し実に殺され夏の月
二〇一八年七月六日、オウム真理教麻原彰晃ら7人死刑執行。中川智正もその一人
だった。七月二十六日、残り六人執行。計十三人。地下鉄サリン事件の死者十三人。
彼らは虚誕の物語を信じて人を殺し物語を失って処刑された。では、我らはいかなる
虚誕の中にいるのか。
己が名によるアナグラム
まゝよ痴愚沖いと遠く霧(き)らふとも
紅灯に吹き寄せられて寒の塵
ふらこゝや首吊り男はいまも二十歳
踵病み鬱々われは梅雨の象
銀河流れよ廃墟も青き水の星
匍匐して花野に斃れ帰らざる
鵙の贄なほあざらかな耳と舌
ひきがへる他人ばかりの死者の数
シベリアの朽木焚かん魂迎へ
父は四年三ヶ月シベリアの収容所に抑留された
(前略)彼はまさしく「よく隠れよく生きた」。
断腸花骨を拾いに行く朝の
井口時男(いぐち・ときお) 1953年、新潟県(現南魚沼市)生まれ。
撮影・鈴木純一「ぬけがらの中は明るい蟬しぐれ」↑
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