2020年9月30日水曜日

金子兜太「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」(『金子兜太の〈現在〉』より)・・・


  齋藤愼爾編集『金子兜太の〈現在〉ー定住漂泊』(春陽堂書店、2500円+税)、その後記の「編集余滴」に、


 主要メディアが追悼を早々とすませ、百年に一度というコロナ禍の自粛要請という生権力が発生する最中の『金子兜太の〈現在〉-定住漂泊』の刊行です。(中略)

 こうした冊子こそを兜太さんは待ち望んでいた筈だとの確信が、執筆者を含めた私たち編集者にはあります。兜太さんの〈現在〉というより、執筆者自らの〈現在〉を問う姿勢が、どの論考からも熱く伝わるであろうことを約束いたします。


 とある。350ページの大冊であることもさることながら、今後、金子兜太を語るとすれば、逸することのできない資料となるだろう。かつて、いわゆる俳壇が、まだかまびすしかった頃、金子兜太の作品を問い、自らの句作を問いながら、31歳で夭逝した中谷寛章の金子兜太論(「元の木阿弥ー社会性論議にふれて」〈「渦」1969年4月・「社会性から自然への成熟」〈「俳句研究」1969年11月号〉)が掲載されていることは、何より嬉しいことだった。愚生らが乗り越えなければならない戦後俳句作家の高峰への批評が出現しはじめた、最初期のものである。若き日の坪内稔典も続いていた。その後、たまたま愚生も、本書に収載された「金子兜太の挫折」(「俳句研究」1982年6月号)を執筆した。すでに38年前のことになってしまった。あるいは、また、多くの対談、例えば、安東次男と金子兜太「孤心と連帯」(「寒雷」1974年9月号)、小沢昭一との「戦中・戦後、生き方の原点」(「エコノミスト」1983年4月19日号)など、今となっては貴重な対談も多い。貴重な資料満載の一書である。手に取ってみられたい。

 ところで、愚生も「兜太読本」を試みたことがある。そのとき金子兜太は「角川からは絶対そういう話は来ない」と愚生にオーケーを出した。その後、兜太全集も出、角川「俳句」にもたびたび登場するようになる。まさに隔世の感であった。その承諾の旨の葉書(下写真)をみると、1995年9月5日の郵便日付がある。25年前だ。当時、安西篤、武田伸一両氏には、特にお世話になったが、愚生の非力と職の現場を変わるなど、ついに愚生の手では実現しなかった。申しわけないことだった。



              愚生の旧住所です。↑


    ともあれ、兜太の句を「95歳自選百句」のなかから、いくつかを挙げておこう。


   白い人影はるばる田をゆく消えぬために

   湾曲し火傷し爆心地のマラソン

   人体冷えて東北白い花盛り

   二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

   暗黒や関東平野に火事一つ

   梅咲いて庭中に青鮫が来ている

   夏の山国母いてわれを与太という

   左義長や武器という武器焼いてしまえ

   おおかみに蛍が一つ付いていた

   津波のあと老女生きてあり死なぬ


 金子兜太(かねこ・とうた) 1919~2018年、享年98.





★余談・・「俳句研究」高柳重信から愚生への督促状・・・

 じつは、上掲本所収の愚生の論「金子兜太の挫折」は、原稿締切り日が過ぎても、何の連絡もせず、原稿が遅れていたのだ。今思えば、こんな若造に、丁寧な督促状を出すことになって、愚生なら「まったくどうしようないヤツだ!」くらいに思ったはずだ。にもかかわらず、励ますように、「奮発して」とある。愚生は、申し訳なく、遅れに遅れた原稿を、荻窪駅前にあったマンションの高柳重信宅まで届けた。まだFAXも無い時代だった。



                    青磁碗 銘「満月」↑


★閑話休題・・染々亭呆人「茶席にも覆輪の月まろく出づ」・・・

 染々亭呆人の便りが面白いので、無断で以下に引用しよう。


 明日の10月1日は旧暦の8月15日、葉月望の日、仲秋です。
ところが、今年の中秋の満月は10月2日に見ることができるのだそうで、
毎月、望の日(旧暦15日)が満月とは限らないのは天文学の常識なのだ
そうです。
 さて、その日、曇ったりして月が見えなかったら、と思って、大阪の藤田
美術館所蔵の宋(12世紀)、竜泉窯で焼かれた青磁、銘「満月」を御目
にかけます(上掲写真)
 この碗を藤田伝三郎が買い取ったのは、井上馨からで、長州閥が寄ってた
かって、維新のどさくさに収奪した、江戸の遺産の象徴のような茶碗です。
なにしろ、藤田財閥の基礎は、井上が財務卿のとき秋田の小阪銅山を官有
化し、それを藤田に払下げたのが始まりで、のちの同和鉱業として、日本
全国の金属鉱山を手中に収めていったのでした。藤田の係累は久原房之助
が日立、日産を、田村某が日本水産を牛耳り、三井、三菱、住友と対抗す
る長州閥の牙城だったのです。
 あの目白の椿山荘も長州閥の総帥・山県有朋が乗っ取って別荘にしたのを
藤田が買い取って藤田観光のものとしたもので、長州閥の相互扶助の象徴で
すねえ。話がそれてしまいました。



       撮影・鈴木純一「其ノ月ㇵ呑マバ不死ナリ構ㇵヌカ」↑

2020年9月29日火曜日

藤本美和子「木の影は梛と知らるる九月かな」(『冬泉』)・・・

  
 藤本美和子第3句集『冬泉』(角川書店)、帯の惹句は高橋睦郎、それには、 

    どこまでも淡彩の平叙の中にふと顕つ異変、/それが美和子句の詩であり俳。/その微妙に驚くには、読句宜しく/ 平常心でなければなるまい。 

  とある。また、著者「あとがき」には、集名の由来について、 

  先生のこゑよくとほる冬泉 

 の一句に拠った。 
   二〇一五年一月十日、師の綾部仁喜先生が亡くなった。気道切開により声を失った先生の十一年近い歳月が終わりを迎えた瞬間であった。亡骸となった先生との対面が叶ったとき、そこには呼吸器かあ開放された先生の安らかな顔があった。そしていつものおだやかな声がはっきりと聞こえたように思えたのだった。 

と記されている。そしてまた、 

 波郷の師系に連なるひとりとして「打坐即刻のうた」、今のわれを詠み続けてゆきたい。

と述べている。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。 

  さざなみのゆきわたりたる氷消ゆ      美和子
  水影の火影の鵜縄捌きかな   
   鳥籠の向かうがはなる冬景色 
   あぎさゐの縁のいろ濃き塗香かな 
   潮鳴りをかたへに後の更衣   
   野遊びの膳のひとつに潮汁   
   くだら野や胸も頭も紅き鳥  
   愛日といふ言の葉を胸の奥   
   ぼろ市の鏡やとほきくにの空   
   枯れ極むとは一草の髄のいろ  
   籜(たけのかは)富田木歩の終焉地 
   炎天のかげりきたれる辻回し
  列島の灯を落としたる蝌蚪の紐 

 藤本美和子(ふじもと・みわこ) 1950年、和歌山県生まれ。

 
         芽夢野うのき「その色をください暮れ六つの実むらさき」↑ 

2020年9月28日月曜日

瀬戸正洋「シビリアンコントロール亀鳴きにけり」(『亀の失踪』)・・・



  瀬戸正洋第6句集『亀の失踪』(新潮社図書編集室)、跋文と思しき寄稿に、富樫鉄火「ま、このっとおりです」、解説に川村蘭太「いま、なぜ瀬戸正洋なのか」。著者「後記」には、


  何もすることがないので俳句を作っている。

  俳句を作っている理由を聞かれてもわからない。

  もちろん、生きている理由など何もわからない。

  朝、目が覚めるとということだけのことである。

  これからは、人に係わることなく生きていけたらと思う。


 とあった。富樫鉄火の寄稿には、その結びに、


 (前略)ところが瀬戸さんは、自句自解を、いっさい、しない。半分照れたような表情で、ニコニコしながら「ま、このとおりです」と言うだけだ。この「ま、このとおりです」が出るたびに、誰もがクスッと笑う。(中略)

 そんな瀬戸さんが、第六句集をまとめられた。三〇〇句が収録されている。もちろん、どれも「瀬戸ワールド」ならではの、独特なコトバのオン・パレードである。ただし、あまりあれこれと、句の背景を探らないほうがいい。だってご本人に「ま、このとおりです」と言われるだけだから。

 俳句とは、それでいいと思う。


とある。さすがに解説の川村蘭太はその背景を述べようとする。冒頭近くには、瀬戸正洋「他人になりたくてなりたくて海鼠」の句を挙げて、句に潜んでいるストーリーを展開しているのだが、それでも、その解説の結びには、


 さあ、私がいままで書き流してきたことも、スッキリと水に流し、あなた自身の、あなただけのストーリーを、正洋俳句から発見してください。

  うしろのしょうめんだあれ?


 という塩梅であった。何しろ海鼠の句では、橋閒石に「階段が無くて海鼠の日暮かな」があるので、これに対抗できるストーリーは、けっこう難しい、と思われる。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


   烏瓜だんだん昏くだんだん暗く      正洋

   足もと寒し映画館を出ても寒し

   三伏や裸眼で見えるものを見る

   威されて威して威銃とカラス

   鬼ごつこうしろの正面ひとだらけ

   おとなの事情こどもの事情夏はじめ

   高圧洗浄かける卯の花腐しかな

   福引や老々時代のどまんなか

   

  瀬戸正洋(せと・せいよう) 1954年生まれ。



          撮影・鈴木純一「義務ならば国勢調査黒く塗る」↑

2020年9月26日土曜日

豊里友行「誕生も死もこの涙かたつむり」(『宇宙の音符』)・・


 

 豊里友行第3句集『宇宙の音符』(沖縄書房)、本句集には、すべての句、「あとがき」などにも英訳(松本太郎)が付されている。写真家でもあり俳人でもある豊里友行は、その「あとがき」に、

 

  (前略)やはり私は「夢を語りたい。愛を語りたい。基地の島の現実を直視し、それを乗り超えていく創造力の翼を広げ、自己表現をしていきたい。」と謳ったあの頃のままだ。

私にとっての俳句と写真の二足の草鞋は、どちらも欠かすことのできない生きる杖だった。(中略)

俳句は楽しい。

写真は楽しい。

(中略)

私にとって俳句と写真は、より良く生きる糧となる。

俳句の創造力の翼は、ついに宇宙の未知の領域に飛翔する。

私は、沖縄への愛を宇宙のラブレターで奏でるように句集に綴った。


 とあった。ともあれ、集中より愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておきたい。

 ただ、ひとつ気になったことは、句のフレーズがどこかで見たフレーズと重なって読める句が幾つかあったことだ。これは、彼が、誰にも似ることなく一句を佇立させるために、彼の句に、さらなる飛躍を望むならば、捨てなければならない部分だろう。楽しくはなくとも・・・。


   蒲公英の湯船の大地が点火する      友行


   月も踊れ(モーレ)

   花も踊れ(モーレ) 宇宙の音符よ

   月も踊れ(オーレ)


   文庫本天道虫もエキストラ

   とことこ歩いては立夏の手拍子

   終戦はまだよさざなみのまらそん

   島丸ごと宇宙の弦の花ゆうな

      *ゆうな=沖縄口の呼び名でオオハマボウ

   台所ぴかぴか母の孤島です

   あめんぼが踊る超合金の水

   還れない遺品が語る光る風

   

 豊里友行(とよざと・ともゆき) 1976年、沖縄県生まれ。



     芽夢野うのき「不覚にもすすきかるかやくたれたる」↑

2020年9月25日金曜日

姜琪東「遠蟬やわが青山は土佐にあり」(「俳句界」10月号)・・・



 「俳句界」10月号(文學の森)、特集は「鯨と酒とヨサコイ祭~土佐の俳人競泳」。巻頭エッセイは吉田類「土佐の思い出/龍の胎に還る」、論考は宮坂静生「地貌季語の宝庫土佐」。土佐の俳人紹介に、若尾瀾水と右城暮石。土佐の俳人競泳に7人、ここでは「俳句界・文學の森編集顧問」の姜琪東(カン・キドン)のミニ・エッセイから、


  (前略)父親が一人で半年がかりで建てた家に住んでいた。四畳半と三畳だけの掘建て小屋だった。夜になると天井裏を蛇がシュウシュウと這いまわる音が聞こえる。やがて鼠がキーキー騒ぎ始めるが、あっという間に静かになり、夜のしじまにかえる。(中略)

 中三の夏、父親が酒に酔って川へ転落、即死だった。父親の葬儀をすませて五日後、私は風呂敷包み一つを持って大阪へ出た。大阪駅の待合室で手配師に捕まり、飯場へ連れて行かれた。十五歳の少年にとっては、地獄のような労働だった。私は飯場を脱走し、大阪のスラム街釜ヶ崎へ逃げ込んだ。

 野宿をしながら、住み込みで働ける仕事を探した。身元も分からない少年が働けるのは、食堂かパチンコ店くらいしか無かった。月給わずか四、五千円。ほとんどを高知の弟や妹へ仕送りをした。野宿は、天王寺公園の市立図書館の軒先。 

 いろいろあったが、今振り返ってみると波乱万丈、結構それなりに楽しかった。


 とあった。愚生が最初に姜琪東の名を知ったのは、第二句集『身世打鈴(シンセタリョン)』(石風社・1997年刊)だ。愚生がまだ、文學の森に入社する以前のことだが、すでにアートネーチャーの会長は辞めておられた。たまたま縁あって、定年後の4年半を「俳句界」の世話になったが、たぶん、今でもワンマンぶりを発揮されているに違いない。最後は、愚生との生き方が違い、社を辞すことになったが、それらは、たぶん愚生の生き方の甘さゆえだったろう。辞めるときに「これからは俳人として付き合わせてもらう」と言われたのが、何よりの有難い言葉だった。もう80歳を越えておられるだろう。ひたすら、健在とご自愛を祈る。以下は句集『身世打鈴』から、


  水汲みに出て月拝むチマの母

  大山も姜(カン)もわが名よ賀状くる

  冬怒涛帰化は屈服父の言

  残る燕在日われをかすめ飛ぶ

  帰化せよと妻泣く夜の青葉木菟


 ともあれ、本誌本号より特集の一人一句を以下に挙げておこう。


  土佐酒や鯨飲み干す四方の闇       吉田 類

  走る子よ凧の上るがうれしさに      若尾瀾水

  猟銃を手にして父の墓通る        右城暮石

  山笑ふ土佐にはちきんいごつそう     岡崎桜雲

  落人の太刀を祀りて山眠る       亀井雉子男

  野となりし国衙(こくが)を照らす後の月 橋田憲明

  塹壕の魂まとい出てすみれ草       橋本幸明

  積む雪に谺かへらず紙砧         松林朝蒼

  虎杖のぽきぽき折れる土佐ことば     味元昭次

  ころぶなといはれてころぶ夏岬      姜 琪東

  


        撮影・鈴木純一「杣なれば彼岸すぎての彼岸花」↑

2020年9月24日木曜日

渡辺信子「闇の貨車脳内鉄橋わたり行く」(第17回・ことごと句会)・・・



 第17回・ことごと句会(金田一剛名付けて切手句会・9月19日)、雑詠3句と兼題「幹」1句。今回は、愚生が今夏、府中市生涯学習センター俳句入門講座 での生徒・渡辺信子のデビュー戦だったが、ビギナーズラックというには、緻密な句づくりで、すべての句が開かれた。見事最高点を獲得、しかも2名の特選(2点)を集めていた。たぶん、照井三余と同世代であるが、詩神は若い。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。


   迷い子の心地一夜の虫すだく       渡邉樹音

   昨日まで土塊(つちくれ)だった彼岸花  金田一剛

   幹枯れて枝葉繁れる秋彼岸        武藤 幹

   月よりの使者乗る風の胸に来る      渡辺信子

   指先で秋風をひとつまみ拾う       照井三余

   三次会幹事の舌のこぼれ萩        江良純雄

   幹という幹に影あり百日紅        大井恒行



★閑話休題・・・梅木俊平「一人来て日傘をたたむ爆心地」(第51回原爆忌東京俳句大会作品集より、東京都知事賞)・・・

 応募総数1026句から、各賞が選ばれ、本来ならば、原爆忌東京大会として、8月16日(日)に、北とぴあで行われるはずであった大会と記念講演・能島龍三「戦争のリアルを見詰めて」は、中止になった。選者は43人、愚生が特選に選んだ句は、


   広島のがらんどうなる施餓鬼かな     片山一行


であった。ともあれ、以下に各賞を記しておこう。


  いない人ばかりの写真ひろしま忌   三浦二三子(現代俳句協会賞)

  あじさいの海の昏さよ兵の墓      飯田史郎(第五福竜丸平和協会賞)

  原爆忌どの子も空を青く書く      神 春雷(東友会賞)

  非常階段降りても降りても爆心地    粥川青猿(東京新聞賞)

  人間に影あるかぎり八月来      石原百合子(新俳句人連盟)

  噴水の直立不動戦あるな        波切虹平(口語俳句協会賞)

  八月黙祷いのちあるものマスクして  田中千恵子(平和を愛する俳人懇話会)

  ひろしまの日を花束のように抱く   渡辺をさむ(全国俳誌協会)  



         芽夢野うのき「藤棚にふいに鳥来る帰り花」↑

2020年9月23日水曜日

広瀬ちえみ「山藤は誰のものでもない高さ」(「杜人」通巻267号より)・・・

 


 「川柳杜人」通巻267号(川柳杜人社)、特集は広瀬ちえみ句集『雨曜日』。執筆陣は荻原裕幸「雲曜日のピクニック」、樋口由紀子「山藤の高さー『雨曜日』を読むー」、月波与生「沼、各種取り揃えております、なかはられいこ「なにもの?『雨曜日』を読む」。まず荻原裕幸は、


 (前略)柳人の関心の中心は、大会や句会にある、と言われて来た現代の川柳の世界で、三冊の句集を刊行するというのは、広瀬が、単純に、一句の川柳が、選者によって選ばれるかどうか、にとどまらず、トータルで読んだときに、感じることのできる、世界観、にこだわっているのだと思う。


 と述べ、樋口由紀子は、


(前略)川柳は同一平面上で意味をひねったり、ずらしたりして、言葉同士の関わりの面白さを表現する文芸である。意味の流れを途中で切り、ひっくりかえすことによって、言葉の旨味やコクを出して、日常の勘所を突く。『雨曜日』には、その仕掛けが随所にあり、意味の不思議さや可笑しさが堪能できる。ちえみ独自の語り口で、おかしくせつなく、飄々と軽々と川柳の本道を見せる。固有の抜け感を含ませながら、読み手の心を開く。言葉は使い方によって、置き方によって、組み合わせによって、どうにでもなることを証明する。川柳がわからなくなったら、まっさきに読めばいい句集である。


 と言う。あるいは、月波与生は、


 (前略)  くちびるを描けば「ああ」と言葉持つ

 があるが、「沼」とは、言葉をもたないものたちのしぐさを言葉に変換したものの総体であり、この句のような心象風景こそが広瀬ちえみの川柳世界なのだと思う。(中略)

 一句一句に仕掛けと企みが施されていて、どの沼もまったく違う出口に続いているようだ。


 記している。また、なかはられいこは、冒頭で、


 以前、わたしは「広瀬ちえみという人はつくづく不思議な人である。あどけないのか、鋭いのか、天然なのか、理性的なのか、さっぱりわからない。たぶん、ぜんぶだ」と書いたことがある。その印象はいまも変わらない。というか、ますます強くなる。そんなひとの作品が集まった句集なんである。


 と述べている。「杜人(とじん」は、あと一冊で終刊するという。ともあれ、本誌本号より、同人の一人一句を挙げておこう。


   ウィズコロナウィズ災害 ウィズ核     鈴木節子

   あの日の太陽 無言館出口         加藤久子

   うなぎの「う」肩のあたりに骨がない    鈴木逸志

   言っておくけど売れ筋のツノらしい    広瀬ちえみ

   神様が大きな椅子を持ってゆく     大和田八千代

   つながらぬ切れているのがわかる日々   佐藤みさ子

   熊が出て呼ぶに呼べない猫のクマ      浮 千草

   則本がいて楽天のワンチーム        都築裕孝



    染々亭呆人、獺祭忌に「しきしきとしきのしきなくきりぎりす」↑

2020年9月22日火曜日

森武司「祭太鼓夜どおし毀れた村叩く」(『昭和行進曲』より)・・

 


 森武司『昭和行進曲』(球俳句会)、森武司の来し方を一本にまとめた本で、「豈」同人のわたなべ柊が贈ってくれた。書中、「追憶の人・恒星さん」が巻末に収められている。著者「あとがき」に短いながら、そのあたりの事情が記されている。それには、

  

 「球」へ連載したものをまとめました。

「昭和行進曲」は、あの戦中・戦後の時代を生き残った人も少なくなりました。生き残った者の仕事として書きました。

「追憶の人・恒星さん」は、恒星さんに親しく付き合って頂いたお礼のような気持で書きました。


 とある。恒星さんとは、杉本恒雄のことで、昭和49年1月に南国市長となって初登庁したとあった。各想い出のエッセイの最後には、必ず著者の一句が添えられている。体裁としては俳文集である。ここでは「海軍」(2)を以下に抄出して紹介しておこう。土佐弁がいたるところにある。


 (前略)「おい、森。矢崎が今日の野外訓練で銃の遊底を紛失したぞ。全員罰チョクを食らう。よその部隊へ盗みにいくぞ。」

 矢崎は薩摩隼人にしては「きつかねぇ。」が口癖のへこたすこい兵じゃった。森は班のリーダー格で市商の一年上から来ていた。森と私は隣の兵舎にもぐり込んだ。(中略)私達はドロボウをした。海軍では人間の生命(いのち)よりも員数が大切にされた。何しろ天皇陛下から下賜された銃である。

 ある日白い六尺の褌(ふんどし)を物干場に干した。乾いた頃物干場に行った。無い。私の褌が無い。私は他の隊の物干場に走った。そこらにぶさ下がっている何枚かの褌の中から一つをひったくると、ポケットにねじ込んで走った。私は又ドロボーをした。しかし、褌といえど天皇陛下か賜わった官物である。無くしたらただでは済まないのである。(中略)

八月十五日。(中略)

「戦争は負けたぞ。終ったぞ。」

と言った。その夜上官は、

「米軍が上陸して来る。貴様達はあの白虎隊にならって短剣で刺し合って自決じゃ。」

私は隣の菊間に、

「おい、菊間、貴様と刺し合うて死ぬか。」

と言うと、菊間は青い顔をして、

「死ねるだろうか。」

と言った。

翌日校庭に集合した私達に校長の中将は、

「七度生まれ代わって鬼畜米英と戦おう。」

と訓示した。

品川の海軍経理学校は、東京湾に面しており、水辺に沿った校庭には、月見草が黄色に乱れ咲いていた。

  海軍亡び長い老後の月見草


また、「追憶の人・恒星さん」の中には、


(前略)そんな恒星さんと前衛現代派の闘将兜太は初対面であったと思われるが、同年輩の二人は意気投合し盃を交わした。この夜も恒星さんの周りに『壺」の美女が何人か侍(はべ)っていた。

 ここからの話は又聞きの又聞きで、真偽の程は保証しない。兜太も五十代、若かった。酔った兜太が『壺」の美女の一人に抱きつこうとした。とたんに美女の平手が兜太の頬をパチンとぶん殴った。

「兜太!土佐の女(おなご)をなめたらいかんぜよ。」

兜太は東京へ帰って「土佐の女は怖い」と言ったとか言わざったとか。兜太を殴った美女は誰であったかわからないが、私は勝手に、それは山本佐保さんであると決めている。

  曳きあるく影にとどめの稲光    佐保

(中略)佐保さんは私のエッセイの終るのも待たず急逝した。まだ三十才代の若さであった。恒星さんも『壺』の人達も慟哭した。

ともあれ、集中より、森武司のいくつか句のみを挙げていこう。


   遠ざかる修羅と昭和と春の汽車    武司

   望郷ののっぺらぼうの青空港

   粥釣(かいつり)の一人シベリヤの木になった

   鯖鮨を食いたいと言い戦死せり

   まっすぐに征きし兄らよ春の雲

   イギリス兵芋の天麩羅食わざりき

   一点の野火へ凝視の目の熱く

   星は子らの瞳(め)しくしく痛む鉄筆胼(だこ)

   童女らが描く教師の冬の鼻

   小砂丘と思うこおろぎ鳴いている

   

森武司(もり・たけし) 昭和三年、高知県生まれ。

   


  撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑

2020年9月21日月曜日

田中裕明「小鳥來るここに静かな場所がある」(「静かな場所」第25号より)・・




  「静かな場所」第25号(発行人 対中いずみ・編集 和田悠)、連載の記事は、柳元佑太「田中裕明と水無瀬」(「田中裕明論(3)」)と田中惣一郎「扇風機のとまるとき」(「わたしにとっての田中裕明(2)」)。まずは、柳元佑太の締めは「後鳥羽院と裕明の作風の類似」で、


 (前略)つまり、裕明らが登場した一九八〇年代というのは、俳句における技術が頂点に

達していたという意味で「新古今的」だったのではないか。(中略)

 そういう時代の中で後鳥羽院と裕明がことさら優れていたのは、彼らがその自身の詩人としての「声」を犠牲にしなかったからなのではないか。後鳥羽院に指摘される「帝王ぶり」という、いわば彼の上皇という特権的な身体性に根差した「声」こそが、藤原定家ら他の宮廷歌人を寄せ付けぬ特質だったし、裕明の他の昭和三〇年代の俳人と比べたときの特質も、時空を感じさせるゆったりとした伸びやかなその「声」だったように思う。技巧の時代における「声」の詩人としての類似を、彼らに見いだしたいのだ。だから、裕明が後期になると句づくりが平明になる現象は、帝王の小唄ぶりよろしく、「声」が現れ始めるのだと考えてみると、何やら合点がいくし、さらに彼を愛することが出来る気がする。


 という。一方、田中惣一郎の結びは、


 〈たはぶれに美僧をつれて雪解野は〉がある種の幻想的風景を描く一方で実体感をもって読まれること、俳句における幽玄とはこれかと見る間に邯鄲の夢よろしくその世界は儚く見失われてしまう。俗に傾きがちな俳句において、まったき聖のこの詩情を何ゆえ愛さずにいられようか。


 と両者とも、その愛し方について語っているのは、偶然でもなさそうである。ともあれ、本誌本号よりの一人一句を挙げておこう。

  

   霾るや華表に龍と鳳凰と       日原 傳

   南風吹くあふられてくる雨の粒    和田 悠

   空蟬のそこだけ雨のかからなく   対中いずみ

   ほうたるや背文字入らぬ薄き本    満田春日

   菜の花畑に最後までのこる人     森賀まり 

 


★余白つれづれ②・・・安井浩司「草露や双手に掬えば瑠璃王女」(『烏律律』)・・・

 イタリア。ヨーロッパ中世。『神曲』を著わした詩人ダンテ。この『神曲』「地獄変」を現代日本に俳句で著わしたのが句集『烏律律』です。集中の文学的地獄編が冒頭の句、

  草露や双手に掬えば瑠璃王女         浩司

そして巻末の句、

  行く雁にわが涙して人間(じんかん)や    浩司

この二句の救済に支えられた美しいポエトリーの句集です。

                           ー 救仁郷由美子 -



2020年9月20日日曜日

野中亮介「閨抜けて遠く狐となりて鳴く」(『つむぎうた』)・・・


  野中亮介第二句集『つむぎうた』(ふらんす堂)、ある意味で待望久しい句集かも知れない。「あとがき」に、


(前略)そんな私を寝かしつけるのに決まって母が、「がじゅまるさん、がじゅまるさん、つきがでました、まんまるな、おひげのばしてきょうもまた、よいこのゆめにいきましょう」と唄ってくれました。後でこれは台湾に多い「がじゅまるの樹」を詠ったもので、織を教えてくださった台湾のお婆さんが口ずさんでいた紡ぎ唄だと母から聞きました。この唄にはまだ続きがあったように思いますが、(中略)句集名を考えてた折、自然とこの唄が思い浮かびそのまま名付けることに致しました。(中略)

 今、私は福岡で「花鶏」という小さな結社を作り身ほとりの仲間と句会をする幸せに恵まれておりますが、仲間には野に出て、実際、呼吸している季語に触れるように常々勧めています。季語は歳時記にあるのではなく、自然の中にこそ息づいているのだと。そして、その声を実感することで何倍にも人生が豊かに幸せに感じられるようになるのだと。


 と記している。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。


  山出づる真水のこゑや初硯        亮介

  雪礫雪ちらかして月のぼる

  登り窯火を噴かぬ日の蟻地獄

  天仰ぐ撃たれし兵も冬の木も

    悼 林翔先生

  喪心の定まつてきし葛湯かな

  銃眼を塞ぎにかかる蜘蛛の糸

  清明や四恩足りたる鳥のこゑ

  母のほか汗して母の柩出す

    悼 伊藤通明先生

  鬼胡桃てのひらにもう脈打たず

  雁や北の擦れたる羅針盤

  父が箸取ればみなとる青簾

  釘抜いて板に戻りぬ十二月

  風船の子に飽きられてより萎む

  綿虫や遠弟子として生きて来し


 野中亮介(のなか・りょうすけ) 1958年、福岡県生まれ。

 


        
 芽夢野うのき「炭坑節踊る百歳けいとう花」↑

2020年9月19日土曜日

山本つぼみ「星涼し屈託の些事明日へと」(「阿夫利嶺」9月号より)・・・

           
            

 「阿夫利嶺」9月号(阿夫利嶺俳句会)、今月号の連載に、藤井とり「-鳥・とり176ー/谷戸山公園のオオタカ」があって、さらに「『とり・トリのおはなし』(藤井とり著)余滴」の一枚が挟み込まれていた。その説明文に、

 野鳥の会の私の知り合いが新型コロナで籠っている間に鳥の体重を食べ物や生活用品と比較した、とても分かりやすい表を作ってくれました。

鳥を見る時の参考にして下さい。

 とあった。具体的だから、愚生のような鳥観察の素人にもよくわかるし、なじみの鳥を探してみると、けっこう面白い。。例えば、1番目の欄には、鳥の名前は「キクイタダキ」ー「体重」5グラム・「比較」塩小さじ一杯、と記され、6番目の欄には、「スズメ、ニュウナイスズメ、オオルリ、アトリ」ー「体重」24グラム・「比較」単三乾電池1個、また、最後の欄の「オオワシ♀」-「体重」6800グラム・「比較」生後3~4か月の赤ちゃん。とあったりするのだ。ほかにもう一例をあげると、「アオバト、カササギ」-「体重」240グラム・「比較」牛乳瓶1本、という具合である。言ってみれば、体重を表すのに、比較された物が面白いということだろう。比較物には、「イチゴまたは金柑1個」「ピーマン1個、白熱電球1個」「豆腐井1丁」「サッカーボール1個」「漫画週刊誌1冊」「小玉スイカ1個」などというものある。

 話を今号のエッセイに戻すと、結びには、


  オオタカは四月中旬から五月上旬に二から三ケ卵を産み、抱卵は三十七日くらい、巣立までは四十日くらいかかります。この谷戸山公園では、毎年オオタカは増えていますが、いま公園にいるのは親の二羽なのか、子供がいるのかは分かりません。

  オオタカ【大鷹】̝タカ目タカ科/体長・♂五十センチ ♀五十二センチ/体重・♂六六〇g(バスケットボール) ♀九五〇g(時刻表)/初列風切羽・十枚 次列風切羽・十一枚/三列風切羽・三枚 尾羽・十二枚


 と記されていた。ともあれ、本誌本号より、一人一句を少し挙げておこう。


  沖縄忌原風景に海の紺       山本つぼみ

  縄電車は常に単線七変化       小沢真弓

  竹夫人明暗分けし稀有の世に     古橋芝香

  山開きはなし五合目の風を聞く    宮﨑清美

  なしとげし約束ひとつ祭笛      森山節子

  疫病の世ひたに潜れり大茅の輪    横井法子

  経文に執す御蔵洞滴れり       吉里良夫

  花茨蕪村の句をば彷徨す       井沢圭一

  新緑や黒々と書す曾孫の名      内田衣江

  夕風やラベンダーの香を褒美とす  大玉ふみこ

  水差の銘は朝顔朝茶の湯       大塚和光

  峰雲の峰耀うてつとむ逝く      金行康子

  白地着てブルーグラスの歌を聴く   神山 宏

  稀有の世や自在羨しき水馬     三幤芙佐子

  国灼けてかつて日の丸額に巻く    芝岡友衛

  月光をまるごと吸ひて月見草    鈴木香穂里

  阿夫利嶺に夏至の落暉を見極むる   角田廣子

  コロナ禍の果の見えざり沖縄忌   八谷眞智子

 

         


         撮影・鈴木純一「終わるには惜しい人生秋の虹」↑

2020年9月17日木曜日

國清辰也「げんのしようこはアンダースロー種飛ばす」(『1/fゆらぎ』)・・・




 國清辰也第一句集『1/fゆらぎ』(ふらんす堂)、跋文は矢島渚男。その中に、


   秋のいろぬかみそつぼもなかりけり

 という句が芭蕉にある。(中略)この「いろ」は秋の色彩と解してもよいが、「物事の表面にあらわれて人に何かを感じさせるもの」という意味として、けはい・兆しの意味としてよいだろう。この秋のけはいをを現代物理学を学んだ國清辰也は周波数の揺らぎとして

    万物に1/fゆらぎ秋

 と表現した。(1/fはエフ分の1と読む)。果敢な試みと言って良い。この春には

   岩盤に楔一列日の永き 

 とも詠い得た。


 とあった。また、著者「あとがき」には、


 (前略)俳句に微かなゆらぎをおもいみることがあり、また字面が面白いので、本句集所収の一句、

  万物に1/fゆらぎ秋

 から採って題名とした。


   ともあった。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。


   たましひはふぐりのあたり雪催       辰也

   破蓮の水に甍の澄みまさる

   繊月のくらきところに円冴ゆる

   冬うらら空気を撮りに行くといふ

   今生は長き戦後よしぐるるか

   秋深し己の耳は見えぬまま

   いわし雲平穏な死は仰向けに

   人間の皮は飾らず狩び宿

   跳箱の中のくらやみ春の昼

   水葬の鳥もをるべし小夜時雨

   無意識に囲まれてをり立葵



      芽夢野うのき「狐のかんざしかかげて呼べり風の鳥」↑

2020年9月16日水曜日

田中裕明「春風にからだほどけてゆく紐か」(「コスモス通信」とりあえず29号より)・・


 「コスモス通信」とりあえず二十九号(発行者・妹尾健)、いつもながら、自身の句を「句日記」と題して130句ほど毎号掲載している。記事は「『たはぶれ考』田中裕明の作品にふれて」である。


 田中裕明氏の句に

  たはぶれに美僧をつれて雪解野は

という一句がある。氏の第三句集『櫻姫譚』に収められている句である。発表当時から評判になったくであったと記憶している。ところが、この句の当時から私にはよくわからなのである。何度読んでもよく分からない。句の意味としては「まるでたわむれに美しい僧をつれて歩いているように見える雪解野は」と解すればよいのであろうか。どうもこの「たはぶれ」にと「雪解野」が私の中でははっきりしない。「たはぶれに」美僧をつれているのは「雪解野」であることは「は」止めで、雪解野を強調しているといってよいであろう。。この句の中心は「雪解野」であろう。いくら私でも「雪解野」が「たはぶれに」「美僧をつれて」「雪解野」を歩いているように見える。ということまでは分かる。(中略)

ここには私の理解できなかった美的世界がひらけている。(中略)だがそれはここでは言語化されないで可視化されないで、句の背景にあって、この句を包んでいる。それは私流にいえば、ひとつの唯美的世界ともいってよいものであり、和歌的世界をかかえているものといえるであろう。つまり和歌的世界を換位したものー俳諧化である。(中略)更にいえば「たはぶれに」しているのは雪解野であるが、それは「美僧をつれて」いることによって春の道に難渋ささえ浮かばせる。(中略)だが、「たはぶれび」と置いたとき、すでに和歌の情趣は俳諧化されている。僧侶の中でも「美僧」ははるかに中世的である。美僧ということになればもっと古い歴史物語すらもっている。そうした和歌的世界を「雪解野」の下五に帰着させたとき、作者の美学は和歌の情趣よりも、俳諧の「たはぶれ」に置き換えられたのである。

 いささか長い引用になったが、本来であればすべて引用したかったが、許されよ。他に言及された田中裕明の句は、「西行忌あふはねむたきひとばかり」「いまごろの冬の田を見にくるものか」「春風にからだほどけてゆく紐か」

 ともあれ、以下に妹尾健の句日記より、いくつかを以下に挙げておこう。


  緋目高群れなしていつか離れ去る       健

  ビール飲むきのうのごとく夜は進む

  大昼寝うつろのままに世に帰る

  父の日の父となりても父恋し

  サングラスとればそのまま教え子よ

  サボテンに近づく勇気なかりけり

  日盛りやわれに終生資本論

  日盛りのひとりの道を坂のぼる

  むぐら生えてものみな高く大河原

  陰口をささやく間合い藍浴衣



★余白つれづれ・・・安井浩司「花野くぼこの天然の母に寝て」・・・

 安井浩司のこの一句(上掲写真色紙)。子守歌です。愛おしい子への「ねむれ、ねむれ、母の手に。ねむれ、ねむれ」の子守歌の記憶が俳句になったのだと思う。

                               ―救仁郷由美子―



2020年9月15日火曜日

森田智子「江戸風鈴吊し人生上の空」(『今景』)・・・



  森田智子第5句集『今景』(邑書林)、平成24年からの9年間の作品305句を収載。著者「あとがき」には、


(前略)今まで、歴史の流れの中の自分の居合わせた時代の今に拘って俳句を書いてきましたので「今景」としました。

 初学の西東三鬼から、生の証である俳句を学びました。これからも、どのような状況にあっても、生の証を書き続けたいと思います。


 とあった。装丁はたぶん、記されてはいないが、邑書林社主の島田牙城だろう。カバー、扉に使われている写真が、カバー=子供のいたずら(武庫の荘・中田公園にて)と扉=真似る大人のいたずら(同・大井戸公園にて)である。これがなかなか良い。武庫之荘は邑書林の所在地だ。装丁は、秘かな社主の遊び心を留めた楽しみかもしれない。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より以下に幾つかの句を挙げておきたい。


  不発弾百年生きて草青む         智子

  短縮ダイヤルAで呼び出す春の風

  震災とテロの間に種を蒔く

  囀りを詰めポケットの蓋をする

  茂りたる森の奥から鼓笛隊

  給食の新米戦後七十年

  弾丸よけになるかもしれぬ貼る懐炉

  節分の進化してない鬼の面

  野遊びに紛れておりし魔女の杖

  アクセルとブレーキ並ぶ昭和の日

  憲法の日の定位置にごみを出す

  刻んでは増やすオクラの星の数

  青年の大きな靴と墓参

  霊園に立つ紅白の曼珠沙華

  コロナ禍のビルからビルへ虹の橋

  西日射すビリケンの足エアタッチ

  一つだけ鈴の音する露の玉


森田智子(もりた・ともこ)昭和13年、大阪生まれ。



          撮影・鈴木純一「合言葉うろ覚えにて秋の蛇」↑

2020年9月13日日曜日

秦夕美「道草のはじめは黄泉の蓬餅」(『さよならさんかく』)・・・

 


 秦夕美句集『さよならさんかく』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、


 もう句集は出さないときめていたので、ふらんす堂の現代俳句文庫に参加した。その後は「GA」の書下ろしだけが残っていけばいい。(中略)それがふと、仮名ばかりの題名の句集をもっていないことに気づいた。(中略)あれこれ考えているうちに「さよならさんかく」という言葉が浮かんだ。本の形は柩に似せて横長。目次は四季でも年代順でもつまらないから、「あさ」「ひる」「ゆふ」「よは」と一日の時間軸にする。(中略)「またしかく」はないだろう。

 見開き十句には同じ漢字を出来るだけ使わないよう気を付けたから、歳時記的には少しずれが生じる。だが、自分の美意識を優先した。


 とあった。全句集『五情』以後の2000句以上を厳選しての、搭載句数は299。ともあれ、以下に集中よりいくつかの句を挙げておきたい。


   冥府ともちがふさくらや山櫻     夕美

        家猫の声にはあらず芽木の空

   魂はかるくてぢやうぶ玉簾

   啞蟬にそばの雨粒まぶしいぞ

   生者より死者のしたしき大旦

   見ず聞かず信ず来世の雪の椅子

   ひとごとの柩がとほる著莪の花

   ゆきあひの空の奥処や祭舟

    国家てふ形なきもの濃紫陽花

   おいで雲おいであなたも月の塔

   円本の脱字伏字や天の川

    

 秦夕美(はた・ゆみ)昭和13年生まれ。


           「豈」44号(Who's who)・2007年 ↑

★閑話休題・・伊東宇宙卵「われて病む日のなかをゆく緑星」(「豈」44号・2007年より)・・・


 伊東宇宙卵こと伊東聖子の訃が至たった。昭和7年生まれ。享年87。昨年8月に亡くなられたとのことだった。心不全。「豈」63号を、何とか本年中には発行をするという意気込みで、いよいよの原稿鶴首の督促状を出したところ、長女の方からの返信をいただいたのだ。本人の意向もあり、一切は知らされなかったという。詩歌句のママさんでもあった。哀悼。

 伊東聖子の主要著書は、句集『永劫回帰』、小説『新宿物語』他、歌集『透視』『睡蓮曼陀羅』他、評論『女の系譜』『女と男の時空』など。



         芽夢野うのき「遠くかみなり琉球朝顔仰ぐ」↑

2020年9月10日木曜日

翁「しら菊の目に立てゝ見る塵もなし」(「禾」第7号より)・・




「禾」第7号(編集室 折井紀衣)は、今号から、蕪村研究者の藤田真一が「禾のふみ」と題して「菊の挨拶」を執筆している。「あとがき」には、

 「菊」の字に訓読みはなく、漢字音は和歌によまない。重陽の宴の宮廷行事などがあって歌われるようになったのか。ことばからも、菊が日本固有種でないことは明白で、肉、梅、馬などと同様。
 何気ない疑問を持って草する、そんな小文を心がけたい。

 とあって、今後の連載にも興味深々だ。ブログタイトルにした「しら菊の目に立てゝ見る塵もなし」芭蕉(追善之日記)の句には、

 塵ひとつない清楚なおもむきがよまれている。もちろん、園女の人柄や挙措を賛美した挨拶のく句である。七年前、初対面のときの印象は、いっときのものではなかったのだ。この発句にはじまり、九吟歌仙を成就した。ところが、話はこれで終演とはならなかった。
 芭蕉はまもなく病床を離れることができなくなるも、俳諧への執念は尽きることがなかった。十月八日、そんななかでよまれたのがこの一句である。

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る    (以下略)

と記している。ともあれ、同誌同号より、以下に一人一句を挙げておこう。

   八月や石垣りんの「崖」を読み       中嶋鬼谷
   満月の発条(ばね)に身体を預けたる    川口真理
   むかご落つまた落つ山は晴れてゐる     折井紀衣



★閑話休題・・・染々亭呆人「颯々と弓引く人の凛々と」・・・・


 愚生の先輩スジに蕪村大好き、蕪村を語らせたら、何時間でも話し、聞く人はかならず辟易とする人がおられる。当然ながら、そのお方から、何度、藤田真一の名を聞かされたことか。そのお方の恩師らしき人は、平家物語の権威ともいうべき武久堅らしい。先日も便りには、

 昨晩のNHKテレビ「チコちゃんに叱られる」に藤田真一さんが出演。まさか、あの番組で蕪村など取り上げるはずもなかろうとおもっていたら、「にらめっこ」の解説に出てきたのです。平家物語に出てくる平清盛の故事から説き起こしての解説。蕪村には関係ない話でした。

 としたためられてあった。染々亭呆人の読みは「しみじみ亭」らしい。呆人は十字架の人とも思えぬ下ネタの人ですが、これが、若き日からの吉永小百合ファン。よって、写真と句をも贈ってくれたのだが、その添え句にも「さ」「ゆ」「り」が詠み込まれているという按配である。ここまでくると、句の出来などは二の次、三の次である。
 上掲写真の句には、従って、頭に「さゆり」が詠み込まれているのであった。
  
  颯々と
  弓引く人の
  凛々と      呆人

 また、句の用例は、「家隆は詞ききて颯々としたる風骨を詠まれたり」(正徹物語)。現今の風俗に例えれば、吉永小百合の写真(上掲)のような姿態を言う。とも記されていた。



     撮影・鈴木純一「世の中はへくそびんぼうこがねむし」↑

2020年9月9日水曜日

柿本多映「炎昼へからだを入れて昏くなる」(『拾遺放光』)・・




 高橋睦郎編・柿本多映句集『拾遺放光』(深夜叢書社)、序は「小序」と題して高橋睦郎。全文を以下に引用しよう。

 柿本多映さんの句は他の誰の句にも似ていない。多映さんの句自体についても、どの一句も他の句とは似ていない。多映さんはつねに最初の一句を吐く俳人なのだ。『柿本多映俳句集成』の既刊七句集の一句一句との一回づつの出会いを愉しんだ後、改めて楽な気持ちで拾遺に対った。結果は七句集に劣らぬ光を放つ句との衝突の連続で、そのつどしるしを付け、さらに厳選して百句に余った。拾遺放光と名付けるゆえんだ。
  
 また、著者「あとがき」には、

(前略)改めて庭をみると、家居の私を癒し続けた名も無い草花やどくだみの白い花は、螢袋や捩り花にとってかわり、おなじみの蜂は相変わらずすぐ傍を通り過ぎ、カマキリの子はかろうじてはなの茎をよじのぼり、蜂は新たな巣作りに励むといった具合で、彼らは変化する自然に身をまかせ行動しているのだった。この小さな営みこそすべての生命の源であるという当たり前のことを、改めて思う自身に愕然としている。それはまたどこかで私の作品と繋がっているとことをそっと願いながら。

 と、あった。愚生は、集中の、

  遮断機の降りしあたりのすべりひゆ     多映

の句には、永田耕衣の、

  踏切のスベリヒユまで歩かれへん      耕衣

 の句を思ったりした。遠い昔のことだが、須磨の耕衣宅の近くの坂に踏切があったように思うのだ。それと、かつて、吉岡實が『耕衣百句』を編んだことが、ふと、愚生の脳裏をかすめたからかも知れない。ともあれ、以下に集中よりいくつかの句を挙げておきたい。

  ピアノ鳴る家や西日の鬼瓦
  水にして壺中の春も見飽きたり
  老人をいぢめつくして野の在りぬ
  翼欲し十万億土に雪降れば
  分け入らぬ山こそ思へ冬の鳥
  いなびかりこの世の際に鯉眠り
  春昼の畳の芯が浮いてゐる
  魔の山も仏の山も雪迎へ
  ひとまづは棒を跨ぎて去年今年
  どうしても記憶が曲る蝉の穴
  陽炎を跨いで入る非常口
  
 柿本多映(かきもと・たえ) 1928年、大津市圓城寺(三井寺)に生まれる。
 高橋睦郎(たかはし・むつお)1937年、北九州市八幡に生まれる。



         芽夢野うのき「キバナコスモス神人一如の色灯す」↑

2020年9月8日火曜日

善野行「星一つ青く真闇に澄みゐたる」(『聖五月』)・・・


  善野行第一句集『聖五月』(邑書林)、懇切な序は山田六甲。その中に、本集名にちなむ句について、以下のように記してある。    

  教へ子に母の面影聖五月 

  俳人は代表句が一句あれば幸せである。代表句とは、決して名句でなくてもいいが、善野行の句は?と聞かれたら、「聖五月の句」とたちまち口誦(こうしょう)してもらうに違いない。 この作品は教師としての日常の中にふと、女子生徒の仕草、表情が亡くした母の面影に連なり、聖母マリアに重なったにちがいない。(中略)
  歳時記の例句を探しても聖五月の季語に合致する句は平畑静塔の「鳩踏む地かたくすこやか聖五月」くらいしか見当たらないが、行は「聖五月」の季題にあらためて光を当て季語を開いた。掲句は、娘ほど、いや妹のような少女に持った軽い罪の意識などに聖五月の響きがよい。教師の内面的な狼狽がとても印象的。 

 とあった。 ともあれ、愚生の好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   万象の逆さに沈む植田かな          行   
     寝不足の目にうすものの膝頭    
  気にかかる留守電のあり万愚説  
  樟若葉一揺れ二羽の鳥を出す    
  夕暮の橋黄落に明るみぬ    
  志半ばなりしを去年今年    
  繭玉のうす暗がりを払ひたる   
  桐の花見よやと猿の隠れけり   
  遠山のなほ遠ざかる大西日   
  霖雨かな葛の向うにたぎつ音  
  たたなづく青垣や梅雨明けにけり    
  鈴虫という駅を過ぐ日の盛     
    元大阪大学事務局長・高村三郎氏、晩年脳梗塞により首から  
    下の全感覚を失うも、意識確かにて特別なパソコンにて作句、 
   「いつまでもころがっている身となれりふかむ秋」の句あり。   
  虫の闇思へば手足捥がれけり  

  善野 行(ぜんの・こう) 1957年、神戸市生まれ。  
          撮影・鈴木純一「穴まどひ最小抵抗線上を」↑ 
 
 愚生注:ブログの打ち込み、表示など、これまで通りの操作ではうまく出来なくなっていて、申し訳ありませんが、このまま、アップさせていただいています。読みにくくなっているかも知れませんが、愚生のパソコンの技術レベルでは、ここまでのような・・・お許しを・・(少しは、修正できているようですが・・」

2020年9月6日日曜日

宮坂静生「木に木魂草に草魂暮の春」(『草魂(くさだま)』)・・・




 宮坂静生第13句集『草魂(くさだま)』(角川書店)、著者「あとがき」に、

 俳句を続けてほぼ七十年、出会いがすべてであった。近年、多くのかけがえのない人を送り、気が付けば傘寿。しかし、私はいまだなにごとも途上の思いが強い。多分生涯、途上感を持ち続けるのではないか。
 俳句とはなにものか。わからない。ただ、掴みどころがない怪物にとり憑かれた思いである。芭蕉は「笈の小文」でそれを「これが為に破られ」といっている。私も俳句だけが残ったことは身に沁みてわかる気がする。(中略)
 若い日に読んだ和辻哲郎の青春の書『ゼエレン・キエルケゴオル』は大方忘れた中で、その序にある「最も特殊なものが真に普遍的なものになる」の一言がいまでも頭に残っている。著者とはちがう意味で、すべて一回の出会いが普遍になる。そんな「一回の出会い」を大事にしたいとの思いがいよいよ強い。

 とあった。また、書名に因む句は、「那覇四句」の前書のある句の中の、

  草を擂りつぶし草魂沖縄忌       静生

 であろうが、愚生の心情は、ブログタイトルにした「木に木魂草に草魂暮の春」の句に傾斜する。この句の前ページに「核に核もてする愚考桃の花」の句も置かれているが、やはり、ブログタイトルに挙げた句の方に、愚生は傾斜する。ともあれ、愚生好みになるが、集中より、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

  (みひら)くは遠くが見えず敗戦日
     悼 鳥海むねきー 一月六日
  真夜中に鵲(くぐい)の翔(た)つを目のあたり
  湘子忌や暗礁(いくり)の怒濤手向けたし
  「がんばつぺし」土塁に土塁積みて夏至
  化けて出る愉しみ残し朧の世
     兜太に教えられ
  鳥男(ちんぽこ)はよろしき字なり鳥帰る
  生涯に一度柩に入れば春
  雨返(あまげし)や木の吐く息が木に纏ふ
             雨返ー冬の寒さの戻り
  原発の廃炉妖怪かひやぐら
  放射能避難区域の熊注意
     悼 中村哲氏
  冬星宿井戸を掘りては祀りをり
     伊丹十三を思い
  煤逃げもゲートル巻きもやらず来し

 宮坂静生(みやさか・しずお) 1937年、長野県生まれ。




          芽夢野うのき「空よりの青き礫を柘榴の実」↑