2016年2月29日月曜日

田中三津矢「定型の軋みー火渡周平に聞く」(「戦後俳句史研究会 会報2」)・・



あるコピーの探しものをしていたら、「戦後俳句史研究会 会報」2冊(会報1・昭和57・9・26、会報2・昭和58・12・10)が出てきた。
すっかり失念していたのだが、田中三津矢が「会報1」に「火渡周平の戦後」を書き、「会報2」では「定型の軋みー火渡周平に聞く」と題して、火渡周平へのインタビューと、さらに「火渡周平自選百五十句」では,句集『匠魂歌』以前と以後の句も収録されているのであった。
他にも、妹尾健「アジア的感性についてー二年間を顧みて」として1981年1月から毎月行われた戦後俳句史研究会の総括もしている。報告者には、大本義幸、坪内稔典、宇多喜代子、江里昭彦・増田まさみ・富岡和秀、今井豊、鈴木六林男、三浦健龍、亘余世夫、徳弘純、中岡毅雄などの想い出深い名も挙がっている。
会報の発行人は妹尾健・富岡和秀、事務局は大本義幸・田中三津矢がそれぞれつとめていた。
越川憲司歌集『拗音』の書評を大本義幸が書き、掉尾を以下のように記しているのが改めて眼についた。

 越川憲司『拗音』は内なる母親殺しの儀式であり、以後の彼は、犯罪というものを主要な考察の材料として人間を追及する方向へとむかっているのだとわたくしは考える。劇画や映画や絵画は、夢みられる犯罪のテキストとして彼の内で位置しているにちがいない。

現在では、もはや忘れてしまっている人が多いと思うが、歌人・越川憲司とは俳人・江里昭彦でもある。当時の彼は、俳句と短歌を同時に書いていた。

   孫抱きて入水のさまに母屈み                  昭彦

   レマン湖のそのときは秋
     いとけなき吾を抱(いだ)くに腰を抱(だ)く母        憲司

話題を、伝説の俳人となっていた火渡周平にもどそう。
インタビューなかでは、「俳句の伝統というもの」という小見出し部分で、以下のように語っている。

  今の時代の俳句を見ていると、手の内を覗かれているような作品が多いですよね。私は「花鳥昇天」の頃から、つとめてそのような事を排除してきたつもりなんですよ。俳句は、哲学・宗教・観念を超えるものですから、何もかも捨て去ったところから産まれるものです。哲学的・宗教的・観念的であっては、駄目なんです。そうすると、どうしても「ホトトギス」の虚子の写生で満足出来なくなり「爛々と昼の星見え菌生え」の句となり、もうひとつ屈折したものを作ってゆこう、と思ったんですよ。それが歯車となって、私の俳句意欲をかきたてたんです。

以下は、火渡周平自選百五十句より・・・

    半身は薔薇 特攻機炎上す          周平
    セレベスに女捨てきし畳かな
    東西に南北に人あるきけり
    中心に生殖器あり毬投ぐる
    水泡(みなは)より美しき旅了りしや
    鶴の檻 鶴の頭が 指先へ
    兄弟(はらから)よ鳥居が泳ぐ夕ざくら

火渡周平(ひわたり・しゅうへい) 1912年~1994年。大阪府生まれ。




    

2016年2月28日日曜日

川澄祐勝「春泥や盲ひし母を曳く手替へ」(『四季を楽しむ』)・・・



川澄祐勝(かわすみ・ゆうしょう)、昭和6年、埼玉県秩父郡皆野町生まれ。
平成元年以来、別格本山高幡不動尊金剛寺貫主。
俳句は「先代秋山祐雅大僧正から『坊主の嗜みとして俳句位やれ、自分で実際に見たこと、感じたことを素直に詠め、自分の句に徹することが大切だと』と教えられましたので、今も写生句が中心になっています」(あとがき)という。
『四季を楽しむ』(六大新報社)は、仏教系新聞「六大新報」に平成25年7月から2年6か月にわたって掲載された句をまとめたもの。各見開きのページには10句と左ページの3分の2ほどにカラー写真が施されており、それぞれの句を読むこともさることながら、写真を眺めるだけでも飽きない。
現在の季節に発表された句をいくつか挙げさせていただこう。

   秤目をつぶさには見ず若布売         祐勝
   梅紅し白しなんでもござれ市
   末黒野(すぐろの)を駆け来し犬に嗅がれけり
   応へなき去来の寺の春障子(金戒光明寺)
   洲浜草添へある震災募金箱
   風鐸の暁より鳴りて彼岸西風
   本降りとなるまで寺のほうほけきょ




2016年2月26日金曜日

若林奮「飛葉と振動」展(府中市美術館)・・・




今年に入ってから、府中市美術館で若林奮「飛葉と振動」展(~2月28日まで)が行われている。
必ず観に行こうとおもっていたのだが、地元で、いつでも行けるとタカをくくっていたら、バタバタしていたこともあって、いつの間にか展示期間が過ぎようとしていた。とにかく、今日しかないと思って行った(京王パスポートを持っていると2割引きで560円、その他いくつかのカードも対象になっているらしい)。
美術館のある府中の森まではよく散歩にいくので、美術館の前庭に置かれている「地下のデイジー」は行く度に眺めている。鉄の彫刻家のイメージがあるが、それだけではないこともわかった。
愚生の記憶違いかもしれないが(何しろ略歴に記されていないので・・)、確か以前に佐倉の川村美術館で若林奮展を観た記憶があるのだが・・・
意外と若くして亡くなった。略歴には享年66。亡くなって13年が経つ。
それで思い出したことがある。略歴に「1995~2000年 ゴミ処分場建設に反対する市民運動トラスト地に《緑の森の一角獣座》を制作(東京日の出町・現存せず)」とあったので、そういえば愚生もそのトラストの一本の木を買い、トラスト運動に参加したことがあった。「作品が現存せず」とあるのは、都による強制撤去が行われたからだ。愚生の木も強制撤去されて、撤去費用も都から請求されたことを思いだした。
もっとも、一人当たりにすると大した金額でもなかったような気がするが、弁護士事務所を通じて、みんなで供託したようなことがあった。その後はどのようになったかは、覚えていない。きっと委任状を書いて、最後は運動のカンパ金になったのではなかろうか。
若林奮展は良かった。書肆山田『「対論◆彫刻空間ー物質と思考」若林奮×前田英樹』もあったし、俳人では馬場駿吉の名や、詩人では吉増剛造の名もあった。



                地下のデイジー↑

美術館のリーフレット(2002年)には、

 (前略) 後に彫刻の可能性を考える時、これらの経過を通して私はふたつの視覚的方向を考えてみた。ひとつは自分の前方であり、、他の一つは自分の垂直の下方である。1976年、この考え方で《振動尺試作》、《100粒の雨粒》を制作した。《振動尺》の系列は、その後も種々の形で続けたが、垂直方向の視線は思考の中にとどまっていた。一方《地下のDAISY》は垂直方向の系列に属するものであるが、私の位置との関連で別の要素を多く含むものであった。《地下のDAISY》は、地下の想像を加えたものである。

その「地下のデイジー」は、わずかに地上に顔を出しているが(デイジーとはヒナギクらしい)、その下には厚さ2,5センチの鉄板が123枚重なって埋められていて(約3メートル)、地表に出ているのは3枚分だけ。しかも手作業で掘った穴に1枚約70キログラムの鉄板を重ねていったという。無垢の鉄は銀色に輝いていたらしいが、雨を含んで急速に赤茶色の錆を吹き、設置後10日ほどの後、薬品処理をして赤錆を全体に定着させたのだ、という。



2016年2月25日木曜日

大井龍彦『れんくんとおかあさん』・・・

本日のブログは、プライベートな記事で失礼させていただく。
愚妻が去る2日に入院し、4日に手術を終え、来る28日(日)にいったん退院が決まった。
日頃は、朝早くからけっこう遅くまで建築現場で働いて、めったに実家に顔を見せることもない愚息なので、何か書いておくれ(入院中の励ましに・・)、と彼に小さなスケッチブックを送った。
そして、やっとと言うべき、とにかく、手術日の前日、仕事に行く前の早朝5時半ころに届けてきたのが、以下に、(ちょっと恥ずかしいが)書かれてあったメッセージである。
世間によくある親馬鹿だと思って、飛ばしていただいても文句はない。
退院後は、通院しながらの放射線治療と並行しての抗がん剤治療が待っているので、とにかく体力勝負にちがいない。皆さんに、色々ご心配をいただいていたこともあり、お礼にかえてのご報告という次第である。




2016年2月24日水曜日

橋本照嵩写真展「琵琶法師 野の風景」と坪内稔典著作百冊を祝う会・・・

  

        ギャラリーOKIで会った鳥居真里子・河口聖・伊丹啓子の各氏↑

昨日は、坪内稔典著作百冊出版記念お祝い会が、神田神保町の「エスペリア」行われた。坪内稔典色紙百展(OKIギャラリ―~3月3日まで)のオープニングの会であったが、何と言っても、現在十指ほどの連載を抱えているというネンテン氏の多忙ぶりを反映してか、岩波、福音館、聖教新聞、赤旗、平凡社、集英社,ふらんす堂、角川など出版社の編集者が数多く出席していた(女性編集者がほとんどだったが)。純粋俳人の挨拶は冒頭の、ネンテン氏戦友の澤好摩くらいだったのではなかろうか(歓談中の一言は除く)。
ともあれ、遠路駈けつけた林桂に会えたのは嬉しかったし、松下カロにも初めてあった。「船団」の面々。もちろん、「豈」の筑紫磐井、山﨑十生とも久しぶりに歓談した。林浩平には俳誌「白茅」もいただいた。
皆さんにご多幸あれというところか。




               橋本照嵩写真展「琵琶法師 野の風景」↑


まあ、都心に出る機会もめっきり無くなって、たまに出るとあちこちにいきたくなるのだが、今日は橋本照嵩「琵琶法師 野の風景」(ZEIT-FOTO SALON・~2月27日まで)に立ち寄った。琵琶法師、肥後や山形、群馬の野の風景、約40年前の風景ばかりである。
 写真集『叢(くさむら)』(Zen Foto Gallery)も出版されたばかりで、並べられていた。


2016年2月22日月曜日

米谷玄「雛壇のひなのまなざし皆かなし」(古田旦子『風の会話』より)・・・



 米谷玄(こめたに・ひろし)は大正3年福岡県豊前市生まれ。秋櫻子の「馬醉木」に投句、平成11年10月に死去とある。句は古田旦子句集『風の会話』(文學の森)のなかの「父・米谷玄遺作品」の章のものである。淡々と詠まれた句群には捨てがたいものがあった。
いくつかを以下に挙げたい。

    住み馴れ詞し寝屋川を引き揚ぐ
  暑き日の妻逝きし町さやうなら       
  一本の向日葵を供華原爆忌
  何も彼も末枯るヽもの枯るヽもの
  譲られし席にも西日差して来し
  母の忌の又その日の如く雪

 米谷玄の娘・古田旦子『風の会話』のついては、大牧広の序に見事に書き尽くされているので、あえてこれ以上は触れないでおく。その大牧広の言、

  
     多き手に背中押されし涅槃西風     旦子

『風の会話』に収められた一句一句は、こうしてなにげない俳句が誠実に収められていて、本集を読み終わってみると、ふっと身のうちに生きてゆく勇気にみちてくる、といった一書である。

 古田旦子(ふるた・あきこ)、昭和21年福岡県生まれ。



2016年2月21日日曜日

石川文洋「人生の転機⑲ー七十七歳、まだ現役カメラマン」(「俳句人」NO.657)・・・




「俳句人」NO.657(2015年鑑)には、愚生が、毎号楽しみしている連載記事がある。
それは報道カメラマン・石川文洋の「人生の転機ー七十七歳、まだ現役カメラマン」である。
石川文洋は沖縄出身、といえば、愚生は、今、若き俳人にして、沖縄の写真を撮り続けている豊里友行を思い浮かべる。是非とも、石川文洋のようなカメラマンになってもらいたいという愚生の無いものねだりもないわけではない。
今回の石川文洋の写真は昨年11月19日、沖縄キャンプシュワブゲート前に座り込んだ人々を強制排除する機動隊のシーンを撮影したものだった(その昔、愚生もわずかな時間そこに座り込んだこともあった)。それには、

  辺野古には警視庁機動隊が派遣されていた。三日間で1000枚くらい撮影した。二〇一六年も現役カメラマンを続ける。

とあった。また本誌の物故者欄に「山口剛(10/13・66歳・岩手)」を見つけ、改めて、愚生よりも若き死を悔やんだ。

以下に、新春詠と題された中から一人一句を・・(遅ればせながら)。

    黄に燃えて銀杏は夜もデモを鼓舞       石川貞夫
    火炎壺から精霊の舌凍星へ         田中千恵子
     金子兜太さんより電話いただく 折しも
    アベ政治許さぬ揮毫はがね墨        望月たけし


2016年2月20日土曜日

辰巳泰子「働きすぎと倒れふすのを繰り返し食費欠かさず入れる性分」(「月鞠」第16号)・・・




月鞠(げっきゅう)第16号(編集発行人・辰巳泰子)の巻頭随想は佐藤明彦「詞あさきに似て」の寄稿である。佐藤明彦は『三冊子(黒さうし)』の一節「師の曰く『大方の露には何の成ぬらん袂におくは涙なりけり、この歌は、鴫立つ沢に勝つ歌なり。面白し』と也」を引いて、以下のように述べるのである。

 俊成は『千載和歌集』に「大方の」のを歌を入集させ、「鴫立つ沢」を落とした。思うに、判詞中の「詞あさきに似て。心殊にふかし」は、晩年の芭蕉が目指した「かるみ」に通ずる。何でもない事柄が何でもない詞よって浅川の流れのような調べをもって詠まれる句。『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、この判詞に「かるみ」に通うものを覚えてはっとしたのではないか。その結果吐かれた言葉が「面白し」ではなかったか。

編集後記には「佐藤さんは、わたしが、ちいさな子を抱え路頭に迷うとき、職に就かせてくださった恩人です」とあった。
佐藤明彦は昭和27年、北海道釧路市生まれ。辻桃子「童子」の編集長である。かつて三省堂版『現代俳句大辞典』は、その刊行に当たって、彼が下請けとして実務を仕切っていた、と記憶している。その折、愚生も面倒を見てもらったのだ。

辰巳泰子百首歌「あん」より、いくつかを以下に挙げておこう。

  坦々と日々は均しておくのだよ 風立ちぬればかぜが絵を描く      泰子
  憎まれたまま生き延びるおんなよりなんでこの子がさきに死ぬ
  冷たくてなまめく天(あめ)のうすぐもり草生(くさふ)の我に寄り添え まなこ
  集団的自衛権より集団的愛護を受ける権利が好き
  かけてといえば毛布をかけてくれまして駱駝のような亭主なら欲し


           

2016年2月19日金曜日

前田典子「仰ぎ見る木に見られゐて春寒し」(『WEP俳句通信』90号)・・



今日は、4月下旬の暖かさというお天気で、明日は気温もぐっと下がり、荒れ模様の雨予報が出ている。「WEB俳句通信」は「70代俳人」の特集である。その中で目に留まったのが前田典子。昨年、第16回現代俳句協会年度作品賞の受賞者である。昭和15年11月、東京都生まれとあるから、当年取れば76歳だが、先般の現代俳句協会総会の折にお会いした時には、とてもそのような年齢の方には見えなかった。愚生とたいして変わらず、せいぜい60歳代後半の印象だった。失礼をしてしまった。年度賞作品もおおむね安定した句作りであったように思う。その折の句は、

       包丁に鱗張り付く初しぐれ       典子
       木枯しに慣れず一樹のなほ戦ぐ
       樹の抱く時間に触るる余寒かな

最後に挙げた句の「余寒かな」には、このブログのタイトルにした句の「春寒し」と、ほぼ同様のことだろう。それでも「春寒し」の方が春に比重がかかっているぶんだけ心に陰翳を生じる。作者は木に対するのがお好きなようである。
「WEP俳句通信」では、他に「豈」同人の筑紫磐井が「新しい詩学のはじまり(二)」と北川美美が「三橋敏雄『眞神)考③」を連載しているので、興味をもって読んでいる。筑紫磐井は『俳諧史』を編んだ栗山理一と金子兜太の近現代俳句史が「一卵性双生児である」という仮設を用意し、それを「証明を行うことができると信じるものである」と挑発的だ。
内容とは全く関係のないことで、少しばかり苦言したいのはカッコ「」のなかが、二重カッコやほかのカッコの記号で区別して示されていないので、「「・・・」」となってしまい、判別がつきにくいのは、不親切なのではなかろうか。WEP編集サイドで、キチンと書き分けるように指示していただきたい、と思う。いくら筑紫大先生の原稿だからといって、言いなりにスルーしているのはいかがなものか・・・。
ついで、と言っては失礼だが、北川美美の三橋敏雄の引用句の解説、冒頭で「無季句」というのはいいとして(「無季」で可かな・・)、「季語あり」は、愚生には少し気にかかる。単に「季語」だけで「あり」は無用ではないのか。そのあたり、わざわざ記すあたりは、著者の気持ちがわからないでもないが、淡々として、ムキになることもないだろう、と思う次第。

   ぶらんこを昔下り立ち冬の園        三橋敏雄
   むかしより蕎麦湯は濁り花柘榴      山本紫黄
   軽石の昔ながらに軽き夏          大高弘達
   われら皆むかし十九や秋の暮       高柳重信



                アシビ↑

2016年2月17日水曜日

伊丹三樹彦「杭打って一存在の谺呼ぶ」(『写俳亭の書写句文集「梅」』)・・・



『写俳亭の書写句文集「梅」』(青群俳句会)は、伊丹三樹彦の書と写真とエッセイをまとめてシリーズ化されている掌にほどよく収まる一冊。しかも以下の前書に記されているように96歳翁の解説のすべてが書下ろしだというから、いつもながら驚嘆する。病から復活しての衰えるどころか、噴出するエネルギー、気力、筆力にはビックリ・ポンである。

 写俳亭の書写句文集も続編になった。書名の愛称は「梅」となった。編者の村元武が名付けた。私は「沙羅」を望んだが、二文字は駄目と斥けられた。で「梅」になった。私の生地である伊丹で柿衞文庫を生んだ岡田家では、保存が良く、来館者を招きもする。春は盆梅展が行われる。土間に縁先にと私たちは見て廻る。柿衞文庫と隣り合っているから東西の俳人が訪ねて来る。(中略)柿衞文庫は専門の学芸員も居るが、大阪俳句史研究会も設置され、宇多喜代子や坪内稔典らが指導する。さて、本書の写頁の解説はすべて書下ろした。調べもせずに、私の脳裏にある記憶に頼った。人名地名の誤りも生じて名筆の上野賀山書を村上翔雲と誤記して了った。で、その翔雲書の写真を、名筆会を継いだ井上祥山に提供して貰った。





・書の章より
   
    ふんぷん ひんぴん ひんぴん ふんぷん 花吹雪     三樹彦
    沙羅仰ぐ この世の顎のだるきまで
    いつも誰かが起きて灯して落葉の家
    
・写の章より
  
    われも救命胴着 十三塔まで鉄舟架け
    輪の連衆 軍属たりし姫路の縁
    土鈴焼く火から武蔵の早紅葉
   




2016年2月15日月曜日

鴇田智哉「こほろぎの声と写真におさまりぬ」(『第6回田中裕明賞』)・・・



『第6回田中裕明賞』(ふらんす堂)には、賞の選考経過が詳細に記されている。各選者の総合点が最高点で、かつ万遍なく次高点を獲得しているので、合議の授賞では順当な結果と言える。少し面白いと思ったのは小川軽舟と岸本尚毅が第一位に推していたのが佐藤文香『君に目があり見開かれ』で鴇田智哉『凧と円柱』を第一位に推したのは四ッ谷龍ただ一人だった、ということだ。獲得点数が鶴岡加苗『青鳥』との三名の句集に集中していた結果だが、愚生は、候補者のメンバーを見たときに、全部の句集を読んでいるわけではないが、四ッ谷龍と同じく、鴇田智哉で決まり、と思っていたからだ。それは、四ッ谷龍の評である「『手拍子でこんな俳句ができました』というようなところがない。常識を脱しようという強い意志を終始一貫して感じました。感覚的な新しさもありますし、目のつけどころも新しいし、それを実現するための新しいテクニックもいろいろ自分なりに開発しているんですね」というところと相通じる。他の句集と比して相対的には明らかに抜けていると思っていたからだ。そして、ないものねだりかも知れないが、愚生には鴇田智哉はホントはもっと遠くへ行けたはずなのではないのか、という不満が残っていた。それが、もしかしたら、最高点を二名の選者に選ばせてしまった何か、佐藤文香の荒っぽさにさらわれた部分だったのではないだろうか。




ともあれ、ほぼ同時期に発行された「オルガン」4号での座談会「震災と俳句」では、これも鴇田智哉に真っ当さをみた。

 2011年の震災・原発事故は、私たちの生において前代未聞の深さをもった谷だった。その以前と以後とで、私は確実に変った。言葉を発する私自身が変わったのだから、発せられる言葉も当然変わるにちがいない。私はそれ以前も俳句を詠んだし、それ以後も俳句を詠む。私は「震災を」詠むのではなく、震災を被った私が、「何かを」詠むのである。

あるいは同号の田島健一の以下の言葉にもまっとうな在り方がみえている。

 今回の設問はあたかも「震災俳句」というものが「ある」かのように問うているけれども俳句が私たちに迫るのは、まだ経験したことのない「出来事」に対する振る舞いであって、個々が向き合うのは、顕在化しない自分自身の「現実」である。俳句はそうした「現実」に向き合うことでしか、その特性を発揮しない。

俳人は、他のジャンルにではなく、かけがえなく俳句が向き合っていることを思わなければ、そこを回避しては先へは行けないのだから。以下に「オルガン」4号から一人一句を・・・

    カフェインに頼る爪先から凍える      福田若之
    塀の向うは汚れたる雪が降る       宮本佳世乃
    雪の窓料理に皿も尽く頃の        生駒大祐
    せり出してくる日本画に立つ狐      田島健一
    ひと掴みづつゆふぞらを手がのぼる    鴇田智哉





2016年2月13日土曜日

坪内稔典「父と子と西宇和郡のなまこ噛む」(『坪内稔典自筆百句』)・・・




坪内稔典は、1944年愛媛県西宇和郡に生まれた。昨年末の『四季の名言』(平凡社新書)でその著作が百冊を超えたのを記念し、OKIギャラリーで色紙展(2月23日~3月3日)が開催されるという。そのために書き下ろされた色紙100点を写真製版したのが『坪内稔典自筆百句』(沖積舎)である。色紙1点1万円で販売されるので、予約を受け付けている(OKIギャラリー電話03-6272-5202,FAX03-6261-1312)。
「あとがき」には、

 沖山さんとの付き合いは四十年になろうとしている。彼が沖積舎を興して間もないころからの付き合いなのだ。同じ時代を生きて、ほぼ同じことを感じたり考えたりしてきた。その沖山さんのやってくれることだから、多少(いや、かなりだが)恥ずかしいことでも、まあいいか、という気分が私にあった。では、自作を口ずさみながらあとがきを閉じよう。「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」。

愚生も、沖山隆久と会ったのは、坪内稔典が上京したときに東中野で攝津幸彦、大本義幸、藤原月彦(龍一郎)、石倉昌治(石寒太)等と一緒の時だったような記憶がある。それぞれのその後の在り様は、まさに坪内稔典がいうように、多少の年齢の差や、感受の違いはあったとしても、同時代を生きてきたのだということになる。沖山隆久とは愚生が書店勤務だったこともあって、数えきれないほど会っている。
ともあれ、自筆百句のなかから愚生の好みの句をいくつか挙げておこう。

  従順を拒む一頭夏の馬場           稔典
  ひっそりとベラ棲む明るさ父母の島
  鬼百合がしんしんとゆく明日の空
  夢違観音までの油照り
  佐多岬半島に寝て月まみれ




  
  
 

2016年2月12日金曜日

たなか迪子「沓跡はまつすぐ神へ木の根開く」(『沓あと』)・・・



たなか廸子、1945年2月生まれ。1987年「童子」創刊維持会員とある。「童子」一筋の歩みというところか。栞文「多様な季語を生かす技」の安倍元気は、たなか廸子が使った季語の数の多さを述べながら、親愛を込めて以下のように記している。

  古い季語を現代に生かして使うには、相当の技術が居る。作者はその力技を、やすやすとこなしているように見える。例えば〈新渋やつづらの角を念入りに〉の句だ。「新渋」を作ったり塗ったりする情景は、もう限られたところでしか目に出来ないが、この句では、柿渋のつづらという現に眼の前にあるモノを通して、抵抗なく詠まれている。仮にこれが展示の葛籠だったとしても、そこから新渋という季語に思い至るところが巧みだ。

第一句集『迪』(2000年・ふらんす堂)から15年の歳月を費やした著者の第二句集もふらんす堂刊、装丁は和兎。紫のクロスと金の箔押し文字の位置がシンプルながら魅力的だ。
以下にいくつかの句を挙げさせていただく。

   出開帳津波のがれし秘とて             迪子
   甘蔗(きび)刈つて喉に古酒(くーす)の熱きこと
   春濤のたつふんときて夕ごころ
   七輪に焚いて七日の煙かな 
   おとうとが先に逝くとは年の豆
   芋の葉にすべなくすべり狐雨
   水打つてあたりに翳の生まれけり
   土になるまでを落葉として山に
   種袋へたるを縛り上げにけり