2017年6月30日金曜日

横山康夫「すすき野にもれなく天は日を与ふ」(『往還』)・・



 横山康夫第4句集『往還』(書肆麒麟・私家版限定300部)、収められた句は238句、制作時期は2007年から2015年。そのうちの第二句集『櫻灘』は多行句の作品である。「あとがき」に著者は記す。

 句集名『往還』は集中の一句「往還や夕かなかなのひとしきり」から採つた。(中略)
生きてゐれば深い悲しみにとらはれることもあるが、そこに沈んでしまはなかつたのは俳句を書くことでわづかな希望のやうなものを見出してゐたからだらう。俳句を知つて半世紀、今や書くことが生きることといふやうな思ひの中にゐる自分に気づく。

 愚生が横山康夫と会いまみえたのは、代々木上原の公民館で行われていた「俳句評論」の句会に初めて出席したときである。句会が終わるとすぐ近くにあった「俳句評論」の発行所(髙柳宅)まで行った。こうして初めて同時代を共にしてきた澤好摩、横山康夫(その頃は孤子と名乗っていたような・・・)と出合ったのだ。十数人の句会だったが、そこで折笠美秋、三橋敏雄、三橋孝子、寺田澄史、松崎豊、三谷昭、牛島伸、大岡頌司など、もちろん髙柳重信、中村苑子にも会った。女性では太田紫苑、津沢マサ子、松岡貞子、沼尻巳津子などにもまみえた(まだ、高校生だった髙柳蕗子にも会ったように思う)。しかし、愚生はしばらくして句会に足を運ばなくなっていた。横山康夫は大学を卒業すると故郷の大分にもどり教師となった。
 愚生は、結局「俳句評論」に同人参加することはなかったが、そこで会った多くの人たちの恩恵を被っていることは確かだ。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  はじめに笑ふ山におほかた名はあらず     康夫
  大暑ならむいつか死に水いただく日
  橋上の乏しき春燈(はるひ)あまざらし
  漁火やいさらいさらに星は消え
  てのひらを沈めて浮かす新豆腐
  汝が死後の山河吹雪いてゐたりけり
  春の虹水の匂ひをただよはす
  昼顔の記憶は傷みつつありぬ
  カンナ燃ゆ吾子死なしめし日の来たり
  父となりたることはまぼろし蟬しぐれ
     
横山康夫(よこやま・やすお)、1949年、大分県生まれ。




2017年6月29日木曜日

草田男「みちのくの蚯蚓短かし山坂勝ち」(『中村草田男』)・・




 鍵和田秞子『中村草田男 私の愛誦句鑑賞』(春秋社)、著者「あとがき」によると、

 本書は俳誌「未来図」の昭和五十九年五月号から平成七年一月号まで、十余年にわたる連載「中村草田男俳句鑑賞」をまとめたものである。ほぼ九十回ほどになり、採り上げた句は九十六句(一八四~八八頁の五句は、『萬綠』の昭和四十九年六月号および八月号所収)。他に引用句をふくめるとかなりの数になった。

 とある。加えて「Ⅱ草田男俳句の世界」に六編の草田男に関する、論とエッセイが収載されている。いずれも師の草田男に対する親愛に満ちた内容である。それでも、

 私が主宰誌をもちたいと申し出た時、『萬綠』誌の幹部同人たちからの猛反対を受け、結局私は「萬綠」を退会し、私が手ほどきをした初心者たちとともに新たに「未来図」を創刊。新たな道を踏み出した。その時に初心の人にも判り易くと思い、連載を始めたのが本書にまとめた草田男俳句鑑賞の稿である。

 という。
 というわけで、本書はどこから読んでも素直に読める。倦むところはない。

 ところで、余談だが、愚生は東京に流れてきた21歳のとき、「萬綠」の句会に一度だけ出席したことがある。たしか吉祥寺駅近くの武蔵野公会堂で行われていたと思う。参加者は百人近くはいただろうか。その折り、草田男を遠望した。若かった愚生は、その後も「風」「石楠花」などの句会に一度だけだが、たずね歩いた。どこも大勢の句会で、少人数で、若くても勉強になるような句会はないかと、俳句研究社に電話をしたのが縁で(十数人の句会だが来てもいい、というので)、代々木上原での「俳句評論」の句会に出席する切っ掛けになったのだった。かれこれ46,7年は前のことになってしまった。
 思えば、愚生が一番最初に読んだ俳句入門書は、たしか角川文庫の中村草田男「俳句入門」だったのだ。
 以下に鍵和田秞子の草田男愛誦句からいくつかをあげる。

    冬の水一枝の影も欺かず   草田男
    勇気こそ地の塩なれや梅真白
    木葉髪文芸永く欺きぬ
    浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」
    読初や大草原と海を恋ひ






2017年6月28日水曜日

鈴木砂紅「三島忌のうどんはおかめがよろしかろ」(『偐紫今様源氏』)・・



 鈴木砂紅第一句集『偐紫今様源氏(にせむらさきいまようげんじ)』(文學の森)、著者「あとがき」には以下のようにあった。

  収録の句は平成十六年から二十七年まで、年代は関係なくテーマ別の五章立てとした。「青丹与志昭和手鑑」は、現代俳句協会年度賞受賞作品賞受賞作「あおによし」を中心に構成。平成から昭和を照射した作品群である。
「黒日傘婦女庭訓」は、自分も含め「おんな」を見据えた作品を多く並べた。 
「紅柄格子独吟句合」は文字通り二句ずつの句合せ。芭蕉や其角には及ばないが、両句の勝敗を楽しみながら読んで頂ければ幸いである。
「金鯰AⅠ艶聞」は平成から未来へのイメージを構成した。「偐紫今様源氏」は『源氏物語』を下敷きにした作品だが、題詠という物語の中を歩きながら作った「吟行句」として読んで頂きたい。 

 つまり、本句集の読み方については著者からの希望が述べられているので、そのように読み、楽しむにしくはないだろう。
 ブログタイトルにした句「三島忌のうどんはおかめうどんがよろしかろ」は冒頭「青丹与志昭和手鑑」の章のものだが、第五章では著者みずからも『源氏物語』を下敷きにしたと述べているように、この句は、明らかに攝津幸彦「三島忌の帽子の中のうどんかな」を下敷きにしたパロディ―であろう。鈴木砂紅には、こうした他の句を下敷きにしたと思われる句が結構ある。他にも、攝津幸彦の「南国の死して御恩のみなみかぜ」を下敷きにした砂紅「母語論語死して呉音のみなみかぜ」、金子兜太「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」を、砂紅「湾曲し仮称し僕のへぼきゅうり」などである。
鈴木砂紅にとっては、こうした句のコラージュこそがオリジナルなのかも知れない。
ともあれ、いくつかの句を以下に紹介しておこう。

   春風を着せて黄泉路へ送られよ    砂紅
   竹夫人紅差指はもういらぬ
   八月十五日人さし指が我をさす
   着ぶくれて監視カメラの前に立つ
   偏愛のリカちゃん人形更衣
        (雲隠)
   花いかだ暗渠にのまれつつひかる   
   虫の闇いのちうれしき初音ミク

「いのちうれしき」は大牧広の著書『いのちうれしき』を思いこす。



2017年6月26日月曜日

鈴木伸一「傾く原子炉支へるもののなき夏空」(『吟遊同人自筆50句選』より)・・



            未来より滝を吹き割る風来たる 夏石番矢↑右ページ


            ポストまで歩けば五分走れば春 鎌倉佐弓↑右ページ

 創刊20周年記念・夏石番矢編『吟遊同人自筆50句選』(七月堂)、「あとがき」には以下のように記されている。

 ここでいま、第七四号までのすべてを振り返る余裕はない。ヨーロッパ、南北アメリカ、アジア、オセアニア、アフリカ五大陸すべてからの俳句に和訳を付して掲載し、自分たちの俳句に、英訳を中心に、仏訳、独訳、スペイン語など欧米諸言語、中国語、モンゴル語などアジア諸国、多くの地域に広がるアラビア語などの翻訳も付け掲載した。
 このような多言語にわたる俳句交流で忘れてならないのは、俳句が国際化と言うよりは世界化した現状においては、俳句が日本で生まれ、日本語による俳句創作がやはり、世界俳句の中核であるということだ。(中略)
 日本語での創作が中核なら、東アジアとイスラム圏で独自の文化を生んできた書の文化を活用しないのもまた、浅薄な錯誤である。
 二〇一七年秋に創刊二〇周年を迎える国際俳句雑誌「吟遊」は、その祝いのイベントを、東京、今治、神戸で開催する予定で、この本に複製が収録された五〇枚の色紙は、一〇月一八日から二二日まで、東京・神田神保町の東京堂ホールで開催される。

 また、巻末には「吟遊同人自筆五〇句選一覧」が英訳(夏石番矢 エリック・セランド)を付して掲載されている。
 書影はないが愚生の知っている幾俳人かの句を以下に紹介しておきたい。

   肉体のどこか薄明りに祠          木村聡雄
   民意拒まれ苦瓜(ゴーヤー)の種真っ赤 金城けい
   海底に届かぬ声か木枯か         白石司子
   指立てて指のさびしき夏の暮       鈴木伸一
   冬瓜の芯より淡き近未来         長谷川裕 
   しびれるような未開が梔子        古田嘉彦
   祭壇の赤青黄色さびしきべろ       松本恭子 



   
   

   

 

2017年6月25日日曜日

高山れおな「麿、変?」(「現代俳人名鑑Ⅱ」より)・・



 「俳句」(角川文化振興財団)7月号でようやく『俳句』創刊65周年記念付録「現代俳人名鑑」Ⅰ・Ⅱ・Ⅲが揃った。「俳句」本誌は、愚生などは本屋で立ち読みするか、図書館で少しじっくり読むか、という体たらくなのだが、この3ヶ月にわたる付録だけは買いそろえておこうと思ったのだ。というのも、かつて別冊俳句で『現代俳句選集』(平成10年、角川書店)、『平成秀句選集』(平成19年、角川学芸出版)が出版され、現代俳人のおおよその目安がつくということがあって、資料的にも価値があるとおもっていたので、この度、約10年ぶりに、その内容を踏襲した一本が、本誌の付録ながら出版にこぎつけたというのは、良い仕事の一つといってよいと思う。ただ、いかなるアンソロジーにもあることだが、ここに収録されている幾人かよりもはるかに見事な俳人が落ちているのは残念なことではある。しかしそれは、いみじくも、草間時彦が「甚平や一誌持もたねば仰がれず」と詠んだように、いわゆる俳壇的な毀誉にしか過ぎないことだろう。
以下に仲間内のみとそしられるかも知れないが、同付録掲載の「豈」同人の一人一句を以下にあげておきたい。

    八月十五日真幸く贅肉あり       池田澄子
    海に出てしばらく浮かぶ春の川     大屋達治
    睡蓮やあをぞらは青生みつづけ    恩田侑布子
    花過ぎのフランス山を洗ふ雨      鹿又英一 
    皿皿皿皿皿血皿皿皿皿         関 悦史
    山眠る亡き人の夢見るために      関根かな
    秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか 高山れおな
    犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ  筑紫磐井
    海嶺に次の人類眠る春         橋本 直
    生きてまたつかふことばや初暦     秦 夕美
    ほんたうの恋は片恋霏霏と雪      山﨑十生
    集団的などてすめろぎのぞまず夏    大井恒行

愚生の句では、誤植と思われるが「」が抜けていたので、この場で訂正しておく。

そうそう、あとひとつ「作句心情」のコメント欄で、短く、かつ俳諧精神を顕現していたのは筑紫磐井「蒼古たる題詠の精神に、『第二芸術』の現代性を」であり、高山れおな「げんぱつ は おとな のあそび ぜんえい も/きれ より も ぎやくぎれ だいじ ぜんゑい は/でんとう の かさ の とりかへ むれう で しますーー右三句、作句信条(のやうなもの)として」であった。



2017年6月23日金曜日

四ッ谷龍「暗く邈(ふか)き声のかたまりとして生まる」(「むしめがね」No.21)・・



「むしめがね」No.21は四ッ谷龍の個人誌である(かつては、今は亡き冬野虹と二人誌だった)。特集1「中西夏之さんをしのんで」は黒田悠子インタビュー記事。ここでは特集2、四ッ谷龍句集『夢想の大地におがたまの花が降る』にのみに触れておきたい。
今号に収録した私の作品は『夢想の大地におがたまの花が降る』に収録したもの、および同時に制作して句集に入れなかったものである」(後記に相当する「ルーペ帳」より)と述べいて、約700句が掲載されている。論の執筆者は鴇田智哉「そこはかとない兆し」、堀本裕樹「韻律に在する空と誦経性」、北大路翼「重層的挑戦」、そして一句鑑賞は今井肖子、仮屋賢一、マブソン青眼、宮本佳世乃の各氏。それぞれに四ッ谷龍の句の特質をとらえて読ませる。多くは四ッ谷龍の俳句観に寄り添った論だったが、北大路翼だけは、自分の俳句観の主張をきちんと書いて、四ッ谷龍の句の在り様をよく分析していたように思う。例えば、

  なななんとなんばんぎせるなんせんす

掲出句は「な」の頭韻の一連の一句目。(中略)
非常に巧みでバランスはよいが、逆に巧さだけが目立つてしまひ成功してゐないと思ふ。頭韻で読むならば、頭韻によつて自分の語彙を越えた奇跡の一語が欲しい。正木ゆう子の〈ヒヤシンススイスステルススケルトン〉はしりとりがなければ、「ステルス」に辿り着けない必然性があった。

また、「安皿・造花あふれてリサイクル店の暑気」については、

素材、リズムともに僕好みな一句。あふれても店内を的確にとらへてゐると思ふ。一言文句をつけるとすれば安皿の「安」の一語。この一語の所為で通俗的になり過ぎる。音数は合はないがプラスチックの皿とかにして、チープ感を出してほしかたつた。

と言う具合である。なかなか濃密な一冊であった。
ともあれ、どの句を引いてもいいのだが(一句のみではなく、句の流れを読むのが相応しく思われる)、いくつかを以下に挙げておきたい。

   縄文人乗ってきてバスパンクかな    
   山百合を薄暑の裂け目とも思う
   君は一本の川だ静かに覚めている
   冬の雨鶴の膝へと吹きつけぬ
   冬の噴水小さな虹をひらきけり
   バッティングセンターの打音が夏を浄めている
   ひごくさにふれた指から黄泉へ飛ぶ
   NEXT!粘土でつくれネクタイを
   糸電話そっちの空の色は赤
   秋暑し猿は鎖をもてあそび
   ニュートンの対称式へ降るおがたま
   おがたま咲く黒猫は歯を剥き剥き行く
     





2017年6月20日火曜日

横沢哲彦「梟や頼りの母に忘らるる」(『五郎助』)・・



横沢哲彦『五郎助』(邑書林)、句集名は次の句に因む。

  吾郎助や寝つかれぬ夜は寝てやらぬ     哲彦

五郎助はゴロスケホウホウ、フクロウのこと。序文の小川軽舟はこの句について以下のように記している。

 横沢さんの自画像の秀作。何かに腹が立って仕方ないのか。あるいは家族に心配事でもあるのか、蒲団を被っても目が冴えるばかりなのだ。そんな作者をからかうような五郎助、つまり梟の声が聞こえて寝つかれないというだけでは平凡だが、たまりかねてがばっと起き出した「寝てやらぬ」の開き直りがなんともおかしい。

また、著者「あとがき」には、

 学生時代、実業団時代と運動一筋で過ごして生きて来て、五十代半ばに、運動以外のことをやりたいと漠然と考えていた時に選択したのが「俳句」でした。デスクワークを殆んど経験したことのなかった私にとって「文芸」の道は苦難以外の何物でもありませんでした。それが今日まで継続できたのは平成十年晩秋「鷹」に入会出来たというラッキーな出会いにほかならないと思います。

という。跋文の小浜杜子男は横沢哲彦の人間的魅力に筆をかなり割いている。
ともあれ、いくつかの句を愚生の好みで挙げておこう。

   品書は当字ばかりや花見茶屋
   消印の白馬思へる氷菓かな
   老舗とて養子五代や晦日蕎麦
   転げ来しものどんと火に蹴り返す
   釘付けの生家となりぬ秋ざくら
   三方に山あるしだれざくらかな
   紫陽花や母に宛てたる文の嵩
   街抜けし川の疲れや都鳥

 横沢哲彦、1942年、東京生まれ。




  

2017年6月19日月曜日

虚子「虹消えて忽ち君の無きごとし」(『虚子散文の世界へ』)・・



 本井英『虚子散文の世界へ』(ウエップ)、「WEP俳句通信」に連載されたものを一本にまとめた虚子研究の成果である。本井英はほかにも冊子「夏潮 虚子研究」を発行し続けている。それらの営為を支えているのが虚子想いの本井英のひたすらな情熱である。全12章に虚子の散文(小説)のいちいちを引用、評価を書きとどめている。虚子は写生文による小説を試みたので、いずれにもモデルが存在するらしい。となると、愚生などは俗人の下世話がついてまわるせいか、第十章「戦後の名品」の「『虹』その後」に以下のように記されると悪趣味の面白さが少し減じられるようにも思う。

寿福寺」は「ホトトギス」昭和二十三年七月号が初出。昭和二十三年四月二十二日、柏翠が愛子の墓標を持って鎌倉虚子庵を訪れ「愛子の墓」の揮毫を依頼したので書いた。その後寿福寺の墓域を虚子、柏翠、たけし、実花で訪れた。たけしがシャベルで土を掘って、虚子の墓の予定されている矢倉の近くに、その墓標は立てられた。
 女弟子へのプラトニック・ラブを、この世ならざる、夢のような物語として発想した「写生文小説」は虚子が意図したとおりの大団円を迎えることとなった。

 写生の概念そのものに、言語表現であるかぎり、フィクショナルなものを含まざるをえない。厳密な事実知らされようが、あるいはそうでなくても、所詮はテキストの面白さにこそ読者は魅かれるのだと思う。
 最後に、本書の結びに「また、実際に於いては土田由佳氏にお世話になった。記して感謝の意を表したい」の件に出会い、土田由佳、どこかで聞いた名だな・・・と、そういえば、愚生が『本屋戦国記』(北宋社)を書き、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)の企画に関わったときに、たしか北宋社社員として務められていて、社主だった渡辺誠ともどもお世話になったことを思い出したのだった。




 ところで、出たばかりの「WEP俳句通信」98号には、「豈」同人の筑紫磐井が連載「新しい詩学のはじまり(九)『伝統的社会性俳句②-大野林火(上)』」を、そして北川美美の連載「三橋敏雄『真神』考⑪-動詞多用の独自性」また秦夕美は〈特集散文的な俳句について〉「凝縮と拡散」をそれぞれ執筆している。筑紫磐井は「伝統的社会性はリアリズムの社会性とは別に、伝統的社会性としての固有の価値を持っていたようである」と、「伝統的社会性」という新概念を持ち出しての論を展開している。北川美美は動詞の多用を、三橋句の多くの例を挙げて実証しようとし、論も佳境にさしかかる感じだ(もっとも、同誌の岸本尚毅「先人に学ぶ俳句」での「三橋敏雄『しだらでん』以後」との対比も面白い)。さすがに秦夕美は「韻文体質の私にとって、『散文的である』が佳句とはどんなものか見当もつかない」とにべもない結論。
 あとひとつの余談だが、同誌の「珠玉の七句」コーナーの柿本多映の顔写真が本人ではなく遠山陽子の写真になっていた。



2017年6月17日土曜日

月犬「玉座さみし秋の蜥蜴の脚さみし」(『鳥獣虫魚幻譜抄』)・・



月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜』抄(夜窓社)、月犬こと、じつは三宅政吉の約60句ほどの瀟洒な手造り句集である。
 三宅政吉との出会いは、愚生の友人であるワイズ出版・岡田博に、装幀家として紹介されたことにはじまる。やがて、彼が俳号・月犬と同一人であり、かつ「らん」同人でもあること知った。
以下に、本集よりいくつかの句を紹介しておこう(原文は旧仮名・旧漢字使用)。句集表紙裏の献辞も併せて、

       幻を書き記せ。
       走りながらでも読めるように
       坂の上にははつきりと記せ。
       定められた時のために
       もうひとつの幻があるからだ。
       それは終はりの時に向かつて急ぐ。
                   ハバタク書より


  樽に酒満たす夜山椒魚も来よ         
  青銅(ブロンズ)の地獄の門へ蟻の列
  軍艦は濡れ半島に百舌が鳴く
  夜の鳥霧動きたる河口かな
  白鳥や未来といふは仄暗し




★閑話休題・・・首くくり栲象 (たくぞう)・庭劇場からのお知らせ・・・

先月は事情あって、公演が中止になったが今月は復活の様子、いつもながら「お知らせ」案内の前文には、彼の生活、在り様が覗える。以下に、庭劇場お知らせのメールを転載して宣伝しておく。ご覧あれ!

「石を見つけた」 
数年前のこの時期、肺気腫で二週間ほど入院しました。退院は昼間。力なく下り坂で脚を運んでいた靴底に、いきなりイモリが飛び込んで、潰してしまった。人が死んだらどこにゆくのだろうか。梅雨の入院で退院時は初夏の暑さ、ぼんやり、そんな思いを巡らせていたやさき、気が咎めたのか、イモリの逝くところにわたしむも行くのだ。と念頭したのでした。
では踏み潰したイモリの赴く処はどこなのか…。

それから数年経ちました。

この4月の28日。山梨県の韮崎市の穴山町にいきました。八ヶ岳に似ているので「にせ八ツ」と通称されている標高1、704メトルの茅ヶ岳を仰ぎ見に出掛けたのです。最寄り駅の穴山駅は七里台地の上にあります。七里台地は釜無川と塩川にけずられつて出来た台地で、あの辺りの線路は切通して引かれている。ホ―ムは底、改札口は長い階段を登らねばない。十分ほど歩くと台地の縁に出て道は急に下る。向かい合おう茅ヶ岳の裾野。その間に広がる平地には一本の街道と耕地が面々とひろがっいる。水路は高台の耕地から下方の耕地へと流れるように設置され、水はとうとうと音をたて流れていた。畦道に様々な形の石が山をなして積み上げられ、一群のなかに丸い石をわたしは目に止めた。
甲斐地方には丸石を祀るの民間信仰があることは、道祖神を度々を見て知っていました。わたしの目に飛び込んできた石は、石の祠に祀られていた丸石神と見まごうことなき、丸い石なのです。丸みは河流に転々としてその勢いで摩滅し丸くなったのではなく、これぞと託された石に、石仏を産み出すかのごとくに産み出された、人痕が施されれていた。わたしはその石を一群の石の中から畦道に運び、眼前に置き、この石の旅への一歩として一度転がした。

さてイモリとわたしの行く末の話です。石は何億何兆もの生き物の行く末の珠を宿している。わたしは夢に見たのです。その丸石が庭劇場の椿の根元でシャボン玉のような夢を次から次へと宿し飛ばしている夢を。
 
 ●開催日と開演時間
〇6月24日(土)夜7時開演
〇25日(日)夜7時開演
〇26日(休演)
〇27日(火)夜7時開演
〇28日(水)夜7時開演
〇29日(木)夜7時開演

〇開場は各々十五分前
〇雨天時も開催
〇料金→千円
〇場所→庭劇場
〇国立市東4の17の3

 電話 090 8178 7216
   首くくり栲象 




  

2017年6月14日水曜日

摂津よしこ「黄落の幹のいづれに隠れしや」(『大阪の俳人たち7』より)・・



 大阪俳句史研究会編『大阪の俳人たち7』(和泉書院・上方文庫41)には、次の俳人たちが収められている。高浜虚子(小林祐代)、川西和露(わたなべじゅんこ)、浅井啼魚(久留島元)、尾崎放哉(小林貴子)、橋本多佳子(倉橋みどり)、小寺正三(小寺昌平)、桂信子(中村純代)、森澄雄(岩井英雅)、山田弘子(黒川悦子)、摂津幸彦(伊丹啓子)。カッコ内は執筆者。序文は宇多喜代子。
 ここでは、摂津幸彦の章のみを取り上げる。
 伊丹啓子は本書執筆を一度は断り、摂津の初期中心でよければと条件を出して執筆したという。それが良かったように思う。伊丹啓子が摂津幸彦を俳句に誘った事情や、当時の「青玄」に拠っていた坪内稔典をはじめとする俳句状況が伊丹啓子の証言として浮上しているからだ。それは、愚生が知らなかった詳細が明らかにされているからでもある。摂津幸彦の若き日を彷彿とさせてもいる。例えば、同じ関西学院大学にいた摂津の風貌について以下のように記している。

 だが、摂津はそんなキャンパスの点景として見てもおかしくない風采をしていた。初会の頃の彼は、黒いとっくりのセーターに紺色のブレザーを着ていた。色は黒かったが、長身で、痩せていて、首がすっくと立っていた。話し方は鷹揚な関西弁だ。ともかく茫洋とした人物だったが、遠くを見据えるような視線が印象的だった。

愚生が摂津幸彦に会ったころはすでに恰幅がよかった(痩せていたんだ・・・)。
また、摂津と学内句会の帰路で、阪急甲子園駅へ歩いて下ってくる別の場面では、

 摂津 「このごろ神経衰弱でな。」
 伊丹 「へぇ、神経衰弱ってどんなん?」
 摂津 「たとえば夜寝るときに、冷蔵庫に苺が残ってたのと違うやろかと考え出す。そしたら、その苺を食べてしまわんといかんのと違うか、と思う。そしたら、どうしても寝られへんのや。」
 伊丹 「ふうん。」

(中略)

摂津の服装もアースカラーのジャンパーに変わったりもした。けれども彼は首が立っていたのでジャンパー姿はあまり似合わなかった。因みに、当時の坪内の服装ときたら、よれよれのズボンにジャンパーを引っ掛け、素足に下駄履き。やや俯き加減に歩く姿が立命大生にふさわしかった。立命館の校風は関学に比して庶民的だったし、学生運動も関学より過激だった。

 さらに「青玄」時代の句会とは「青玄クラブ」での句会のことであり、結社の基金で阪急塚口のアパートを借りて「青玄クラブ」と称し、地方からの宿泊と歓迎句会が行われていた。住み込みの管理人も「青玄」の独身者から選ばれたという。結果的に当時の「青玄」、結社から離れ、同人誌「日時計」を創刊した。その代々の管理人が、同人だった矢上新八、穂積隆文、坪内稔典、立岡正幸らで、沢好摩(当時)も一時期は滞在したという。また、大本義幸「すてきれぬ血族 ここにも野すみれ咲き」の句を引用して、

 大本義幸も十代の頃「青玄」に所属した。川之石高校での坪内の後輩に当たる。二十代の頃、クラブ句会にきたこともあるが、当時は住居を転々としていた。摂津の「豈」創刊に関わり、彼の最後に至るまでの同志である。

と記されている。そして、

 摂津はクラブの句会に何度か出たが、ついに結社に所属することはなかった。だから『青春俳句の60人』に彼の句は掲載されていない。句会で突飛な(悪く言えばトンチンカンな)質問をする。摂津には、場の空気を読んで和気藹々と交際せねばならぬ結社という場は所詮無縁だったのだのだろう。


 摂津の知られざる二十歳が見えてくる。興味のある方は本書に直接あたられたい。ブログタイトルの句は、摂津幸彦の母・よしこの句である。摂津よしこは「草苑」の俳人であった。摂津の好きだった映画界に進んだり、まして俳句の道に入ることは反対していたというが、息子の幸彦を亡くしたときの句は悲痛にして絶唱である。自分たち夫婦が生前に買い求めた墓に、よもや息子の幸彦が先に入ることになるとは夢想だにしなかったはずだからだ。

     十月十三日長子幸彦逝く
  秋茄子長子の逝つてしまひけり    摂津よしこ(『珈琲館』)
  黄落の幹のいづれに隠れしや




 

2017年6月12日月曜日

谷佳紀「木枯しの空真っ青なんだ厚木基地」(「碧」第9集)・・



 「碧」第9集(海程神奈川合同句集2017)、谷佳紀からの恵送である。「海程」は各地方や各県、地区ごとの合同句集がよく発行されている。それだけ、各々の地域に組織とそれを維持できる力、エネルギーを宿しているのだろう。その「海程」も金子兜太が来年白寿を迎えて、終刊すると報じられている。
 谷佳紀に最初に会ったのは、多賀芳子宅で行われていた「碧(みどり)の会」の句会だった。海程神奈川支部と同じ「碧」である。碧の会は、句会だけでなく、その時々の注目の句集が出ると、その句集の合評会が行われていた。筑紫磐井や鳴戸奈菜の句集合評会も行われた。渋谷のオニババと呼ばれていたが、それは俳句に対する熱心さと愛が吐き出させる厳しい批評の声だったのだ。
 その会で、原満三寿や小泉飛鳥雄、渋川京子、川名つぎお、中西ひろ美、早瀬恵子、妹尾健太郎、中田世禰、谷山花猿、森田禄郎などに出会った。
 谷佳紀は、「海程」が同人誌から結社になったときに一度「海程」を辞めた。その後は「ゴリラ」という雑誌に拠り、のちに個人誌「白」をだした(ある時、兜太に会ったとたんに海程に復帰した)。そして、昔からウルトラマラソンをやっていた。今号のエッセイには、そのウルトラマラソンのベテランともいうべき谷佳紀が筋肉率と肥満度が低く体脂肪率が高い、評価は寝たきりになるリスクが高い最低の三級だったというから、数値もあてにならないものだ。加えて、ウルトラマラソンの参加費の値上がりが激しく百キロで一万円ほどだったのに、今では一万八千円が当たり前だと、ブーム到来を嘆いている。
ともあれ、30数名の全員の句とはいかないが、何名かの一人一句を以下に挙げておきたい。

   貨車番号トラ五〇六九炎天       伊藤道郎
   負け独楽を抱いて少年老い易し     木村和彦
   水鳴りや日越えの蝶の数知れず     九堂夜想
   アキアカネときどき開く店であり    黒岡洋子
   タスマニアンデビル激減ジャカランダ美し 島崎道子
   辛い言葉を梅吸うように白さかな    谷 佳紀
   夏灯金泥さらに吹き零す        佃 悦夫
   三月の雲の沖ゆく赤ん坊        津波古江津
   母歩く全霊のときまんさくも      森田緑郎



   
    

  

2017年6月10日土曜日

久光良一「使いきらぬ一日がもう暮れかける」(『熱い血』)・・



 久光良一第三句集『熱い血』(文學の森)、集名は次の句に因む。

  蕾ふくらむ、まだ熱い血が残っている    良一

「あとがき」の結びに以下のように記されている。

 五十七歳の時、自由律俳句の道に入った私も、早くも八十二歳という歳になりました。二十五年という句歴を持ちながら、相変わらず大成しきれない私ですが、これからも自分の道を進みながら、独自のポエジーを探求してゆきたいと思っています。

 独自のポエジーとは、彼にとっては、自分自身の哀歓を人生の哀歓に敷衍して俳句を書くことであろう、と思う。そこにいささかのユーモアとペーソスを同居させているのだ。 それは当然ながら老いを詠んだ句にも通じている。本集は平成二十五年以降の句を収めるが、「昨年、心臓を悪くしてペースメーカーを入れたこともあり、するべきことはなるべくしておこう、という気持ちに後押しされたことも決断の理由」(「あとがき」)と句集刊行の動機を語っている。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  笑いとばして咳きこんでいる
  眠っちゃいけないのにねむたい世の中だ
  まだあきらめないぞジャンケンはこれから
  一生が夢であってもあなたは夢じゃない
  泣く場所がないから泣かない男でいる
  もがいたら沈む じっと浮いていよう
  何もこわくない命という切札があれば
  背骨のかたちに老いがきている
  一匹残った蚊のさびしさがたたけない
  曲がった胡瓜のなかにまっすぐな味がある
  雲がみな同じ方に流れる空の憂鬱
  ことばがみんな劣化したから黙っている
  コツンと割った卵から朝があふれる  

久光良一(ひさみつ・りょういち) 1935年、朝鮮平安南道安州邑生まれ。 



2017年6月9日金曜日

可野謙二「母は海漁師魂と枇杷の島」(「風工房」)・・・



             レターパックに貼りつけられたチラシ↑

 可野謙二、愚生が彼に最初に会った二十歳のころは(立命館二部学生)、さとみ謙作と名乗っていた。
当時、彼はすでに愚生より10歳くらい年上だったように思う。以来、彼に会っていない。ただ、彼は九州の山中でテント生活をしている、と聞いていた。放浪もしていた。そんな折、愚生の子どものために、山の木を切って、牛や馬の玩具を作り、影絵の写真なども贈ってきてくれた。だから小さかった子どもたちは、彼のことを「牛のおじさん」と呼んでいた。
 また、どんぐりや椎の実もどっさり、料理のレシピ付きで贈ってきてくれたりした。現地では影絵芝居を作っては、近所の子どもたちに見せていたと思う。
そこは、番外地画廊という名だった。ともかく彼の生活ぶりもまったく知らないのだが、便りにはいつも、俳句(狂句)などがしたためられていた。パロデイ―で「たんぽぽのぽぽのあたりで風にのれ~」「我と来て遊べよヘソのない蛙」などである。
今回の便りには、上関原発を建てさせない祝島島民の会の「御礼とご報告」のチラシ貼りつけ(上掲写真・平成29年3月)のものや、亡くなった土方巽や、牧田吉明のリビア(1980年頃)での写真と一緒に幾つかの影絵物語「不知火のエビガレ」「ひだ民話ーしまった!!オオカミ」などの写真も入っていた。
そういえば、彼と愚生を結んでいた京都・玄文社の厚見民恭もすでに亡くなっている。


~ひだ民話「しまった!!オオカミ」

祭りばやしの笛の音に誘われるように、おなかをすかしたオオカミがふもとに下りてきました。
うむ、「何か食べる物はないか」とあたりをみまわしていると、向こうからひきゃくが走ってきます。
「しめたあいつを食ってやろう」
オオカミは、道のまんなかに大きな口をあけてまちかまえた。
ところが ひきゃくは いそがしいので オオカミなんかにかまっていられません。
みちのまんなかをタッタッタッと かけていってしまいました。
「しまった!! ふんどしをしとけばよかった」とオオカミはたいへんくやしがりました。

 俳句はもちろん独学の彼は、俳句をやっている愚生のために、これまでもその折々の句を便りにしていた。
今回の句の幾つかを以下に・・・。


   3.11春の心の置き所なし     謙二
   山怒る核汚染どうしてくれる
   母は海三界一同にひらく海の花
   地震降りて闇一頭のいななきを聞けり
   汚染水垂れ流すなよ魚怒る

 今度初めて知ったのだが、彼の生まれは山奥らしいが、どうやら和歌山県中辺路町内井川というところだという。その彼も、もう八十歳の方が近いはずだ。いまだ医者いらずの生活だとか・・比べて愚生は年齢相応、それなりに持病持ちの薬湯だのみだ・・・,嗚呼。
 そうそう、思い出したことがある。今は「豈」同人でもある堀本吟と北村虻曵の方が(両人が俳句を作りはじめる以前のことだから)、もしかしたら愚生よりも可野謙二と付き合いが深く、彼のことをよく知っているかもしれない。




   
 

2017年6月7日水曜日

樋上照男「街灼ける廃墟の壁にグラフィティー」(『丸太小屋』)・・



 樋上照男『丸太小屋(ログハウス)』(現代俳句協会)、集名は次の句からだろう。

   蜩の森透き通る丸太小屋(ログハウス)    照男

序文は宮坂静生、以下のように述べている部分がある。

 作者には、自然科学者特有の明快な対象把握に率直な情感が滲む句が多い。が、出会いの初めから大阪の下町人情がらみの写実句があり、樋上照男の俳句の基盤(べース)にある写実性こそまた科学者が立ち上がる出発点でもあったことを思わせるのである。

ただ、愚生のような科学に疎い者には、正直わからない専門用語・言葉がある(もっともそれが一句に効果をもたらしているのだが・・)。例えば、メスフラスコ、ビュレット、中性微子(ニュートリノ)など。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  秋風のふきゆく果や壺の中
  菊人形艶やかなれば死のにほひ
  霾天や大地の裂けし日の記憶
  炎天や化石となりし波の痕
  戦争が嫌で揚羽は森に消ゆ
  ビュレットの水際(すいさい)読みて春兆す
  メーデーや岳都の空にシュプレヒコール
  桔梗咲き何か覚悟のやうなもの

樋上照男(ひのうえ・てるお)、1952年、大阪府守口市生まれ。



2017年6月6日火曜日

川村研治「おほかたの蟻はといへば行つたきり」(『ぴあにしも』)・・

 

 川村研治第二句集『ぴあにしも』(現代俳句協会)、第一句集『花野』(昭和61年刊)以後、平成25年までの570句を収める。「あとがき」に、

  俳句に対する考え方は千差万別であろうが、自分の言いたいことを叫んだり、考えを押し付けるのではなく、読者の懐にしずかに入りこんでゆく、といったことをこれからも考えていきたいと思っている。そうしたことから句集名を「ぴあにしも」とし、以後の自分の行き方の指標にしたいと思っている。

とある。ただ、次の句などが集名の由来に近いのではないかとも思ったりするのだが・・・。

  ピアノピアニッシモ猫の子が眠る

どうやら、猫好きの人でもあるようだ。集中に猫の句も多い。ただ開戦日には、また敗戦日にはかかさずその日の句も詠んでいるようだ。こうした社会的な素材を詠む場合も「あとがき」に記した心持ちが生きている。アトランダムに句をあげると、

  テロありしより綿虫の夏もとぶ     研治
  九月十一日ペンギンのぺたぺた歩き 
  舌出して眠る黒猫終戦日
  太陽が白い十二月八日かな
  海牛の背中が乾く昭和の日 
  屋上は土砂降り憲法記念の日
  フーコーの振り子ゆつくり終戦日
  十二月八日眼鏡の塵ぬぐふ

ともあれ、他にもある印象的な句を以下にいくつか挙げておきたい。

  バレンタインデーふりむかぬ猫呼んでおり
  冴返るものそのもののかたちかな
  月白や枕に穴があいてゐる
  日脚伸ぶ雀にもある影法師 
  なんたること蟻が我より早かりき
  人はみな花のあたりをさまよへる
  雛飾るいくたび父のほろびしか
 
川村研治(かわむら・けんじ)昭和14年、東京都生まれ。




  

2017年6月5日月曜日

宗本智之「さつき咲く白より白く日を返す」(『かたこと~旅人~』)・・



  宗本智之『かたこと~旅人~』(牧歌舎)、前書き「気まぐれの続き」の冒頭付近に以下のように書かれている。

 二〇一四年、第一句集『かたこと~旅始~』出版。あれから三年、自分のための作句といえど、さすがに朝日新聞俳壇八度目入選から約一年九ヶ月。毎週、選りすぐりの俳句が、ことごとく落選していき、楽しいはずがない。月曜日が、その入選句発表なのですが、もはや月曜日恐怖症に。そんな中、北の句会の皆様の応援と、銀遊句会での、皆様のご共感だけが、なんとか私を繋ぎとめていました。

 確かに、新聞俳壇に入選することは彼にとって励みだったのかもしれない、と思う。だが、と愚生は思った。かつて折笠美秋は筋委縮性側索硬化症で、「雪うさぎ溶ける 生きねば生きねばならぬ」「燕ら去る西空 俺 死んでたまるか」「気管切開(のど)(さ)かれて声失う 大雪来ているという」「呼吸(いき)ととのう 菜の花明り 胸明り」(『君なら蝶に』)などと詠んだ。それらの句は新聞俳壇に投句し入選するためにではなく、俳句のために句を書き、その俳句に共感してくれる人のために句を書いていた、というように思われる。新聞俳壇の句の多くが、言えば語弊があるかも知れないが、俳句の本流ではなく、ある種の平均的な通俗的な俳句象しか示していないことは、むしろ自明のようである。だから宗本智之が奇しくも「北の句会」「銀遊句会」での皆様の共感だけが、私を俳句に繫ぎとめていた、というのはむしろ正しい在り様だと思うのである。
 今回の句集は第一句集からのち、三年間に創った五千句以上から選句し、

 句集の形式は作句した年月別。(中略)各月前半五句は朝日新聞俳壇投句及びに二〇一一年三月から始めているブログ「一日一句」(URLは、http://beagle510.blog52.fc2.com/)の掲載句、それから後半に未投句、未発表句を五句、羅列しています。二〇一一年六月からは、生活環境変化により、朝日俳壇投句及びブログ掲載句を十句羅列しています。

ともあった。解説に時田幻椏「句集『かたこと ~旅人~』に寄せて」、跋文には北村虻曵「野を遊ぶ」と堀本吟「撓る生命線」。また「あとがき」には、

デュシェンヌ型筋ジストロフィーという遺伝子疾患で寝たきりの生活をしている私は、常に出来ることを模索し、やり続けてきました。理学博士号取得以降、気管切開手術を受けてからこれが五冊目の出版です。少し難しい生活の中ですが、こうして自由に数々の活動ができるのも、皆様の応援のおかげです。いつもありがとうございます。

とある。あわせて巻末著者略歴を読むと、エッセイ『私の世界』、画集『心の旅』、詩集『七色の詩』などを出版するなど、著者の並々ならぬ行動力と精神力を思う。ともあれ、句集からいくつかの句を挙げておきたい。

    名月を含めば杯の重さかな    智之
    春めくや光は胸に音を打つ
    日の人となりて真夏の匂ひかな
    立秋の空の匂ひを嗅ぎにけり
    秋深し褪せて初めの色に帰す
    息白し我が霊魂の使ひ捨て
    山眠る光の呪文届くまで
    手の触れて森閑とする凍の朝

宗本智之(むねもと・ともゆき)1978年、大阪府守口市生まれ。



 

2017年6月4日日曜日

清水径子「ロシア向日葵の種です古沢太穂居ない」(「SASKIA」10号より)・・



 「SASKIA」10号は三枝桂子の個人誌である。今号の一冊はほぼまるごと清水径子の特集である。三枝桂子選による清水径子二百五十句。論考は、特別寄稿に皆川燈「まろびてつかむ抒情の水脈」、三枝桂子「輝けるこの世の俳句」である。
ブログタイトルにした清水径子の句は、巻頭の三枝桂子のミニエッセイ「俳縁」からの抽出である。それによると、

 この句は、清水径子の句集には収録されていない。句会に出句されてそのままになった。句会記録ノートには二〇〇一年七月二十日の日付がある。径子の自宅で開かれていた句会には毎月七句を出句した。そのうちごく一部を、径子は誌上に発表していたようだ。句集に収録される句はさらに厳選される。この句は最初の段階で自選を通過しなかったのだから活字にもなっていない。口語を重ねた直裁的な句だが、この句は心に残った。太穂からロシヤ向日葵の種を貰ったことがある、というエピソードを句会の席で聞いたためかも知れない。

と書かれている。太穂を偲ぶ貴重な句であろう。また、このエッセイの末尾あたりに、「一九九六年、太穂は径子の義兄秋元不死男らと共に『横浜俳話会』を発足させている。三人とも横浜住まいだった」ともあった。その横浜俳話会は現在もなお続いていて、流派を越えた俳人たちの組織として活発に活動している。
 特別寄稿の皆川燈は、清水径子「まろびてつかむ二十数年前の雪」の句から永田耕衣との出会いを次のように描いている。

 径子が俳句に希求したのは、十七文字でいかに人間の生死の一刹那を、魂のリアリズムとして切り取るかということだった。いや、他のどんな表現形式よりもこの短さと、季語という精神風土に根差した詩語の組合せよってこそ、人は時空を飛び越えて魂と魂との直接的な交感ができるはずだ。この句で径子は魂の通路を「まろぶ」という捨て身の、いささかユーモラスな動きで突破し、「二十数年前の雪」へとワープした。そしてそれは、たしかに耕衣に届いた。
 
 そして、もう一考、三枝桂子「耀けるこの世の俳句」は、秋元不死男の俳句「もの」説を丁寧にたどりながら、清水径子の俳句の在り様を語って出色である。また、清水径子・二百五十句に目を通すと、改めてその句の見事さに魅かれるのであった。
ともあれ、以下には三枝桂子「若草文字」30句からいくつかを挙げておきたい。

   きさらぎを蒼く滴るまま通る     桂子
   うしろうしろ蝶のしるしのはぐれもの
   肉声を聞くように聴く春の雨
   蟷螂の杖堕ちている古奈落
   いま石をしずかに産んできた時雨




日野百草「玉砕の島より鷲の羽ばたけり」(「俳誌展望」第175号)・・・



「俳誌展望」第175号(全国俳誌協会機関誌・会長 秋尾敏)は第一回全国俳誌協会協会賞・新人賞の発表記事である。協会賞に日野百草、奨励賞に山口明(選考委員は大牧広・高野ムツオ・秋尾敏・佐怒賀正美・能村研三)、新人賞は該当なしだが、能村研三奨励賞・松尾清隆、佐怒賀正美奨励賞に石川ゆめが受賞している(選考委員は秋尾敏・能村研三・佐怒賀正美)。以下に一人一句を紹介する。

  出稼ぎの父春泥を押し戻す     日野百草(昭和47年、千葉県生)
  生業の冬旨みあろうとなかろうと  山口 明(昭和22年、吉川市生)
  河骨のめぐり夜空のやうに水    松尾清隆(昭和52年、神奈川県生)
  老婦人笹舟に無邪気をのせている  石川ゆめ(昭和56年生)

因みに、第23回全国俳句コンクール協会賞は、

  日向ぼこ吾を忘れし母を抱く    奥村利夫

であった。




*閑話休題・・・

『「引用」ってなに 著作権Q&A Ⅱ』2017年5月版(日本文藝家協会)の冊子のコラムに篠弘(歌人・日本文藝家協会副理事長)が「俳句や短歌、詩歌の引用について」と題して、冒頭に以下のように記している。

  よく短歌・俳句の月刊誌の「表紙裏」に、近刊紹介として数首・数句が、全くのコメント無しで載る習慣があります。また。近刊諸誌から数人の話題作などが、単に抽出されることもありますが、これらのことは、止めるべきだと思います。

たぶん、多くの俳人は、とにかく自分の句がのれば名誉なことだと思って、ゆるしている習慣があるが、なかに著作権にうるさい御仁がいて、勝手に無断で引用掲載されるのは不都合だと訴えられたら厳密な法律的解釈のもとではダメなのかも知れない。
 とはいえ、篠弘が述べている以上に、多くの結社誌においては、主宰の作品がどの雑誌に掲載されたとか、その転載文まで無断で行われているようだ。お互い褒めあおうという気分の蔓延がそうさせているのだろうが、ほとんど宣伝・顕示欲のかたまりのようで少しうんざりすることもないではない。ただ、読者としては、いちいち見なければいいだけのことだ。ただ、著作権を管理する側としてはそれは困る出来事になるのだろう。



2017年6月3日土曜日

東徳門百合子「火事に入る兵隊古き井戸を出て」(佐々木通武『影絵の町』出版記念会より)・・・・


             佐々木通武氏↑

 今日は佐々木通武短編集『影絵の町ー大船少年記』(北冬書房)の出版記念会が日本キリスト教会館で行われた。ほぼ十年ぶりくらいに会う人もいて、さすがに年齢を重ねた分の老い皺が思われたが、それは愚生も同じように見えたにちがいない。
 会は、冒頭の挨拶に、版元・北冬書房の高野慎三氏から始められた。
 ブログタイトルに挙げた句は当日配布されたコピーに掲載されていた東徳門百合子(ひがしとくじょう・ゆりこ)「『影絵の町』ー大船少年記ーに寄せて」の21句のうちの一句である。つまり『影絵の町』19章を下敷きにしながら各章に句を献じたものである。上掲句は第4章「赤い闇」のものだ。
他にも、

  6章 我が観世音 死を想ふ蛇口を落つる秋の水
 12章 他人の家  山吹をもらふ昔の家訪ね
 14章 終りの雪  先生の好きな子ばかり着ぶくれて 
 18章 真昼の決闘 決闘は僕らが矜持杉の花

などがあった。




じつは愚生の5月16日のブログで、佐々木通武にはすでに三冊の句集があって。その第一句集が『監獄録句』であったのを、第二句集と誤記してしまっていた。ここに訂正しておきたい。正確には、第一句集『監獄録句』、第二句集『借景』(2003年刊)、そして第三句集『反射炉』(短歌も収載)である。改めて読み直すと『監獄録句』は一ページ六句組となっていて、録句の命名と連動したものであった。ここでは前回第二句集『借景』が見つからず、句を載せなかったので、あらためていくつかの句を『借景』より挙げておきたい。

   反テロの囀り猛し国家っテロ    通武
   冬木立他力を頼む自力かな
   足病みし汝に声枯れて山の月
   汝が母を母さんと呼び遅桜
   曼陀羅や日本チャチャチャ梅雨の夢
   陽を借りて陽を引き取りて秋霞




2017年6月2日金曜日

安井浩司「句の兄ら一牛鳴地でのたうてり」(『烏律律』)・・



安井浩司『烏律律』(沖積舎)、句数はまたまた一千句をはるかに越す。「あとがき」には、

 本集は、前著『宇宙開』(平成二十六年刊)を継ぐかたちで生まれたものである。前著をもって「句篇」(全)の終結を願望していたにも拘わらず、その後、わずか三年で姿を現わすこととなった。敢えて申せば、その”烏律律”としての無限のポェトリーの湧出を如何ともしがたく、ここに自然のままに”混沌”の一巻を落掌する外はなかったことである。俳句形式の原理を君達に任せ、ただ湧くがままに在る外ないだろうと、今日の自分を信ずるだけだ。

とあった。「烏律律」(うりつりつ)・・、どうやら道元の語録にある「一対眼精烏律律」の訳から推測すると、この前にある「以前鼻孔大頭垂」とともに、いくら悟りをひらいても、従前とおり鼻は大きな顔に垂れ、「両眼は変わらず黒々としている」ということらしい。とはいえ一千句以上を読むのは愚生には、辞書類を片手にしなければ、その意味さえ不明の句が多い。しかし、言葉ひとつひとつが難しい漢字というわけではなく、むしろ普通の漢字なのであるが、造語(慣用句)めいたものも多く(永田耕衣ゆづり?か・・)、根気がいる。にもかかわらず読者は、退屈どころか、句に引き込まれていくのは筆力と詩想のなせるわざというべきか。
様々に句を読む醍醐味、句を読む楽しみ、ブログタイトルにした「句の兄ら」のとおり、幾人もの先達俳人を想像させる句も多く、渉猟の興味は尽きない。
 また、安井浩司の誕生日は、次の句にあるとおり。

     二月二十九日生
  似たる日の生死微苦笑久米三汀
       「微苦笑」は久米正雄造語

だから、今年八十一歳になるという安井浩司は、うるうの年に限れば、まだ二十歳を超えたばかりだ。世間でいう傘寿越えの安井浩司にとってのこれより先の詩の道行は、敬愛してやまない西脇順三郎と永田耕衣の二人くらいになったかもしれない。もはや誰追う人も無き一人旅の様相である。
 引用したい句はいくらでもあるが、愚生の好みによるいくつかの句に限らせてもらおう。

   天皿(あまざら)は自ずと回る寒の果て    浩司
   幻のむらさきの童(こ)が吹雪なか
   似我蜂が飛びくる唇(くち)の酒舐めに
   楓紅葉の土中まで血を降ろすのか
   春塵校庭三鬼がふらり現われる
   耕衣絵の柘榴の戦意感じたり  
   浜荻や天語(あまこと)歌の聴こえつつ
   雪の家叫ぶや老児生まれたと
   献体の老妻剖(さ)かる叫びいま
   子宮みな落とし行くのか野の女兵
   詩父逝けば山と海辺の墓ふたつ
       初重をひらけば獏の睾丸よ
   夏草や井戸は底息吐くばかり
   石墓のまま孕みおり永久の妻
   いちめんに宇宙の静脈秋初(あきは)
   行く雁にわが涙して人間(じんかん)や