齋藤愼爾編集『金子兜太の〈現在〉ー定住漂泊』(春陽堂書店、2500円+税)、その後記の「編集余滴」に、
主要メディアが追悼を早々とすませ、百年に一度というコロナ禍の自粛要請という生権力が発生する最中の『金子兜太の〈現在〉-定住漂泊』の刊行です。(中略)
こうした冊子こそを兜太さんは待ち望んでいた筈だとの確信が、執筆者を含めた私たち編集者にはあります。兜太さんの〈現在〉というより、執筆者自らの〈現在〉を問う姿勢が、どの論考からも熱く伝わるであろうことを約束いたします。
とある。350ページの大冊であることもさることながら、今後、金子兜太を語るとすれば、逸することのできない資料となるだろう。かつて、いわゆる俳壇が、まだかまびすしかった頃、金子兜太の作品を問い、自らの句作を問いながら、31歳で夭逝した中谷寛章の金子兜太論(「元の木阿弥ー社会性論議にふれて」〈「渦」1969年4月・「社会性から自然への成熟」〈「俳句研究」1969年11月号〉)が掲載されていることは、何より嬉しいことだった。愚生らが乗り越えなければならない戦後俳句作家の高峰への批評が出現しはじめた、最初期のものである。若き日の坪内稔典も続いていた。その後、たまたま愚生も、本書に収載された「金子兜太の挫折」(「俳句研究」1982年6月号)を執筆した。すでに38年前のことになってしまった。あるいは、また、多くの対談、例えば、安東次男と金子兜太「孤心と連帯」(「寒雷」1974年9月号)、小沢昭一との「戦中・戦後、生き方の原点」(「エコノミスト」1983年4月19日号)など、今となっては貴重な対談も多い。貴重な資料満載の一書である。手に取ってみられたい。
ところで、愚生も「兜太読本」を試みたことがある。そのとき金子兜太は「角川からは絶対そういう話は来ない」と愚生にオーケーを出した。その後、兜太全集も出、角川「俳句」にもたびたび登場するようになる。まさに隔世の感であった。その承諾の旨の葉書(下写真)をみると、1995年9月5日の郵便日付がある。25年前だ。当時、安西篤、武田伸一両氏には、特にお世話になったが、愚生の非力と職の現場を変わるなど、ついに愚生の手では実現しなかった。申しわけないことだった。
ともあれ、兜太の句を「95歳自選百句」のなかから、いくつかを挙げておこう。
白い人影はるばる田をゆく消えぬために
湾曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
暗黒や関東平野に火事一つ
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
夏の山国母いてわれを与太という
左義長や武器という武器焼いてしまえ
おおかみに蛍が一つ付いていた
津波のあと老女生きてあり死なぬ
金子兜太(かねこ・とうた) 1919~2018年、享年98.
★余談・・「俳句研究」高柳重信から愚生への督促状・・・
じつは、上掲本所収の愚生の論「金子兜太の挫折」は、原稿締切り日が過ぎても、何の連絡もせず、原稿が遅れていたのだ。今思えば、こんな若造に、丁寧な督促状を出すことになって、愚生なら「まったくどうしようないヤツだ!」くらいに思ったはずだ。にもかかわらず、励ますように、「奮発して」とある。愚生は、申し訳なく、遅れに遅れた原稿を、荻窪駅前にあったマンションの高柳重信宅まで届けた。まだFAXも無い時代だった。
青磁碗 銘「満月」↑
★閑話休題・・染々亭呆人「茶席にも覆輪の月まろく出づ」・・・
染々亭呆人の便りが面白いので、無断で以下に引用しよう。
撮影・鈴木純一「其ノ月ㇵ呑マバ不死ナリ構ㇵヌカ」↑